2021年11月5日(金) 〈前半〉
今週は好天が続いたが、週末に久しぶりに川越市に出かけることにした。
西武新宿線の終点、本川越駅に9時43分に着き、9時47分に東口をスタートする。

駅の北東側から、北に延びる中央通りを進む。

700mほど進み、まずは通りの西側にある連馨寺(れんけいじ)へ。

天文18(1549)年創建の浄土宗の寺院で、呑龍(どんりゅう)上人が祭られてい
ることから「呑龍さま」とも呼ばれ、毎月8日には縁日(えんにち)が開かれる。
川越七福神の福禄寿↑の寺でもあり、本堂前面にはおびんづる様や和顔地蔵尊が祭られ
いている。

本堂前の水舎(みずや)は、明治26(1893」)年の川越大火の際、鐘つき堂とと
もに焼け残ったとか。


次の仲町交差点から札の辻交差点までの300m余りは、通りの両側には土蔵造りの家
並みが続いている。


この洋館は、埼玉りそな銀行川越支店。大正7(1817)年に第八十五銀行本店とし
て建設されたもので、国登録有形文化財である。

次の交差点を右(東)に入ってすぐ、川越のシンボルとして知られる時の鐘がある。

現在の鐘は、川越大火後の明治27(1894)年の再建という。

こちらは川越まつり会館。毎年10月に開催される川越まつりで曳かれる本物の山車2
台を定期的に入れ替えて展示しており、日曜日にはお囃子の実演もあるとか。

郵便局も蔵造り(川越元町郵便局)

札の辻交差点の先まで進み、次のT字路手前の広済寺に立ち寄る。



山門を入って右手のお堂には、2つの変わったお地蔵さんが並び立つ。
右は咳(しわぶき)地蔵尊↑で、左は無腮(あごなし)地蔵尊↓という。

そばのT字路を右折して東へ、さいたま地方裁判所前を過ぎる。

さらに少しで川越総鎮守の氷川神社前へ。


正面の石鳥居を入ると正面に拝殿があり、背後には本殿が。


さらに周辺には幾つもの社殿が祭られている。境内には、女子高校生の団体や若い女性
の姿が多い。


こちらの小さい社殿は柿本人麻呂神社。隣には山上憶良の歌碑も。


拝殿の背後に回ると、本殿の左手にたくさんの絵馬が奉納されていた。

覆い屋を囲む木柱の隙間から撮った本殿の木彫


小さな社殿の川越市護国神社は、西南の役以降の川越出身の英霊2970柱を祭り、昭
和10(1935)年の社殿改築遷座祭には、山本五十六中将(当時)も参列したという。


ガラス製風鈴の近くに、ツワブキが咲く。

東側の大鳥居から川越氷川神社を出た。

この大鳥居は、平成の御代替わりを祝して平成2(1990)年に建立されたもの。高
さ15m、笠木の幅20m,柱周3.45mあり木製の鳥居としては国内随一とか。扁額
の文字は幕末の幕臣・勝海舟の直筆のよう。
氷川神社の東南側のT字路を南に向かうと、川越まつりの大きな山車蔵がある。

細い通りを少しだけ東進してもうひとつ南側の通りに出て、川越市立美術館に11時2
分に着いた。

今日一番の目的は、ここで開催中の特別展「没後70年 吉田博展」(観覧料 大人
600円)の観覧である。そのチケットとリーフレット

会場は撮影禁止なので、リーフレット裏面に紹介された作品の一部を。
帆船 朝 大正15(1926)年

光る海 大正15(1926)年

渓流 昭和3(1928)年

タジマハルの朝霧 昭和7(1932)年

川越之櫻 昭和10(1935)年

写生帖 昭和5~6(1930~31)年
会場はプロローグからはじまり、第1章から第11章、エピローグまでに分けて、あわ
せて194点の作品が展示されていた。
エピローグの作品中には水彩と油彩画4点があるが、それ以外はすべて木版画、中には
88刷とか90刷という作品もあり、木版画とは思えぬ緻密なものが多い。
ほぼ1時間かけて、アメリカや欧州、日本アルプス、瀬戸内海、富士山、東京、日本各
地、南アルプス、印度と東南アジア、関西、桜、北朝鮮と韓国などの風景を観賞した。
そばの常設展や、相原求一郎(川越出身の洋画家)記念室なども観賞し、12時08分
に川越市立博物館を後にした。
東側に隣接して川越市立博物館があるが、今日は観覧せずに南に向かう。

南側一帯は川越城跡で、すぐ南東にある横長の建物は川越城本丸御殿。

嘉永元(1848)年の建立で、東日本では唯一現存する本丸御殿のよう。
道路を隔てて東側に、は朱塗りの社殿が目立つ三芳野(みよしの)神社があり、社殿は
県指定文化財。

川越城の鎮守として、城主酒井忠勝により再建されたとされており、南に延びる参道は
わらべ唄「とおりゃんせ」発祥の地と言われているという。


境内西側に並び立つ「わらべ唄発祥の所」碑と「川越城七不思議」碑

拝殿前には「川越城七不思議」説明パネルもあるが、詳細は省く。
参道を南に進むと、東側の広場にたくさんの幼稚園か保育園の園児たちが昼食休憩宮中。

この後、さらに南進して喜多院に向かう。(続く)
今週は好天が続いたが、週末に久しぶりに川越市に出かけることにした。
西武新宿線の終点、本川越駅に9時43分に着き、9時47分に東口をスタートする。

駅の北東側から、北に延びる中央通りを進む。

700mほど進み、まずは通りの西側にある連馨寺(れんけいじ)へ。

天文18(1549)年創建の浄土宗の寺院で、呑龍(どんりゅう)上人が祭られてい
ることから「呑龍さま」とも呼ばれ、毎月8日には縁日(えんにち)が開かれる。

川越七福神の福禄寿↑の寺でもあり、本堂前面にはおびんづる様や和顔地蔵尊が祭られ
いている。


本堂前の水舎(みずや)は、明治26(1893」)年の川越大火の際、鐘つき堂とと
もに焼け残ったとか。


次の仲町交差点から札の辻交差点までの300m余りは、通りの両側には土蔵造りの家
並みが続いている。


この洋館は、埼玉りそな銀行川越支店。大正7(1817)年に第八十五銀行本店とし
て建設されたもので、国登録有形文化財である。

次の交差点を右(東)に入ってすぐ、川越のシンボルとして知られる時の鐘がある。

現在の鐘は、川越大火後の明治27(1894)年の再建という。

こちらは川越まつり会館。毎年10月に開催される川越まつりで曳かれる本物の山車2
台を定期的に入れ替えて展示しており、日曜日にはお囃子の実演もあるとか。

郵便局も蔵造り(川越元町郵便局)

札の辻交差点の先まで進み、次のT字路手前の広済寺に立ち寄る。



山門を入って右手のお堂には、2つの変わったお地蔵さんが並び立つ。

右は咳(しわぶき)地蔵尊↑で、左は無腮(あごなし)地蔵尊↓という。

そばのT字路を右折して東へ、さいたま地方裁判所前を過ぎる。

さらに少しで川越総鎮守の氷川神社前へ。


正面の石鳥居を入ると正面に拝殿があり、背後には本殿が。


さらに周辺には幾つもの社殿が祭られている。境内には、女子高校生の団体や若い女性
の姿が多い。


こちらの小さい社殿は柿本人麻呂神社。隣には山上憶良の歌碑も。


拝殿の背後に回ると、本殿の左手にたくさんの絵馬が奉納されていた。


覆い屋を囲む木柱の隙間から撮った本殿の木彫


小さな社殿の川越市護国神社は、西南の役以降の川越出身の英霊2970柱を祭り、昭
和10(1935)年の社殿改築遷座祭には、山本五十六中将(当時)も参列したという。


ガラス製風鈴の近くに、ツワブキが咲く。

東側の大鳥居から川越氷川神社を出た。

この大鳥居は、平成の御代替わりを祝して平成2(1990)年に建立されたもの。高
さ15m、笠木の幅20m,柱周3.45mあり木製の鳥居としては国内随一とか。扁額
の文字は幕末の幕臣・勝海舟の直筆のよう。
氷川神社の東南側のT字路を南に向かうと、川越まつりの大きな山車蔵がある。

細い通りを少しだけ東進してもうひとつ南側の通りに出て、川越市立美術館に11時2
分に着いた。

今日一番の目的は、ここで開催中の特別展「没後70年 吉田博展」(観覧料 大人
600円)の観覧である。そのチケットとリーフレット


会場は撮影禁止なので、リーフレット裏面に紹介された作品の一部を。
帆船 朝 大正15(1926)年

光る海 大正15(1926)年

渓流 昭和3(1928)年

タジマハルの朝霧 昭和7(1932)年

川越之櫻 昭和10(1935)年

写生帖 昭和5~6(1930~31)年

会場はプロローグからはじまり、第1章から第11章、エピローグまでに分けて、あわ
せて194点の作品が展示されていた。
エピローグの作品中には水彩と油彩画4点があるが、それ以外はすべて木版画、中には
88刷とか90刷という作品もあり、木版画とは思えぬ緻密なものが多い。
ほぼ1時間かけて、アメリカや欧州、日本アルプス、瀬戸内海、富士山、東京、日本各
地、南アルプス、印度と東南アジア、関西、桜、北朝鮮と韓国などの風景を観賞した。
そばの常設展や、相原求一郎(川越出身の洋画家)記念室なども観賞し、12時08分
に川越市立博物館を後にした。
東側に隣接して川越市立博物館があるが、今日は観覧せずに南に向かう。

南側一帯は川越城跡で、すぐ南東にある横長の建物は川越城本丸御殿。

嘉永元(1848)年の建立で、東日本では唯一現存する本丸御殿のよう。
道路を隔てて東側に、は朱塗りの社殿が目立つ三芳野(みよしの)神社があり、社殿は
県指定文化財。

川越城の鎮守として、城主酒井忠勝により再建されたとされており、南に延びる参道は
わらべ唄「とおりゃんせ」発祥の地と言われているという。


境内西側に並び立つ「わらべ唄発祥の所」碑と「川越城七不思議」碑

拝殿前には「川越城七不思議」説明パネルもあるが、詳細は省く。
参道を南に進むと、東側の広場にたくさんの幼稚園か保育園の園児たちが昼食休憩宮中。

この後、さらに南進して喜多院に向かう。(続く)