午前中は雲が多く冷え込んでいましたが、午後に
なり次第に雲が消えて、快晴になりました。
昼食後、いつも回っている所沢航空記念公園まで
ウオーキングに出かけました。
そろそろロウバイが見ごろではないかと思い、ロウ
バイ園を目指しましたが、あわせて今日は、園内に
ある4つの記念碑(像)も巡ることにしました。
公園の西北にある市立図書館横から南に向かい、
日本庭園のある彩翔亭(さいしょうてい)の入口近く
には、「大正天皇御駐輦之碑」が立っています。
この地が所沢飛行場だった大正時代に、行幸され
たものと思われますが、時期などを記したものは何
もありません。
彩翔亭と南側台地下にある硬式野球場との間には、
「フォール大佐の像」があります。
フォール大佐は、フランス陸軍の砲兵大佐で、大正
8年(1923)1月、63名のフランス航空教育団長と
して来日、約19か月にわたり航空技術の指導教育を
し、わが国航空界の発展に貢献した人です。
彩翔亭の北側の広い芝生地などの前を東に進めば、
目的のロウバイ園があります。
ロウバイの数は30本前後かと思いますが、かなり
花開いていました。
向こうに見えるのは、所沢航空発祥記念館と航空
自衛隊で使用していた飛行機。
さらに東へ、中央の高い塔の先まで進むと、「少年
航空兵像」が空を向いています。
この像は、昭和18年(1943)、彫刻家・長沼孝三
氏(1908~93)が第2回大東亜戦争美術展に出品
し、翌19年5月、この地にあった所沢航空整備学校
内に建立されたものです。
翼を抱いて空を見上げる3人の姿は、当時の少年
飛行兵や整備兵のシンボルとされていました。
戦後、この地は米軍基地として接収、昭和46年
(1971)の基地返還後、痛みが激しかった像を保存
しようと、平成9年2月、長沼孝三彫塑館(山形県長井
市)の協力で修復工事を行ったとのことです。
園内南東側を回るジョギングコースを東南端に下り、
池の横に出ました。
周辺の桜やケヤキなど、皆枯れ枝のまま。
池の南側、大きく伸びたメタセコイアも同様です。
西に少し戻った芝生広場付近には、1番大きな
「木村・徳田中尉像」が立っています。
大正2年(1913)3月28日、所沢飛行場を離陸した
両中尉搭乗のプレリオ機は、青山練兵場に着陸して、
貴族院・衆議院議員の観覧及び説明後、帰航の途に
つきました。
ところが、所沢飛行場の北東約1.5㎞の地で、突風
により翼を破壊され、両中尉は飛行機とともに墜落し、
わが国初の航空犠牲者になり、国民のすべてが深く
その死を悲しみました。
当時の「やまと新聞」が義援金をつのり、墜落地点に
記念塔を建て、両中尉の英姿を銅像として残しました。
墜落地が交通不便で訪れる人が少ないので、西武線
所沢駅前、西武園、航空自衛隊入間基地へと順次移設
され、昭和55年(1980)3月、航空発祥の地であるここ
に落ち着いたのです。
このように、園内にある記念碑はいずれも、この地が
所沢飛行場だったときのゆかりのものです。
公園の西南、西新井町交差点で公園を離れ、いまは
ちょっとさびれた銀座通りを経て、帰途につきました。
なり次第に雲が消えて、快晴になりました。
昼食後、いつも回っている所沢航空記念公園まで
ウオーキングに出かけました。
そろそろロウバイが見ごろではないかと思い、ロウ
バイ園を目指しましたが、あわせて今日は、園内に
ある4つの記念碑(像)も巡ることにしました。
公園の西北にある市立図書館横から南に向かい、
日本庭園のある彩翔亭(さいしょうてい)の入口近く
には、「大正天皇御駐輦之碑」が立っています。
この地が所沢飛行場だった大正時代に、行幸され
たものと思われますが、時期などを記したものは何
もありません。
彩翔亭と南側台地下にある硬式野球場との間には、
「フォール大佐の像」があります。
フォール大佐は、フランス陸軍の砲兵大佐で、大正
8年(1923)1月、63名のフランス航空教育団長と
して来日、約19か月にわたり航空技術の指導教育を
し、わが国航空界の発展に貢献した人です。
彩翔亭の北側の広い芝生地などの前を東に進めば、
目的のロウバイ園があります。
ロウバイの数は30本前後かと思いますが、かなり
花開いていました。
向こうに見えるのは、所沢航空発祥記念館と航空
自衛隊で使用していた飛行機。
さらに東へ、中央の高い塔の先まで進むと、「少年
航空兵像」が空を向いています。
この像は、昭和18年(1943)、彫刻家・長沼孝三
氏(1908~93)が第2回大東亜戦争美術展に出品
し、翌19年5月、この地にあった所沢航空整備学校
内に建立されたものです。
翼を抱いて空を見上げる3人の姿は、当時の少年
飛行兵や整備兵のシンボルとされていました。
戦後、この地は米軍基地として接収、昭和46年
(1971)の基地返還後、痛みが激しかった像を保存
しようと、平成9年2月、長沼孝三彫塑館(山形県長井
市)の協力で修復工事を行ったとのことです。
園内南東側を回るジョギングコースを東南端に下り、
池の横に出ました。
周辺の桜やケヤキなど、皆枯れ枝のまま。
池の南側、大きく伸びたメタセコイアも同様です。
西に少し戻った芝生広場付近には、1番大きな
「木村・徳田中尉像」が立っています。
大正2年(1913)3月28日、所沢飛行場を離陸した
両中尉搭乗のプレリオ機は、青山練兵場に着陸して、
貴族院・衆議院議員の観覧及び説明後、帰航の途に
つきました。
ところが、所沢飛行場の北東約1.5㎞の地で、突風
により翼を破壊され、両中尉は飛行機とともに墜落し、
わが国初の航空犠牲者になり、国民のすべてが深く
その死を悲しみました。
当時の「やまと新聞」が義援金をつのり、墜落地点に
記念塔を建て、両中尉の英姿を銅像として残しました。
墜落地が交通不便で訪れる人が少ないので、西武線
所沢駅前、西武園、航空自衛隊入間基地へと順次移設
され、昭和55年(1980)3月、航空発祥の地であるここ
に落ち着いたのです。
このように、園内にある記念碑はいずれも、この地が
所沢飛行場だったときのゆかりのものです。
公園の西南、西新井町交差点で公園を離れ、いまは
ちょっとさびれた銀座通りを経て、帰途につきました。
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