あるきメデス

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所沢航空記念公園の記念碑と記念像(埼玉)

2008-01-15 22:01:49 | 所沢だより
 午前中は雲が多く冷え込んでいましたが、午後に
なり次第に雲が消えて、快晴になりました。

 昼食後、いつも回っている所沢航空記念公園まで
ウオーキングに出かけました。




 そろそろロウバイが見ごろではないかと思い、ロウ
バイ園を目指しましたが、あわせて今日は、園内に
ある4つの記念碑(像)も巡ることにしました。

 公園の西北にある市立図書館横から南に向かい、
日本庭園のある彩翔亭(さいしょうてい)の入口近く
には、「大正天皇御駐輦之碑」が立っています。

 この地が所沢飛行場だった大正時代に、行幸され
たものと思われますが、時期などを記したものは何
もありません。

 彩翔亭と南側台地下にある硬式野球場との間には、
「フォール大佐の像」があります。

 フォール大佐は、フランス陸軍の砲兵大佐で、大正
8年(1923)1月、63名のフランス航空教育団長と
して来日、約19か月にわたり航空技術の指導教育を
し、わが国航空界の発展に貢献した人です。
 

 彩翔亭の北側の広い芝生地などの前を東に進めば、
目的のロウバイ園があります。

 ロウバイの数は30本前後かと思いますが、かなり
花開いていました。




 向こうに見えるのは、所沢航空発祥記念館と航空
自衛隊で使用していた飛行機。


 さらに東へ、中央の高い塔の先まで進むと、「少年
航空兵像」が空を向いています。

 この像は、昭和18年(1943)、彫刻家・長沼孝三
氏(1908~93)が第2回大東亜戦争美術展に出品
し、翌19年5月、この地にあった所沢航空整備学校
内に建立されたものです。

 翼を抱いて空を見上げる3人の姿は、当時の少年
飛行兵や整備兵のシンボルとされていました。

 戦後、この地は米軍基地として接収、昭和46年
(1971)の基地返還後、痛みが激しかった像を保存
しようと、平成9年2月、長沼孝三彫塑館(山形県長井
市)の協力で修復工事を行ったとのことです。

 園内南東側を回るジョギングコースを東南端に下り、
池の横に出ました。

 周辺の桜やケヤキなど、皆枯れ枝のまま。


 池の南側、大きく伸びたメタセコイアも同様です。

 西に少し戻った芝生広場付近には、1番大きな
「木村・徳田中尉像」が立っています。

 大正2年(1913)3月28日、所沢飛行場を離陸した
両中尉搭乗のプレリオ機は、青山練兵場に着陸して、
貴族院・衆議院議員の観覧及び説明後、帰航の途に
つきました。

 ところが、所沢飛行場の北東約1.5㎞の地で、突風
により翼を破壊され、両中尉は飛行機とともに墜落し、
わが国初の航空犠牲者になり、国民のすべてが深く
その死を悲しみました。

 当時の「やまと新聞」が義援金をつのり、墜落地点に
記念塔を建て、両中尉の英姿を銅像として残しました。

 墜落地が交通不便で訪れる人が少ないので、西武線
所沢駅前、西武園、航空自衛隊入間基地へと順次移設
され、昭和55年(1980)3月、航空発祥の地であるここ
に落ち着いたのです。 

 このように、園内にある記念碑はいずれも、この地が
所沢飛行場だったときのゆかりのものです。

 公園の西南、西新井町交差点で公園を離れ、いまは
ちょっとさびれた銀座通りを経て、帰途につきました。
 

 

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