2012年1月2日(月・祝)
今年の初歩きにと、東京都ウオーキング協会が毎年開催している江戸・東京七福神めぐり
に出かけた。
この七福神巡りは、東京23区内の7つの七福神を巡るもので、全部の7コースを巡り終
えると完歩記念品がもらえる。私は一昨年に巡り終えたが昨年は参加できなかったので、今
年が2巡目の最初となる。今回は、大黒天コースの新宿山ノ手七福神に参加した。
集合は、JR山手線の新大久保駅から東南5分ほどにある西大久保公園。ざっと70~
80人くらいの参加者が集まり、9時半過ぎから出発式を行い、9時45分に公園をスター
トした。
南側の職安通りに出る。新大久保からこの付近一帯には韓国系の店が多く、ハングル文字
の看板があちこちで目についた。
職安通りから南に入る区役所通りの角にあるのが、恵比寿神の稲荷鬼王神社。福瑳稲荷と
鬼王権現を合祀している神社で、江戸時代から豆腐を供えれば湿疹や腫れ物に特効があると
いう言い伝えが残っているという。
境内には、小さな恵比寿神社も祭られていた。
区役所通りの街路樹はカエデだが、まだ落葉せずにが残っていた。
新宿区役所の角で靖国通りに出て、暮れの酉の市で賑わう花園神社↑の前を通過し、明治
通りを横切る。
一つ南の花園通りに入り、もう一つ南の通りを少しで、境内の広い布袋尊の太宗寺(たい
そうじ)に入った。
慶長年間初頭(1596頃)、僧太宗の開いた草庵を前身とし、のち信州・高遠城主内藤
家の菩提寺として栄えたとのこと。
境内には、江戸六地蔵の一つで正徳2年(1712)に造られた銅像地蔵菩薩があり、都
の文化財に指定されている。
ほかに都最大という閻魔像などが焔魔堂に安置されているなど、文化財が多い。
靖国通りを越えて北に向かい、東京医科大の北側の細い通りを北に進む。
抜弁天通りの近くに、3番目の法善寺がある。この本堂には、極彩色の七面明神像が安置
されていて、「七面さん」とも呼ばれているという。
法善寺の寿老人は、こちらの建物の奥、高いところに祭られていた。
抜弁天を右に見て、抜弁天通りの北側に回って、福禄寿の栄福寺に詣でる。
万治2年(1659)の創建と伝えられる禅寺。本堂の前には、金銅の如来像と地蔵菩薩
が並んでいる。
福禄寿は、この小さいお堂に安置されていた。
すぐ東、Y字路の狭い一角にのぼりが並んでいるのが、抜弁天(ぬけべんてん)で知られ
る厳島神社である。
源義家が後三年の役で欧州に向かう途中、ここに厳島神社を祭って戦勝を祈願し、勝利の
後お礼に社を建てたと伝えられているという。
境内が南北に通り抜けできることから、また、義家が苦難を切り抜けた弁天様であること
から「抜弁天」といわれるようだ。
社はこのように小さいが、狭い境内の北側にテントが張られ、温かいお茶の接待があった。
地下に都営地下鉄大江戸線の走る、抜弁天通りを東に向かう。
市谷柳町交差点の近くに6つ目、大黒天の経王寺(きょうおうじ)があった。
このお堂に安置されている大黒天は、甲斐の身延山から移されたといわれ、15cmほど
の立像とか。たび重なる江戸の大火から焼失を免れたことから、火災を防止する「火伏せの
大黒天」として知られているという。
こちらが経王寺の本堂、コンクリート造りである。
さらに同じ通りを東に進む。
市谷小前交差点から一つ南の通りに回った。このあたりは二十騎町という初めて聞く町名。
どんないわれがあるのだろうか…。
最後の善国寺は狭いとのことで、中町あった中町公園で締めの話があり、完歩のシートを
もらう。
公園の北側には、音楽家・宮城道雄の記念館があった。
7番目、毘沙門天の善国寺はコンクリート造りのりっぱな本堂。参拝者もかなりいて賑わ
っていたが、カメラのモードがいつの間にか変わっていて、うまく撮れずで写真なし。
結構人出のある神楽坂通りを下り、11時55分に東京メトロ飯田橋駅に着いた。
(天気 晴、距離 公称10㎞、実測(カシミール3D) 7㎞、歩行地 新宿区、歩数
10,400)
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今年の初歩きにと、東京都ウオーキング協会が毎年開催している江戸・東京七福神めぐり
に出かけた。
この七福神巡りは、東京23区内の7つの七福神を巡るもので、全部の7コースを巡り終
えると完歩記念品がもらえる。私は一昨年に巡り終えたが昨年は参加できなかったので、今
年が2巡目の最初となる。今回は、大黒天コースの新宿山ノ手七福神に参加した。
集合は、JR山手線の新大久保駅から東南5分ほどにある西大久保公園。ざっと70~
80人くらいの参加者が集まり、9時半過ぎから出発式を行い、9時45分に公園をスター
トした。
南側の職安通りに出る。新大久保からこの付近一帯には韓国系の店が多く、ハングル文字
の看板があちこちで目についた。
職安通りから南に入る区役所通りの角にあるのが、恵比寿神の稲荷鬼王神社。福瑳稲荷と
鬼王権現を合祀している神社で、江戸時代から豆腐を供えれば湿疹や腫れ物に特効があると
いう言い伝えが残っているという。
境内には、小さな恵比寿神社も祭られていた。
区役所通りの街路樹はカエデだが、まだ落葉せずにが残っていた。
新宿区役所の角で靖国通りに出て、暮れの酉の市で賑わう花園神社↑の前を通過し、明治
通りを横切る。
一つ南の花園通りに入り、もう一つ南の通りを少しで、境内の広い布袋尊の太宗寺(たい
そうじ)に入った。
慶長年間初頭(1596頃)、僧太宗の開いた草庵を前身とし、のち信州・高遠城主内藤
家の菩提寺として栄えたとのこと。
境内には、江戸六地蔵の一つで正徳2年(1712)に造られた銅像地蔵菩薩があり、都
の文化財に指定されている。
ほかに都最大という閻魔像などが焔魔堂に安置されているなど、文化財が多い。
靖国通りを越えて北に向かい、東京医科大の北側の細い通りを北に進む。
抜弁天通りの近くに、3番目の法善寺がある。この本堂には、極彩色の七面明神像が安置
されていて、「七面さん」とも呼ばれているという。
法善寺の寿老人は、こちらの建物の奥、高いところに祭られていた。
抜弁天を右に見て、抜弁天通りの北側に回って、福禄寿の栄福寺に詣でる。
万治2年(1659)の創建と伝えられる禅寺。本堂の前には、金銅の如来像と地蔵菩薩
が並んでいる。
福禄寿は、この小さいお堂に安置されていた。
すぐ東、Y字路の狭い一角にのぼりが並んでいるのが、抜弁天(ぬけべんてん)で知られ
る厳島神社である。
源義家が後三年の役で欧州に向かう途中、ここに厳島神社を祭って戦勝を祈願し、勝利の
後お礼に社を建てたと伝えられているという。
境内が南北に通り抜けできることから、また、義家が苦難を切り抜けた弁天様であること
から「抜弁天」といわれるようだ。
社はこのように小さいが、狭い境内の北側にテントが張られ、温かいお茶の接待があった。
地下に都営地下鉄大江戸線の走る、抜弁天通りを東に向かう。
市谷柳町交差点の近くに6つ目、大黒天の経王寺(きょうおうじ)があった。
このお堂に安置されている大黒天は、甲斐の身延山から移されたといわれ、15cmほど
の立像とか。たび重なる江戸の大火から焼失を免れたことから、火災を防止する「火伏せの
大黒天」として知られているという。
こちらが経王寺の本堂、コンクリート造りである。
さらに同じ通りを東に進む。
市谷小前交差点から一つ南の通りに回った。このあたりは二十騎町という初めて聞く町名。
どんないわれがあるのだろうか…。
最後の善国寺は狭いとのことで、中町あった中町公園で締めの話があり、完歩のシートを
もらう。
公園の北側には、音楽家・宮城道雄の記念館があった。
7番目、毘沙門天の善国寺はコンクリート造りのりっぱな本堂。参拝者もかなりいて賑わ
っていたが、カメラのモードがいつの間にか変わっていて、うまく撮れずで写真なし。
結構人出のある神楽坂通りを下り、11時55分に東京メトロ飯田橋駅に着いた。
(天気 晴、距離 公称10㎞、実測(カシミール3D) 7㎞、歩行地 新宿区、歩数
10,400)
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