あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

宮崎歩き旅日記② 宮崎市内、宮崎神宮とその周辺を巡る

2013-05-08 22:42:11 | ウオーキング
 2013年4月24日(水)

 午前中は雨の予報なので、宮崎市内の宮崎神宮と、広い境内にある県立宮崎総合博物館
の観覧を中心に巡ることにした。

 JR宮崎駅8時49分発日豊本線上りに乗り、ひとつ北の無人駅、宮崎神宮駅に8時
52分に降りた。


 駅前に宮崎神宮の大鳥居が立っている。その通りを400m近く西進すると、宮崎神宮
の広大な森の東端に着く。神宮の神鶏らしい、数羽のニワトリが放し飼いになっていた。


 うっそうと茂る広葉樹の森の下の中を社殿の南に回り込み、南からの表参道に合する。
付近のツツジが雨に濡れて咲く。



 参道を入って二の鳥居をくぐり、宮崎神宮の拝殿に参拝。拝殿の周囲は、クスノキの古
木の若葉がまばゆい。


 宮崎神宮は神武天皇を主祭神とし、あわせて父母君を祭り、古来から歴代領主の崇敬厚
く、明治11(1878)年に官幣大社に昇格したという。


 明治31(1898)年から社殿の造営や境内地拡張など大工事が進められ、明治天皇
の御下賜金や全国からの募金などにより、明治40年に竣工し、以後、皇族の参拝が続き、
昭和天皇は皇太子時代を含め、6度参拝されたとか。


 境内には、大正天皇や皇族方お手植えの樹木が何本も見られた。


 宮崎県内にはプロ野球の春のキャンプ地が多いが、境内の休憩所には、読売巨人軍の必
勝祈願サインが幾つも奉納されていた。


 参拝を終え、境内北側にある総合博物館を目指す。西側の神宮会館前を回り、林間を北
に向かう。左手に護国神社が見えたので、立ち寄って参拝する。


 さらに北へ、広葉樹林の間を進むと、第二次世界大戦時、神風特攻隊のさきがけとなっ
た敷島隊の、戦死者の辞世の碑が立っていた。


 県指定史跡、船塚古墳の説明板もあり、宮崎神宮本殿の北側に位置する前方後円墳とい
うが、一体は境内林に覆われていて、古墳の形は認識できなかった。


 本殿の北に回り、宮崎県総合博物館に入館する。常設展示の入館料は無料。


 1階の展示場は、照葉樹林の森のジオラマ、宮崎の生物や化石など自然史展示が中心。


 2階には歴史展示室と民俗展示室があり、弥生人のくらし、昭和30年代の文化住宅、
漁業や林業の道具、農耕具、炭焼き、宮崎の神楽など、興味深い展示が並んでいた。






 これは、昭和20(1945)年の戦時中、灯火管制下の食卓。


 博物館の裏手、東南の森の中には、野外展示の一環として民家園がある。



 2棟の国指定重要文化財を含む江戸時代のかやぶき住宅が4棟移築されていたが、屋根
の痛みがひどくて近づけない建物もあり、修復が待たれる。


 博物館の北東にある、宮崎県埋蔵文化センターも公開されていたので入館し、県内で発
掘された土器などを短時間ながら観覧する。


 神宮の森の東側を回り、小雨に濡れる南面の神池を眺める。


 「宮崎の巨樹百選」に選定されている、樹齢100年を超えるというラクウショウの前
に出て、宮崎神宮を離れた。


 神苑の南側を西進して、神宮の西南にある県総合文化公園に入る。

 入口際に、宮崎の生んだ偉人のひとり、安井息軒(やすいそつけん)の立像がある。

 安井は幕末の偉大な儒学者で近代漢学の礎を築き、門下からは谷干城(たにたてき/か
んじょう)や陸奥宗光(むつむねみつ)など2千名に及ぶ逸材が輩出されたという。


 大きな県立図書館前から桜並木と広い芝生地の県民広場の方に回る。


 東側の県立美術館も、複雑な造形の大きな外観を見せている。


 公園の真ん中を南に抜け、その先の通りを南進する。宮崎公立大学のグランドや学舎の
横を通り、東側の江平西一丁目に入り、香泉寺に回る。

 境内は狭いが、南側の墓地との間に、四国霊場八十八か所の本尊の石仏が並んでいた。
この寺も、九州八十八か所第37番霊場である。

 同じ町内、国道220号に近い住宅に囲まれた一角に、江平子安(えひらこやす)観音
堂があった。

 江戸中期の宝永年間(1704~10)の開基で、子育て・安産・開運の観音様として
信仰を集め、1月の千日詣でや7月の大祭には、全国から参拝者や祈願の申し込みがある
とか。

 ほぼ雨も上がった。次の目的地に向かうためJR宮崎駅に戻ることにする。国道220
号に出て南へ、アーケードのある通りを抜けて、宮崎市の繁華街、橘通りの交差点まで行
く。


 正午からだいぶ経過していたので、少し先にあった宮崎名物という「きっちょううどん」
という店に入り、とろろそばの昼食をする。


 宮崎駅に向かう県道25号の南に平行する広島通りを進み、13時40分に宮崎駅前に
着いた。

 予定の日豊本線の発車時刻まで1時間近くある。駅の東に回り、プラネタリウムの円形
ドームが目につく市立宮崎科学技術館に行く


 館の前に大きなこいのぼりが泳ぎ、その向こうに全長約40mというHーⅠロケットの
実物大模型が立っていた。



 ロケットやその先の池などを撮っていたら、お声がけ下さった方がおられた。この館の
館長さんとのこと。私が、全国都道府県の中で来たことの無かった宮崎県に初めてきたこ
となどを話し、短時間だが入館して観覧したい言うと、どうぞとのことで入館する。


 1階には、生きている地球、太陽の都市・宮崎、宇宙への夢といったコーナーが、2階
には宇宙への夢、エネルギーランド、先端技術の世界、科学の不思議の国といった展示が
あり、子どもさんにも科学に興味を持てそうな仕掛けや展示が並んでいる。


 館長さんはお出かけになるというお忙しい中、短時間ながら温かい対応をしていただき、
感謝して館を出た。

 半日の宮崎市内ウオーキングを終え、駅前のビジネスホテルに預けた荷物を受け取る。
JR宮崎駅発14時37分発日豊本線の2両のワンマンカーに乗り、都城(みやこのじよ
う)駅で吉都線に乗り換え、宮崎県西端のえびの市にある、京町温泉駅に17時30分に
着いた。


 この日の宿は京町観光ホテル。夕食後、おかみさんに明日行きたい場所のことを聞いた
ら、ちょうど温泉に入浴に来た地元の男性にアドバイスを依頼して下さる。お陰で私の知
りたいことがかなり分かり、明日のコース取りが出来た。

(天気 雨後曇、距離 8㎞、地図(1/2/5万) 宮崎北部、宮崎、歩行地 宮崎市、
 歩数 16,600)
 




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宮崎歩き旅日記① 日南市飫肥の町あるき

2013-05-06 18:55:32 | ウオーキング
 奈良・山の辺の道歩きに行った翌週、宮崎県への歩き旅に出かけた。

 なぜ出かけたかというと、2005~6年の英国・コッツウオルドウェイと、2009
年にドイツ・アルテナ周辺のウオーキングに出かけた時の、ANAのマイレージポイント
が5月で切れるという通知があり、これを利用してどこかに歩きに行こうと考え、全国
47都道府県の中で私が行ったことの無い、宮崎県を思いついたのである。

========================================
 
 2013年4月23日(火)
 == 日南市飫肥の町歩き ==

 羽田空港8時55分発のANA603便に乗り、宮崎空港に10時35分に着いた。

 バスで25分余りのJR宮崎駅まで行き、今夜宿泊する駅前のビジネスホテルに不要荷
物を預け、駅構内で昼食をする。

 宮崎駅12時15分発の日南線快速、1両の「日南マリーン号」に乗り、13時26分
に県の南部、日南市の飫肥(おび)駅に下車した。ひとりだけの、若い女性駅長がにこや
かに迎えてくれた。


 飫肥に来たのは、事前にパンフレットを入手に行った東京・新宿駅南口に近い宮崎県の
アンテナショップで、どこがお勧めか訪ねたら、飫肥へといわれたからである。

 飫肥は戦国時代、飫肥城の覇権をめぐり、伊東家と島津家の間で80余年にわたり激し
い覇権争いが続き、天正16(1588)年に豊臣秀吉の命により義祐の子・祐兵(すけ
たけ)が、伊東家の居城として入城した。以後、明治初期までの280年間、伊東家は
14代にわたって飫肥藩を治めたという。

 また、飫肥は「九州の小京都」と呼ばれ、飫肥城下の町並みが九州で最初の、国の伝統
的建物群保存地区に選定されている。

 アンテナショップでもらった資料の中に、『飫肥城下町「食べ歩き」MAP』の見本が
あったので、駅前にあった観光案内所で、そのマップを求める。

 町歩きの地図は、歴史資料館など7つの見どころの入館料と、36の加盟店中の5店で
食べ物や飲み物、小物がもらえる引換券付きで900円という割安なもの。観光予定時間
はおよそ3時間である。

 ちなみに、このマップは、事業スタートから4年を前にして、2日前の4月21日(日)
に購入者が10万人を超えたと、今朝の宮崎日日新聞で報じていた。

 観光案内所には貸し自転車もあるが、東西1㎞、南北はそれ以下というこぢんまりした
町並みなので、歩いて回ることにした。

 観光案内所を出て、駅前の国道222号を西へ。酒谷川の稲荷下橋際には「是より飫肥
城下町」の標石が立ち、行く手に町の中心部が望まれる。


 ゆったりとした流れを見ながら橋を渡る。


 信号のある交差点際の郵便局前に、大正9(1920)年に来た時のことを記した、民
俗学者・柳田国男の日記の文学碑があった。


 国道沿いは電線が地中化されていて、その両側に落ち着いた白壁とかわら屋根の建物が
続いている。


 次の交差点を南に入り、県指定史跡の「勝目氏(かつめし)庭園」に行く。

 飫肥城下の武家屋敷庭園を代表する枯山水の庭で、江戸時代中期以降のものと考えられ
るようだ。庭のツツジやクチナシが花を見せる。


 「本町通り」と呼ぶ国道に戻り、少し先にあった入館料の対象のひとつ、国登録文化財
の「旧高橋源治郎家」に入る。

 飫肥の実業家で貴族院議員にもなった高橋源治郎が建築し、主屋(おもや)、隠居部屋、
氏神、2棟の蔵、納屋、炊事場などがあり、主屋は明治中期の建築で、大正4(1915)
年に修理したと伝えられているという。



 建物に上がって内部や庭を観覧する。ここで引換券を1枚使い、「あゆみちゃんかりん
とう」とお茶をいただいた。

 このあたりから北側にかけてが国の伝統的建物群保存地区のエリアで、趣ある建物が並
んでいる。


 次の角を北に入ったところが、小村寿太郎(こむらじゅたろう)の生誕地。小村寿太郎
は桂太郎内閣で2度の外務大臣をつとめ、明治38(1905)年には日本側全権として
ポーツマス条約(日露講和条約)を調印したことで知られる。

 この生誕地は小公園になっていて、大きな記念碑の題字は日本海海戦の指揮官、東郷平
八郎の揮毫(きごう)というが、汚れていて読みにくい。

 隣に続く高い塀に囲まれた広い敷地は、入館料対象の「旧山本猪平家」。


 山本猪平は飫肥の豪商で、明治40(1907)年頃に建築した商家の本宅。敷地面積
1,100㎡の中に、主屋、離れ屋、台所、浴室、便所などが、ほぼ建築当初のまま残され
ているという。


 本宅の各部屋には、きらびやかな五月人形や鯉のぼり、豪華な衣装などが飾られていて、
当時の豪商の暮らしぶりがしのばれる。

 ここでは、「寿太郎巻」と呼ぶ和菓子とお茶をいただいた。


 北側の通り沿いの細い流れにはかつてコイが泳いでいたようだが、現在は水もない。石
垣の続く家並みを北に進み、大手門交差点に向かって緩やかに上がる。


 交差点際の両側に「おび天茶屋」と呼ぶ食事どころがあった。店内では名物のおび天な
ど食べられ、樹齢1,000年のクスノキで造った火鉢が置かれているという。


 店の右手背後は国際交流センター小村記念館。小村寿太郎の遺徳を顕彰して、没後80
年の平成5(1993)年に開館したとか。

 記念館では、小村の生い立ちや業績を資料とビデオで紹介していたが、館内は撮影禁止
だった。国際交流センターには、同時通訳施設を完備した大小二つの会議室があるという。

 記念館のそばには、藩主伊東家の分家として明治初期に建てられた旧伊東祐正家住宅も
残されていて、市で復元準備中という。


 構内には、NHK連続テレビ小説「わかば」の日南ロケ記念植樹のサザンカがあり、見
慣れぬ赤紫の花やハナショウブも咲いていた。


 相対する通りの西側は、「豫章館」と呼ぶ建造物と広い庭園がある。


 豫章館は、明治2(1869)年、飫肥藩主伊東祐帰が城内から移り住んだ屋敷で、大
手門前に位置する飫肥城下ではもっとも格式の高い武家屋敷だという。


 約6,500㎡の屋敷には、主屋、台所、便所、納屋、蔵、御数寄屋などの建物があり、
南面に広大な枯山水の庭園が広がる。


 開け放たれた主屋の各部屋には、五月人形やたこがたくさん飾られていた。


 両側の2つの建物を拝観後、正面の大手門をくぐって飫肥城内に入る。

 大手門は、昭和53(1978)年に飫肥城復元事業の一環で歴史資料館とともに復元
建設されとのこと。

 城内左手に回った高台にも、大手門の翌年に復元された「松尾の丸」と呼ぶ建物がある。


 江戸時代初期の書院造りの御殿として建設され、御座の間、御寝所、涼櫓、茶室など
20以上の部屋がある。それら各室を回って拝観した。



 帰りの時間が少し気になってきたので、奥の旧本丸跡には回らず、御殿造りの飫肥城歴
史資料館へ。

 館内には、天正15(1587)年に19代祐平が秀吉から飫肥城を賜ってから、明治
4(1871)年の廃藩まで伊東家14代の歴史を示す、甲冑や刀剣、武具、古文書、衣
服などが展示されていた。ここも、撮影禁止になっていた。

 城内はこれくらいにして大手門を出る。東に延びる武家屋敷通りの中ほどに、小村寿太
郎生家が生誕地の場所から移築されていた。

 室内には入れないが、庭からのぞいてみたら、五月人形が飾られていた。このあたりも、
石垣を組んだ武家屋敷が続いている。


 その先を北に入って次の三差路を東進すると、藩校 振徳堂(しんとくどう)がある。

 天保3(1831)年、第13代城主伊東祐相(すけとも)により開校され、教授には
安井滄州(そうしゆう)、息軒(そつけん)親子等を招き、教育に努めたところのよう。

 万延元(1860)年に、剣術修行途中の土佐藩士・武市半平太(たけいちはんぺいた)、
岡田以蔵(おかだいぞう)らが武芸所で飫肥藩士たちと試合を行っているという。


 幕末には、小村寿太郎も門下生だったとか。郷土の名木になっているクスノキの大木の
下に、小村寿太郎の胸像がある。

 ポチポチと雨も落ちてきたので、帰路につくことにする。東側の八幡通りを、信号のあ
る県道437号との交差点まで進む。少し西進して、魚と豆腐で造る伝統料理という「お
び天本舗」の建物↓を眺め、手前の細い通りを南に向かう。


 まだ時間はありそうなので、次の後町通りも西進して大手門通りまで戻る。


 先ほど見た旧山本猪平家前を通過して本町通に入り、さらに西進して小さい店舗の泰平
せんべいに入り、お茶とせんべいをいただく。


 店内には、レポートに訪れたテレビ局関係者などのサインが掲示されていた。


 たいしたことはないが、雨は止みそうにない。本町通りを反転して東に向かい、16時
20分に飫肥駅に戻った。


 16時32分発宮崎行きは、2両のワンマンカー。町の中では何組もの観光客に会った
が、駅から乗ったのは私だけ。ほかにこの駅からの乗客は、通学の女子高校生1人だけだ
った。


(天気 曇後雨、距離 5㎞、地図(1/2.5万) 飫肥、歩行地 日南市、歩数
 9,700)




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飯能の山間集落での「お散歩マーケット」へ(埼玉)

2013-05-05 23:17:40 | カントリーウオーク
 2013年5月5日(日)

 こどもの日の今日、埼玉県西部の飯能(はんのう)市の山間にある黒指(くろざす)と
細田(ほそだ)という2つの山峡の集落で開催された「春のお散歩マーケット」に参加し
ました。

 この催しを知ったのは、所沢・山里探訪会のMさんからのメールでした。前日の5月4
日(土)のテレビ東京の番組「あど街っく天国」に飯能が取り上げられ、その中でこの催
しも紹介されるとのこと。 昨夜見たら、番組では最初に紹介されていました。

 飯能市の西南部でも1番奥の集落で、駐車場も無いので、「参加者はバスでお越し下さ
い」というのが、主催者の「お散歩マーケット実行委員会」の周知です。

 西武池袋線の飯能駅北口から9時50分発の国際興業バスの臨時便に乗り、10時25
分頃、終点の間野黒指バス停に到着しました。


 バス停から直竹川に沿って300mほどの、黒指集落にある六地蔵や北向き地蔵の立つ
お寺のところが受付です。ここで300円を払って参加マップをもらいます。


 10時35分にスタートしました。マップに従い、2つの集落の民家にある22のスタ
ンプを集めながら巡ります。最初のスタンプのお宅に向かう一体は、ツツジやフジなど、
たくさんの花が迎えてくれました。




 このような民家の庭先などにスタンプがあり、それぞれの家では、地元農産物や加工品、
手作りの品物、飲み物や食べ物などを販売しています。




 こちらもツツジやフジが花盛り。


 この家では、採りたてのウドやワラビを販売していました。


 この集落は、川沿い以外は急斜面に民家がつくられているので、どこも坂道を上がりま
す。


 庭もわずかですが、その一角に休憩用のテーブルと椅子が用意されていました。


 新緑の山並みを眺めながら、そちこちで思い思いに休憩できます。


 黒指集落を少しずつ上がり、8つの民家を回ってスタンプを押し、さらに上の峠の方に
向かいます。


 8番目の民家は少し離れていて、杉木立の間を抜けて往復してきました。


 峠に上がると、今回ってきた黒指の家並みなどが見下ろせます。


 峠は広い草地になっていて、さわやかな風が心地よく、ひと休みして展望を楽しむのに
絶好なところでした。




 峠の反対側は、茶畑になっています。八十八夜も過ぎたので、そろそろ茶摘みどきでし
ょうか…。

 
 峠には石神様が祭られていて、周辺はもう葉の開いたワラビがたくさん並んでいました。


 峠から、さらに西北に延びる尾根を上がって、次の細田集落に向かいます。少し上がっ
て峠周辺を見下ろしたところ。


 周囲の山は、飯能の特産である西川材になる杉林に覆われています。


 稜線の道も、しばらくは杉やヒノキ林の中を抜けて行きました。


 林が切れたところから、私の住む所沢市の西武ドームが望まれました。


 いぼとり地蔵さんまで来ると、すぐ下が細田集落です。


 この集落の民家の多くも、急斜面にありました。


 販売していた品物。


 かやぶき屋根にトタンを被せて家も残っています。


 狭い庭に多くの参加者が訪れていました。


 この家では、カレーライスが食べられるので、外のテーブルと室内とで昼食をしている
人がたくさん居られます。


 それぞれの家には屋号があり、このように屋号が分かるようなものを出しています。


 集落の最初に回った辺りの家並み。


 民家に並べられた販売品。手作りの紙製品です。


 これは手書きの絵はがき、この家のご主人が描かれたもののよう。


 すぐ下の家にも、たくさんの参加者が手作りの販売品をのぞいています。


 昼食には、弁当やカレーライス、うどんなどありましたが、たくさんの参加者が求め
るので、売り切れになってしまったところも多くありました。


 こちらも休憩用コーナー。


 私の昼食は、最初の黒指集落で買ってきた200円の赤飯を、細田集落の民家の終わ
りに近い草地にシートを広げて、眼前の山並みを長めながら食べました。




 細田集落は9つの民家でスタンプを集め、スタートした黒指集落に向かって車道を下
って行きます。

 沿道にはシャガが多く、ヘヤピン状に折り返すこの場所が、一番まとまって咲いてい
ました。


  
 ウツギも、下り道で沢山見られました。


 スタート地点付近に戻りました。これから回ろうとする人も居られます。


 受付のあった、お寺の境内に立つ北向き地蔵。


 少し下った民家の白フジ。


 スタート地点の下にも5つのスタンプ地が続き、それを押して13時15分にバス乗り
場に着きました。


 ちなみに、この催しは春秋の2回開催されており、次回は11月17日(日)とのこと
です。

 なお、スタート地の標高は250m前後、稜線の最高地点は400m近いところです。

(天気 快晴後晴、距離 4㎞、地図(1/2.5万) 原市場、歩行地 飯能市、歩数
 9,500)

 皆さんは、次々に出る臨時バスで飯能駅に向かいましたが、私はひとり、沿道も見なが
ら帰ろうと、ほぼバス道を下り、結局、飯能駅まで歩き、15時45分に飯能駅に着きま
した。

(ゴール~飯能駅 10㎞、地図 原市場、飯能、歩行地 飯能市、青梅市)




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奈良・山の辺の道を歩く ③櫟本から帯解まで

2013-05-02 22:51:01 | 奈良を歩く
 2013年4月18日(木)

 山の辺の道は、昨日の最後の石上神宮からさらに北上して奈良市に入り、弘仁寺(こう
にんじ)から正暦寺(しょうりゃくじ)、白毫寺(びゃくごうじ)などを経て、奈良公園
を抜けて近鉄奈良駅まで続くのだが、今日は帰宅の時間を考え、その中の弘仁寺と正暦寺
を中心に巡るコースを歩くことにした。

 奈良駅から前日と同じ電車に乗り、昨日のゴールの天理駅よりひとつ手前、無人で昭和
年代前半の雰囲気を残す櫟本(いちのもと)駅に8時44分に着いた。


 8時55分に出発して、東側の櫟本町の家並みへ。駅前通りの民家に、セイヨウサクラ
ソウがたくさん飾られていた。



 周囲を大和棟(やまとむね)の民家に囲まれた狭い境内の高良神社に行く。社殿もこぢ
んまりしている。


 天理櫟本郵便局前を南へ。高瀬川沿いの通りの角に「右なら 左たつたみち」の古い道
標が立っていた。

 左岸沿いの車道を東進して南北に走る国道169号を越え、和爾下(わにした)神社の
赤鳥居をくぐる。境内の車道際に、「神武天皇遙拝所」の石柱が立っていた。

 左折したカシなどの常緑広葉樹林下に和爾下神社古墳の説明板があり、「全長120m
の前方後円墳で四世紀末から五世紀初頭のものと推定され、周辺は古代大和政権の一翼を
担った和爾氏の本拠地と推定され、周辺の東大寺古墳群は、和爾氏の奥津城と考えられる」
と記されていた。


 その先を右折して石段を上がり、和爾下神社に参拝する。神社は、神護景雲3(769)
年に和爾下神社古墳の上に治道社として祭り、明治初年に延喜式内の和爾下神社がこれに
当たると考証され、和爾下神社と定めたという。

 桃山時代の様式を備えた切妻造り檜皮葺の本殿は、国の重要文化財に指定されている。

 参道を東に抜け、新しい住宅地を北東に上がり、公園として整備された国史跡の赤土山
(あかつちやま)古墳に行く。


 古墳時代前期後半に造られた前方後円墳。墳丘は上下二段構成で、後円部東側に「造り
出し」と呼ぶ儀式の場があり、家型埴輪(いえがたはにわ)が出土したという。

 その造り出し部には、家型埴輪などのレプリカが並んでいた。

 墳丘に上がると、東にシャープの総合開発センターの研究施設や社宅など幾つもの建物
が、南から西には大和平野の民家や工場などの展望が広がる。



 墳丘上を西側の入口まで戻る。計画では北西の和爾町を抜けて弘仁寺に行くつもりだっ
たが、シャープ総合開発センターの東にある白川溜池への道標があったので、それに従う
ことにした。

 経営再建中で相当人員削減をしたと見え、空室のままの社宅が続くシャープの構内の道
を南に抜けて、こちらもがら空きの駐車場の間を通り、高架の国道25号・名阪国道に沿
った側道に回る。

 名阪国道を越える高架の車道の先で、北への細道に入る。シャープ総合開発センターの
東側、釣り堀になっている池沿いに進んで東側台地に上がり、少し戻って白川溜池の南端
付近に回った。この先は山の辺の道である。

 眼前に広々とした水面の展望が広がり、対岸のやわらかな新緑の山並みが気持ちよい。

 白川溜池(白川ダム)は、農業用だったアースダムの堤体をかさ上げした治水ダムで、
農業用水の貯水容量や取水機能を損わずに洪水調節のための治水容量を確保し、高瀬川・
楢川流域の洪水調節を行うという。

 池の西側を中ほどまで進んで遊歩道に下り、取水塔近くまで進んでさらに下って小さい
流れを渡り、小規模な古墳公園に入った。

 かつて、この南には和爾小倉谷(わにおくらだに)古墳群と呼ぶ7基の古墳があったが、
1991年に白川ダム建設に伴い、この地に1号墳から3号墳までを移築復元したという。

 2号墳、3号墳には横穴式石室があった。


 ダムの北側、台地上の広い車道を東進する。八重桜の並木に沿って300m余り進むと、
北側の山すそに並ぶ虚空蔵町(こくぞうちょう)の家並みが見下ろせる。


 奈良市内に入り、突き当たりのT字路を左折し、大和青垣国定公園や東海自然歩道の標
柱の立つ次のT字路も左折して、折り返すように虚空蔵町の旧道へ。


 水の入る前の棚田に沿って進み、りっぱなツツジの咲く民家の前を北に上がる。


 次のT字路を左折すると弘仁寺である。志納金を山門にある箱に入れて境内に入った。


 山を背にした静かなたたずまい。境内に八重桜やツツジ、フジ、ムラサキモクレン、ア
セビなどが花を競い、たくさんのモミジなどの新緑がみずみずしい。


 弘仁寺の創建は、嵯峨天皇が夢枕に出た地を探して建立したという説と、弘法大師が虚
空蔵山に流星が落ちるのを見て開基したという二つの説があるようだ。現在の建物は、戦
国時代に兵火で焼失したのを、江戸時代の1629年に再興したのだという。


 境内の中心に重厚な本堂↑があり、奥には運慶作といわれる大日如来像や、役行者(え
んのぎょうじや)像、不動明王像などを祭る明星堂↓があり、本堂の南下には庫裡(くり)
と思われる長い建物が並ぶ。本堂に上がり、本尊の虚空蔵菩薩を拝観した。


 境内を巡るうちに正午になったので、西側入口付近のモミジの下の石に腰を下ろして昼
食にした。

 山門を出て石段を下る。弘法大師が自ら刻んで奥の院の本尊としたという、不動明王の
石仏を祭る小さい不動堂が祭られ、傍らに「阿伽水の井戸」と呼ぶ湧水の水源があるが、
現在の湧水はわずかのようだった。


 さらに下って小さい流れを渡り、高樋町の集落を北西に進む。JAの先、時計塔のある
三差路を右折して、菩提仙川(ぼだいせんがわ)を挟んだ南面の新緑などを眺めながら東
北に向かって緩やかに上がって行く。


 700mほどのところに「ハナキレ地蔵」と呼ぶ、鎌倉時代の作で等身大の地蔵や、
「南無阿弥陀仏」と刻まれた慶長12(1607)銘の六字名号碑などを祭る地蔵堂があ
った。気温が上がって午後の日差しが暑く感じる。


 さらに同じくらい進むと「大本山正暦寺」の石碑が立ち、そばに「泣き笑い地蔵」と呼
ぶ2体のお地蔵さんが並んでいた。


 その先は正曆寺境内、しばらくはりっぱなカエデの木々が続き、その数は千本を超える
とか。秋には「錦の里」とも呼ばれる紅葉の名所のようで、その彩りがしのばれる。


 帰路となる円照寺方面への山道の上がり口に周辺の案内図があり、近くには「日本清酒
発祥之地」碑が立っていた。


 境内を流れる菩提仙川の清流を使って醸造された「菩提仙酒」は、至極上酒だったこと
が、室町中期、京都・相国寺(しょうこくじ)鹿苑(ろくおん)院内の蔭涼軒主(おんり
ようけんしゅ)の記した公用日記、「蔭涼軒日録」に記されているという。

 正暦寺は正暦3(992)年、一条天皇の勅命で創建、創建当初は坊舎86を数え、勅
願寺としての壮麗さを誇っていたようだが、現在は本堂、福寿院などわずかな伽藍を残す
のみとなっている。

 今日から、秘仏薬師如来椅像(いぞう)と客殿・福寿院に続く瑠璃殿の公開が始まって
いた。福寿院に上がり、周囲の木々を借景にした見事な庭園を眺める。




 さらに瑠璃殿と薬師如来椅像も拝観した。


 川を挟んで少し奥の高台にある本堂前の広場では、薬師会式の最後の火渡りが行われて
いるという。回ってみたらすでに火は燃え尽きていて、ほぼ火の消えた炭火の上を、寺の
僧や参拝の方々が裸足で次々に渡っていた。


 1時間前後滞在し、案内図のところから西方への山道へ。少し上がって小さい峠を越え、
10分足らずで土道から細い車道となる。


 しばらくは杉などの針葉樹林下を進み、やがて南面が開けて谷地田沿いに出た。

 「五つ塚古墳群」の説明板があり、山すそに5つの古墳が並んでいると記されていたが、
どこが古墳かは地形を見ても認識できない。


 その先に潅漑用のため池があり、池の南面に赤鳥居の立つ中の島が見える。池畔の道路
沿いには、山の辺の道の案内図と木製の万葉歌碑が立っていた。

 道路北側の赤鳥居が円照寺への道。木の段を上がって竹林などの林間を進むと、ひっそ
りとした大師堂が現れた。


 そばのT字路を右折してすぐ先に円照寺の山門がある。


 円照寺は、京都・修学院から移された門跡寺院とか。拝観は出来ないので門から正面の
建物などをのぞくだけだが、建物への参道はきれいに掃き清められていた。


 西への参道を少しで、東海自然歩道の標識に従い北側の山道へ。ヒノキなどの林間を西
へ回り込んで行くと地蔵堂があり、回りにもたくさんの石仏が並ぶ。


 竹林を抜けると「山の辺の道」の標柱が立ち、北に向きを変える。


 溜池の向こうに八島町の集落が広がり、池の横を進んで北側の崇道天皇八嶋陵に行く。
どこの天皇陵にも説明はないが、ここも宮内庁の注意書3条だけである。


 山の辺の道に分かれ、西側の車道に出て円照寺参道の入口まで進む。田んぼの中を西へ
真っ直ぐに伸びる農道に入り、北に若草山などの山並みなどを眺め、国道169号を横断
する。


 小学校の南側を回り、帯解(おびとけ)駅近くの住宅街に入る。16時6分の奈良駅行
き電車を目指して急いだが、2、3分ほど足りず、間に合いそうにない。

 文徳天皇妃がここの地蔵尊に祈願されて清和天皇をご安産して寺号を賜ったとされ、安
産・子育ての霊験あらたかな寺として信仰を集める帯解寺に寄り、参拝する。


 駅周辺の大和棟の並ぶ通りを回ったり、駅近くの店でアイスを食べたりして少しの時間
を費やし、16時半にJR帯解駅に着いた。


 16時52分発奈良行きに乗って奈良で奈良線に乗り継ぎ、京都駅発18時29分のひ
かり532号で東京駅に向かった。

(天気 快晴、距離 14㎞、地図(1/2.5万) 大和郡山、歩行地 天理市、奈良市、
 歩数 26,300、累積標高差 上り・下り各380m) 




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