愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 138 飛蓬-45 小倉百人一首:(参議等)  浅茅生の

2020-03-17 14:15:43 | 漢詩を読む
(39番)浅茅生(アサジフ)の 小野(ヲノ)の篠(シノ)原(ハラ)
..........しのぶれど あまりてなどか 人の恋(コヒ)しき
...................参議等 『後撰集』恋・578
<訳> まばらに茅(チガヤ)が生える、篠竹の茂る野原の「しの」ではないけれど、人に隠して忍んでいても、想いがあふれてこぼれそうになる。どうしてあの人のことが恋しいのだろう。(小倉山荘氏)

告白することもできず、恋慕の念で悶々として耐え忍んでいる様子が読み取れます。歌に添えられた詞書(コトバガキ)によれば、この歌を“想いの人”に届けたということです。相手もきっと熱く感じ入ったのではないでしょうか。

本稿では和歌に出てくる序詞(ジョコトバ)について考えます。 [〇〇と掛けて△と解く、その心は ? ] という“謎々ことば遊び”があります。序詞とは、この“謎々ことば遊び”の類であろうと考えておりますが、如何でしょうか?

上の和歌を七言絶句にしてみました(下記)。その漢詩化には、序詞に関連して、非常な難題に遭遇しており、その一つの解決策を含んでおります。その是/非を念頭に置いて読んで頂き、ご意見頂けると有難いです。

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<漢字原文および読み下し文>  [下平声五歌韻]
...以荏字為想来想去 荏の字を以って想来想去と為る
浅茅生野荏草多, 浅(マバラ)に茅(チガヤ)の生(ハ)える野に荏草(ジンソウ)多し,
忍苦不説恋慕渦。 恋慕の渦を説(ツ)げえぬ苦(ク)を忍ぶ。
此懐就要溢出起, 此の懐(オモイ) 就要(イマニ)も溢出(イッシュツ)を起さん,
実在為何熱恋她。 実在(マコト)に為何(ナニユエ)に她(アノヒト)が熱恋(コイシ)からん。
..註]
  想来想去:あれこれと思いを巡らす。
  荏草:エゴマの草、シソ科の野草。  溢出:あふれ出る。

<現代語訳>
...荏の字を契機として思いを巡らす
「まばらな茅に荏もよく繁る野原」の「荏(rěn)」から連想される「忍(rěn)」の言葉通りに、
胸中渦巻く恋慕の念を告げ得ない苦しみに耐え忍んでいる。
この想いは今にも溢れ出そうであり、
真にどうしてこんなにも、あの人が恋しいのであろうか。

<簡体字およびピンイン>
...以荏字为想来想去 Yǐ rěn zì wèi xiǎnglái xiǎng qù
浅茅生野荏草多, Qiǎn máo shēng yě rěn cǎo duō,
忍苦不说恋慕涡。 Rěn kǔ bù shuō liànmù wō.
此怀就要溢出起, Cǐ huái jiù yào yìchū qǐ,
实在为何热恋她。 shízài wèihé rèliàn tā.
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“難題とその解決策”と先に述べた点は、元歌の「篠」を漢詩では「荏」に替えたことです。「翻訳者」として、元歌を修正(悪?)することが許されるであろうか?一応、この修正(悪?)の理由を以下に示し、弁解としたいのですが。

歌の「浅茅生の小野の篠原」の部は“序詞”で、和歌の大事な技法の一つとされるが、歌の本論と意味上の繋がりはないに等しい。「篠(しの)」は、「忍(しの)ぶ」の“掛詞”で、序詞を本論に繋ぐ役割を果たしています。

「忍ぶ」は歌の本論中、鍵となる語と言えるが、漢語で「篠(xiǎo)」と同音で「忍ぶ」の意味を持つ語は見当たらない。すなわち「篠(xiǎo)」を活かしたままでは、本論の物語展開へと発展させることができなくなります。

序詞の技法は、和歌の面白みを表現する上で、非常に重要な役割を果たしていると考えられ、漢詩化で無視することは許されないでしょう。そこで「忍」を導き出す工夫として、「忍(rěn)」と同音異字の「荏(rěn)」を「篠(xiǎo)」に替えた次第です。

「浅茅生の……」と掛けて「しのぶれど……」と解く、その心は「しの」でした、如何でしょう?この歌での謎々ことば遊びの“心”は「篠」一字(/語)の音(/訓)であると言えます。

序詞全体が表現するイメージまたは意味を謎々ことば遊びの“心”とする場合があります。次の歌をご覧下さい。柿本人麻呂の歌です:、

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかもねむ

先にこの歌の漢詩化については紹介しました(閑話休題-118)。その中では、枕詞について考えましたが、実は序詞も含まれていました。但し本稿の歌とは、序詞の性格が異なります。

人麻呂の歌で「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の」の部が序詞です。この部分を読んで生ずる“長い”という“イメージ/意味合い”が歌の本論である“秋の夜長”に繫がっていきます。ここでの謎々ことば遊びの“心”は、“長い”という“イメージ”でした。

因みに、専門的な表現に従えば、序詞を、掛詞の“語”で本論に繋ぐ場合は“無心の序”、一方、“イメージ/意味合い”で繋ぐ場合は“有心の序”として区別しているようです。“無心の序”とは言え、“心”を活かす技法の一つです、混乱の無いようご注意を!

掛詞が“ダジャレ”に、序詞が“謎々ことば遊び”に例えられることを考えると、文字の伝わる以前には和歌がこれらのことば遊びをしながら“歌”として親しまれていたことが想像され、心楽しくなります。

和歌を外国語へ翻訳するに当たって、序詞を含む伝統技術そのものに関しても丁寧に訳出しする工夫が大事であろうと考えます。その一つの工夫として、敢えて「篠」を「荏」に替えた所以です。

和歌の作者・源等(880~951)について簡単にふれます。第52代嵯峨天皇(在位809~823)のひ孫に当たり、祖父の代に臣籍降下して源姓となる。地方官勤めが長く、60歳過ぎて参議になった と。『後撰和歌集』に4首入っており、掲題の歌はその一首である。
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