当時の京極太政大臣・藤原宗輔が中納言のころ、鳥羽院の離宮・南殿の中庭一杯に菊の花を献上、植栽した。花が満開の頃でしょう、公重(キミシゲ)の少将が、菊を主題にして歌会を催していて、西行にも加わるよう促された。それに応じて、西行が詠まれたのが、次の歌である:
君が住む 宿の坪をば 菊ぞかざる
仙(ヒジリ)の宮とや 言ふべかるらん [山家集 466]
藤原宗輔の中納言は、保延2 (1136)~6 (1140)年3月の間での職位であることから、明らかに西行として出家(1141年10月15日、23歳)する以前に当たる。
現時点で、明らかに出家前の歌として確認されているのはこの歌のみのようである。少なくとも出家以前に、西行の歌才が世に認められていたことを示す証左と言えよう。
和歌と漢詩
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<和歌>
(詞書) 京極太政大臣 中納言と申しける折、菊をおびただしき程に仕立てて、鳥羽院にまいらせ給いたりけり。鳥羽の南殿の東面の坪に、ところなきほどにうえさせ給いたりけり。公重(キミシゲ)の少将、人々すすめて菊もてなされけるに、加わるべき由ありければ:
君が住む 宿の坪をば 菊ぞかざる
仙(ヒジリ)の宮とや 言ふべかるらん [山家集 466]
[註]〇君:鳥羽上皇; 〇坪:殿舎の間の中庭; 〇仙の宮:仙洞御所、上皇や法皇のいる所、菊の縁で「仙」という。
(大意)わが君のお住いになる宿の中庭を、菊が一杯に飾られていることだ。これこそまさに、仙の宮-仙洞御所というに相応しい。
<漢詩>
賞菊花在宮殿庭 宮殿庭の菊花を賞す [下平声九青-下平声八庚通韻]
菊花凌亂滿中庭, 菊花 凌亂(リョウラン) 中庭に滿(ミ)つ,
聞言大臣憶君情。 聞言(キクナラク) 大臣 君を憶(オモ)うの情。
應是定名仙洞院,應(マサニ)是(コ)れ 仙洞院(センノトウイン)と定名(ナヅ)くべし,
吾君住在宮殿横。 吾が君 住在(スマ)う宮殿の横。
[註]〇大臣:京極太政大臣藤原宗輔中納言; 〇憶君情:菊を献上し庭一杯に植えた、鳥羽院への思い; 〇定名:名を付ける、命名する; 〇仙洞院:仙洞御所、菊に因んで名づけられた御所。
<現代語訳>
宮殿中庭の菊花を賞す
菊花が中庭一杯に咲き乱れており、
中納言が忠君の情を以て献上して植えた菊であるという。
正に仙洞御所と名付けらるべきところで、
吾が君の住まわれる宮殿横の中庭である。
<簡体字およびピンイン>
赏菊花在宫殿庭 Shǎng júhuā zài gōngdiàn tíng
菊花凌乱满中庭, Júhuā língluàn mǎn zhōngtíng,
闻道大臣忆君情。wén dào dàchén yì jūn qíng.
应是定名仙洞院,Yīng shì dìngmíng xiāndòng yuàn,
吾君住在宫殿横。wú jūn zhù zài gōngdiàn héng.
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鳥羽の南殿とは、白河・鳥羽両院の離宮。洛南鳥羽の賀茂川沿いに広大な地域を占め、北殿・南殿・東殿などがあった と。現 京都市南区上鳥羽および伏見区下鳥羽・竹田・中島の一帯、「鳥羽離宮跡公園」としてある。
義清の曽祖父・佐藤公清以後の父系について整理しておきます。公清以後3代に亘って左衛門尉および検非違使であった。一方、祖父の代から大徳寺家に仕え、知行地として紀伊国・田仲荘の経営に当たっている。
義清は、15,6歳のころ徳大寺実能(サネヨシ)に出仕。18歳(1135年)時、佐兵衛尉に任官し、間もなく鳥羽院の北面の武士として出仕、院の御所を警護するようになる。その頃、先に触れた、徳大寺公重の菊の会に招かれている。
“公重の少将”とは徳大寺公重のことである。同氏は、主君・徳大寺実能(サネヨシ)の甥で、実能の猶子となったようである。義清とはほぼ同年配で、職の上でも近い仲であった。
なお、義清と同年生まれの平清盛も、同時期に鳥羽院の北面の武士として出仕しており、同僚であった。
【井中蛙の雑録】
〇周囲では、皆さん長い休日が続き、 巻き込まれて一緒に楽しませて貰った。内では、本日より、忙しい世界が幕開けする。外では、まだまだ安心できる状況にはない。国内外、落ち着くまでには、時間を要するか。