義清(ノリキヨ、西行)は、世上一般に考えられるような身の上の憂うべきこともなく、またその理由を語ることもなく、23歳で突然出家します。先に、“寄霞述懷”の歌会で、出家する心の内を打ち明けましたが、出家の理由については触れられていません。
出家の動機・理由について、多くの先人・研究者たちが研究対象とされ、世情、恋愛、厭世等々挙げられているが、実態は未だ謎のままである。ただ、義清の心にそぐわぬ事柄あるいは希望に添わぬ事柄が存在していたであろうことは、遺された歌から想像される。
以後、歌を読み、漢詩化を試みながら、出家の理由に繫がるであろうと想像される事柄、西行の心の内を探ってみたいと思います。まずは出家を思い始めたころの心境を詠じたであろうとされる一首(参考:寺澤行忠):
呉竹の 節繁からぬ 世なりせば
この君はとて さしいでなまし
すなわち、この世の中は、憂いを覚える事柄が多すぎて、いたたまれないよ ということであろうか。
和歌と漢詩
oooooooooooo
<和歌>
呉竹の 節しげからぬ 世なりせば
この君はとて さしいでなまし [山家集1420]
[註]〇呉竹の:「節」を言い出す枕詞。竹の節から、「ふし」となり、伏見、 うきふし、節(フシ)に、また節と節の間を節(ヨ)ともいうことから、夜、世、むなし にも掛かる。
(大意) もし世の中に憂きことがこれほど多くないならば、この君にこそは と言って、さし出(イデ)てお仕え申したいものを。
<漢詩>
希求世安寧 世の安寧を希求す [上平声十二文韻]
現世還如吳竹節, 現世(コノヨ )還(ナオ) 吳竹(クレタケ)の節の如くにして,
憂愁充滿心緒紛。 憂愁(ウレイ) 充滿し 心緒(オモイ) 紛(ミダレ)る。
否則宣言実在主, 否則(サモナクバ) 実在(マサ)に主こそ と宣言(センゲン)し,
拋頭露面侍奉君。 拋頭露面(ホウトウロメン)して 君に侍奉(ツカエ)ん。
[註]〇呉竹:くれ竹、中国の呉(ゴ)から渡来した竹の意; 〇心绪:心の動き; 〇否則:さもなければ; 〇抛头露面:さし出でる、四字成句; 〇侍奉:仕える。
<現代語訳>
世の安寧を希求す
この世はなお呉竹の節に似て、
憂きこと多く 心穏やかでない。
さもなければ、正に主たるお方と 心に決めて、
さし出でて お仕えするものを。
<簡体字およびピンイン>
希求世安宁 Xīqiú shì ānníng
现世还如吴竹节, Xiànshì hái rú wúzhú jié,
憂愁充满心绪纷。 yōuchóu chōngmǎn xīnxù fēn.
否则宣言实在主, Fǒuzé xuānyán shízài zhǔ,
抛头露面侍奉君。 pāotóu lòumiàn shìfèng jūn.
ooooooooooooo
義清の出家の動機・理由については、当人の告記がない以上、正確に判るわけはない。しかし遺された歌等の資料を基に詮索・類推することは、ファンにとっては苦でもあるが、また楽しみでもある。
本稿では、義清が出家を決断するに至る間、身を置いた私的・公的環境を概観して、“呉竹の節しげからぬ”状況について思いを巡らしてみたいと思います。一言でその時期を表現するなら、やがて迎える大激動・保元の乱(1159)勃発の前夜の頃と言えようか。
義清は15,6歳の頃、徳大寺実能(サネヨシ)に出仕、18歳(1135)に左兵衛尉に任じられ、鳥羽院に下北面武士として奉仕しています。
徳大寺実能は、藤原不比等の次男・房前を祖とする藤原北家(閑院流)の裔で、実能に至る間、幾代かで女子が後宮に入り、外戚の地位を得て権力を得、北家嫡流=藤氏長者=摂政関白 と位置付けられるほどに栄えた。実能は、葛野郡衣笠岡(現京都北区)を拓いて山荘を営み、ここに徳大寺を建立した。家名・徳大寺の由来である。
当時、実能は、左大臣の位にあった。一方、実能の妹に璋子(ショウシ / タマコ、後の待賢門院)がおり、鳥羽天皇(74代)の后である。その第一子に顕仁親王(後の崇徳天皇-75代)および第四子に雅仁親王(後の後白河天皇-77代)と続く。保元の乱に繫がる世の変化における立役者たちである。
実能の妹・璋子は、男性を魅了するような、色香漂う美人であったようである。歴史の転換の裏で、いろいろな場面、局面で主役を演じさせられていたように思われる。
以後、≪呉竹の節々-x≫と題して、歴史・世の流れを見つゝ、歌・漢詩に絡めて、義清出家の動機を探っていきたいと思います。
【井中蛙の雑録】
〇先のNHK大河ドラマ『光る君へ』における左大臣・道長(966~1027)の権力・栄華の様をつぶさに見させてもらいました。外戚の意義たるや絶大でした。
〇『光る君へ』から100余年の後、本稿の立役者の一人・左大臣・徳大寺実能(1096~1157)は、妹・璋子(待賢門院)が鳥羽天皇の后、その第一皇子が崇徳天皇である。外戚として、道長同様に権勢を振るっていたものと想像されます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます