この一対の句:
明月帰らず 碧海(ヘキカイ)に沈み,
白雲 愁色 蒼梧(ソウゴ)に満つ。
阿倍仲麻呂は、帰国の途上、海難に遭いました。李白は、その情報を得て、仲麻呂は亡くなったものと思い、それを悼んで書いた詩(下記)の一部です。実際は、仲麻呂は安南に漂着して無事でしたが、李白は最後までその事実を知らなかったようです。
仲麻呂に対する李白の深い心情が読み取れる詩と言えます。仲麻呂と李白が宮中でともに過ごしたのは2年に過ぎないが、王維を含めた御三方は、ほとんど同時代に生きています。その交流の程を想像すると感慨尽きない思いがします。
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<漢詩原文および読み下し文>
哭晁卿衡 晁卿(チョウケイ)衡(コウ)を哭(コク)す
日本晁卿辞帝都, 日本の晁卿 帝都を辞し,
征帆一片遶蓬壷。 征帆(セイハン)一片 蓬壷(ホウコ)を遶(メグ)る。
明月不帰沈碧海, 明月帰らず 碧海(ヘキカイ)に沈み,
白雲愁色満蒼梧。 白雲 愁色(シュウショク) 蒼梧(ソウゴ)に満つ。
註]
哭:(声を出して)泣く。
晁卿衡:晁衡(朝衡とも)は、阿倍仲麻呂の漢姓と名、姓名の間に漢職名“卿”を入れて呼ぶ。
征帆:往く船。
蓬壷:東方海上にあり、不老不死の薬を持つ仙人が棲むと考えられていた島、蓬莱山の異称。ここでは日本の意。
蒼梧:伝説上の五帝の舜が南方を巡幸中に亡くなったとされる地、現湖南省・洞庭湖辺りの原野。ともに旅の途中で亡くなったことに思いは及ぶ。
<現代語訳>
晁卿衡を哭す
日本の晁衡は、都長安を去り、
遠く往く一ひらの船で蓬莱の島をめぐり、日本に向かっていた。
清らかな月のような彼は、青い海に沈み、帰らぬ人となり、
白雲が悲しみを帯びて、南方の空に満ちている。
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作者李白については、度々触れており、ここでは割愛します。
先に“飛蓬”シリーズ(閑話休題-119)で取り挙げた仲麻呂の歌:
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
について、補足します。
この歌については、下に示したように、五言絶句の形で詠われた詩があります。ネット上で見る限り、この漢詩の作(翻訳)者が仲麻呂自身か否か、またこの詩の収載書籍は?など、検討を要することが多々あります。
翔首望東天、 首(コウベ)を翔(ア)げて東天を望めば、
神馳奈良辺。 神(ココロ)は馳(ハ)す奈良の辺。
三笠山頂上、 三笠山頂の上、
思又皎月圆。 思う又 皎月圆(マド)かなるを。
王維たちが設けた送別の宴では、「天の原 ……」の歌は、“日本語”で詠われた とされています。同宴で中国人参列者に解るよう、仲麻呂自身が漢詩に同時翻訳をした と考えるのが、もっとも自然ではある。
それにしても、ネット上、その収載書籍の所在が不明で戸惑っている次第である。仲麻呂が、帰国時に書いたとされる12句からなる排律(近体詩の一体)「命(メイ)を銜(フク)み国に還るの作」は、『全唐詩』巻732に収録されている由であるが。
上記の詩が仲麻呂作ならば、一つ確かに言えることがある。第2句に“奈良辺”とあることから推して、「天の原 ……」の歌は、遣唐使として九州を出発する際に作られたのではなく、長安での別れの宴での作である と言えよう。
明月帰らず 碧海(ヘキカイ)に沈み,
白雲 愁色 蒼梧(ソウゴ)に満つ。
阿倍仲麻呂は、帰国の途上、海難に遭いました。李白は、その情報を得て、仲麻呂は亡くなったものと思い、それを悼んで書いた詩(下記)の一部です。実際は、仲麻呂は安南に漂着して無事でしたが、李白は最後までその事実を知らなかったようです。
仲麻呂に対する李白の深い心情が読み取れる詩と言えます。仲麻呂と李白が宮中でともに過ごしたのは2年に過ぎないが、王維を含めた御三方は、ほとんど同時代に生きています。その交流の程を想像すると感慨尽きない思いがします。
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<漢詩原文および読み下し文>
哭晁卿衡 晁卿(チョウケイ)衡(コウ)を哭(コク)す
日本晁卿辞帝都, 日本の晁卿 帝都を辞し,
征帆一片遶蓬壷。 征帆(セイハン)一片 蓬壷(ホウコ)を遶(メグ)る。
明月不帰沈碧海, 明月帰らず 碧海(ヘキカイ)に沈み,
白雲愁色満蒼梧。 白雲 愁色(シュウショク) 蒼梧(ソウゴ)に満つ。
註]
哭:(声を出して)泣く。
晁卿衡:晁衡(朝衡とも)は、阿倍仲麻呂の漢姓と名、姓名の間に漢職名“卿”を入れて呼ぶ。
征帆:往く船。
蓬壷:東方海上にあり、不老不死の薬を持つ仙人が棲むと考えられていた島、蓬莱山の異称。ここでは日本の意。
蒼梧:伝説上の五帝の舜が南方を巡幸中に亡くなったとされる地、現湖南省・洞庭湖辺りの原野。ともに旅の途中で亡くなったことに思いは及ぶ。
<現代語訳>
晁卿衡を哭す
日本の晁衡は、都長安を去り、
遠く往く一ひらの船で蓬莱の島をめぐり、日本に向かっていた。
清らかな月のような彼は、青い海に沈み、帰らぬ人となり、
白雲が悲しみを帯びて、南方の空に満ちている。
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作者李白については、度々触れており、ここでは割愛します。
先に“飛蓬”シリーズ(閑話休題-119)で取り挙げた仲麻呂の歌:
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
について、補足します。
この歌については、下に示したように、五言絶句の形で詠われた詩があります。ネット上で見る限り、この漢詩の作(翻訳)者が仲麻呂自身か否か、またこの詩の収載書籍は?など、検討を要することが多々あります。
翔首望東天、 首(コウベ)を翔(ア)げて東天を望めば、
神馳奈良辺。 神(ココロ)は馳(ハ)す奈良の辺。
三笠山頂上、 三笠山頂の上、
思又皎月圆。 思う又 皎月圆(マド)かなるを。
王維たちが設けた送別の宴では、「天の原 ……」の歌は、“日本語”で詠われた とされています。同宴で中国人参列者に解るよう、仲麻呂自身が漢詩に同時翻訳をした と考えるのが、もっとも自然ではある。
それにしても、ネット上、その収載書籍の所在が不明で戸惑っている次第である。仲麻呂が、帰国時に書いたとされる12句からなる排律(近体詩の一体)「命(メイ)を銜(フク)み国に還るの作」は、『全唐詩』巻732に収録されている由であるが。
上記の詩が仲麻呂作ならば、一つ確かに言えることがある。第2句に“奈良辺”とあることから推して、「天の原 ……」の歌は、遣唐使として九州を出発する際に作られたのではなく、長安での別れの宴での作である と言えよう。