日垣隆氏の著作は久しぶりです。
本書は、いつも読書の参考にさせていただいている「ふとっちょパパ」さんも読まれたようです。
さて、本書ですが、いつもながらの日垣氏の切れの良い切り込みでジャーナリズムの危機的状況を顕かにしていきます。
たとえば、「第三章 スクープかフェアネスか」で紹介されている山崎朋子氏(証拠資料の窃盗)、佐木隆三氏(警察資料の無断コピー)、鎌田慧氏(取材意図の秘匿潜入)の例。
こういう事実を知ると、その作品が社会的弱者にスポットをあてた有意義な内容であるだけに、ルポルタージュの取材における倫理観の欠如について考えさせられますし、もっといえば非常に残念な情けない気持ちにもなります。
また、足利事件を材料にした章で語られている「冤罪の教訓」について。
冤罪を生む意図的な動きについての怒りは当然ですが、意図せざる冤罪も根絶することはできないのも、また現実でしょう。
(p135より引用) もちろん冤罪は許されるべきではないが、完全になくすことはできない。誤りに気づいたときには迅速に舵を切るべきであり、どのセクションの人が、いつ、どこで、どのように、なぜ捜査や公判維持を誤ったのかを公表すべきなのである。個々の役人をツルしあげるためにではなく、誤りを誤りとして認め、関係者に謝罪し、みなで再起を誓うために。
一定程度の誤報があることは、むしろジャーナリズムの健全性を表わしていると言いますが、ここでの日垣氏の指摘は、誤報を起こした際の「謝罪」の重要性です。
(p179より引用) 謝罪(反省)には三つの要素が絶対的に必要だ。1.謝意を誠実に表明すること、2.失敗に至る経緯を詳しくそのつど説明すること、3.償いをすること、である。
特に「2.」の経緯の正直な開陳が、次の冤罪を防ぐ真の反省となるのです。
さて、本書を通じて日垣氏の念頭にあるのは「活字ジャーナリズムのraison d'être(レーゾンデートル)」です。
その危機的状況を指摘しつつも、なお将来への期待も捨ててはいません。
(p194より引用) 私は「雑誌ジャーナリズムは死なない」と思っている。新聞が、相変らずタテマエに終始しているからだ。ホンネの部分を記事に書けない記者たちには、鬱憤が溜まっていく。だから彼らは週刊誌に情報を提供するのだし、「選択」や「FACTA」のような雑誌に自ら匿名で記事を書いたりもする。雑誌が情報の受け皿として機能しているのである。
もちろん本書でも、無料のネットメディア(インターネットを通じての情報の発信・受信)の急激な拡大は指摘されています。当然ですが、そういったメディア環境の劇的な変化は、従前からのいわゆるジャーナリズムの世界の人々にとっては大きな課題となります。
(p200より引用) たくさんの購読者がいた時代、広告が潤沢に入っていた時代と同じモデルのままでは、かつてと同じアウトプットを続けられるわけではないのだ。ではメディアや取材者たちは、これからどうやって生き残っていけばいいのか。
この状況に対して、日垣氏はなお楽観的です。
私もそう思います。
たとえば、昨年から私もTwitterに登録してそこに流れている情報を眺めています。が、ここ数ヶ月で感じたのは、「Twitterは、結局のところ、その性質上『有名人oriented』な仕掛けだ」ということです。無名の多くの人々のつぶやきは、大量に流れるTime Lineの中では全くの言いっ放しの独り言に過ぎません。そこでの情報の支配者は、多くの人々がフォローしている「有名人」であり、その人の発言が、わずかの人々のちょっとしたコメントを纏いつつネズミ講的に拡散されていくというのがTwitterの基本的な図式です。
大量の玉石混交の情報の流れから、意味のある情報を切り出して提示する「目利き」としての真のジャーナリストの価値は、こういう状況だからこそ意味を増してくるのだと思うのです。
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