OMOI-KOMI - 我流の作法 -

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言葉の力 (言葉の力、生きる力(柳田 邦男))

2012-05-31 22:42:05 | 本と雑誌

Kobe_kasai  柳田氏は、高校時代に中原中也の詩集を手に取りました。そして、その一篇に綴られた「月夜の晩に拾ったボタン」という言葉が、「自分だけが大切に思うものを象徴するキーフレーズ」になったと語っています。

 この言葉を抱き続けて年月を経るうちに、この「大事なもの」というボタンの意味には、さらに「生を支える」大事なものという意味が加わり膨らんでいきました。

(p54より引用) 胸に刻んだ言葉というものは、人生の歩数とともに、内実の変容をも加えて、成長し、膨らみ、成熟していく。

 自らの精神経験の深まりによって、「言葉」に潜在化していた意味を掘り出し、それを磨き上げていくといったことは確かにありますね。

 さて、本書の中盤は、人の生死に向き合った方々の日記やエッセイを取り上げて、「命」「生き方」に関わる様々な柳田氏の考えを披露しています。

 たとえば、少年時代の「悲しみ」の経験の大切さについて。

(p143より引用) 悲しみの感情や涙は、実は心を耕し、他者への理解を深め、すがすがしく明日を生きるエネルギー源になるものなのだと、私は様々な出会いのなかで感じる。

 悲しみを受容し、その中で人生の「肯定的な意味」を自らのものにしていく、精神的な成長は、「強さ」「明るさ」の発揮やそれらのみを是とする教えだけでは深まらないのです。

 そして、本書後半では、柳田氏は、「マスコミ」「行政」等にかかる時事問題を材料に、それらを観る視点・視座等について綴っています。そこでのキーコンセプトは「2.5人称の視点」です。

 ひとつの説明材料は「少年法」
 この法は、加害者たる少年の保護・更生を目的とした刑事訴訟法の特則的性質の法律ですが、悲惨な状況に追い込まれた被害者の救済については、その法律の視野には全く入っていません。被害者の両親が加害者(少年)の審理を傍聴することすら却下できるのです。

(p232より引用) 一般人の考えから見るならば、重要な当事者である被害者の親がどのような人物に如何なる理由で大事なわが子を殺されたのか、その真実を知るために、審理に同席して審理の内容を傍聴し、自らの心情についても語りたいと願うのは、当然の権利だと思うだろう。
 しかし、不思議なことに、裁判官という法律の専門家は、そういうことは「無駄だ」と考えるのだ。

 こういう「専門家」の乾ききった目に潤いを与えるものとして、柳田氏は「2.5人称の視点」を掲げています。二人称の立場に寄り添いつつも、第三者的な客観的視点も失わない立ち位置です。

 こういう多層的な人間的な関わりにも重きを置いた「成熟したものの見方」は、バーチャルなコミュニケーションが増しつつある現代において、ますます欠くことのできない大切な姿勢になるのだと思います。


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事実の物語化 (言葉の力、生きる力(柳田 邦男))

2012-05-27 08:50:58 | 本と雑誌

Reisen  2・3年前に買っていた本です。
 1冊の本としては、本当に久しぶりに手にとる柳田邦男氏の著作です。

 柳田氏の著作を集中的に読んだのは学生時代ですから、もう30年以上前になります。「事実の時代に」に始まる一連のシリーズのころで、柳田氏の「事実」に対する真摯な態度とそれを追及する執着心には大いに刺激を受けた記憶があります。

(p16より引用) 70年代以降、・・・「事実」というキーワードを冠したノンフィクション論のエッセイ評論集を、自分の存在証明を賭けるほどの意識をもって、何冊も発表してきた。それは、50年代の学生時代に味わった、実存する人間の現実を無視したイデオロギー優先の政治論に対するアンチテーゼの意味をこめての表現活動だった。

 本書は2000年から2001年ごろに書かれた小文を再録したものなので、当時の柳田氏の考え方における「事実」を扱う姿勢やそれを伝える「ノンフィクション」という手法に対する捉え方には、現時点では、少なからぬ変化が見られます。

(p17より引用) しかし、ここにきて、私はノンフィクションという表現活動に行き詰まり感を抱くようになった。・・・その限界あるいは危険性を感じるようになったということだ。
 とくに問題なのは、事実主義が蔓延するようになったことだ。事実であれば、あるいは面白ければ、プライバシーでも何でも書いてしまう当世のジャーナリズム。・・・

 もちろん「事実」であるからといって、無条件に、他者を踏みにじることが許される治外法権的権利が与えられるものではありません。

(p17より引用) 私がイデオロギー優先へのアンチテーゼとして、「事実」というキーワードを提起した時、戦争や災害や事件の被害者の悲しみや心の傷みに対する豊かな想像力に支えられた配慮という要素は、言わずもがなの前提条件だった。しかし当世は、そういう前提条件はすっぽ抜けて、カラカラに乾いた事実主義が闊歩している。

 柳田氏は、こういう「事実至上主義」を否定します。そして、「ノンフィクション的表現形式」には、そういった傾向を助長する惧れが内包されていると考えはじめたようです。
 事実の「正確」な開陳ではなく、事実の取捨選択とそれらの再構成という文脈化による「物語性」に新たな意義を認めたのです。


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マエカワはなぜ「跳ぶ」のか (前川 正雄)

2012-05-24 22:39:05 | 本と雑誌

Newton_maekawa  以前参加していたフォーラムの事務局から頂いた本です。
 フォーラムのコーディネータであった野中郁次郎氏が監修されています。

 舞台は、ハイテク企業「マエカワ(前川製作所)」、著者は同社顧問の前川正雄氏です。
 「独法」と名づけた少人数の自己完結ビジネスユニットの複合体経営で発展したマエカワですが、最近のプロジェクトの大型化に対応し、業界ごとの「一社化」に組織を変えました。とはいえ、幹となるユニークな経営スタイルは不変です。

 マエカワでは米国流の分析的・論理的な企業経営に与しません。
 分析よりも、今いる「場」を俯瞰的に感得し、その中で不連続な変化を志向するのです。この「不連続性」の実践を、著者は「跳ぶ」と表しているようです。

 そういった姿勢は、個々の構成員たる社員に浸透させなくてはなりません。

(p61より引用) 自分が感じていることを他人にも感じてもらうには論理の助けを借りては駄目だ。論理化して伝えようとすると、本人が感じていることの数分の一しか伝わらないからである。

 感覚知は論理的な伝達には馴染みません。生身の人間同士の経験の共有、同じ「場」での共存が不可欠なのです。

(p63より引用) 真の見える化、真の情報交換は、「場所性」があってはじめて成立するということだ。・・・場所性がないところでは、見える化も情報交換も表面的なものになってしまい、本質論に深まらない。

 このあたりの主張は、「分業制度の弊害」という章でも触れられています。

(p154より引用) 場所の情報は、製造の人間には製造からみた一面しかわかりようがない。・・・場所の情報の実体をつかもうとするなら、製造、販売、技術、業務といったすべてのメンバーが一緒に情報に触れ、その感覚知をお互いに交換しながらつかむしかない。企業にとって重要な情報は、一人だけではつかめないということだ。それぞれの専門性からとらえた感覚知を綜合してはじめて、なるほど実体はこうだったのかと、わかるのである。

 経験の共有を重視するスタイルは、マエカワの人材育成方法にも表れています。
 いくつかの企業では、新人社員の育成を先輩社員にサポートさせるチューター制をとっていますが、マエカワの先輩社員は、中途半端な若手・中堅社員ではありません。

(p116より引用) 人材育成で肝心なのは、20代で大きな冒険をさせることである。20代で冒険できた人は30代で跳ぶことを体験できる。・・・
 若手を跳ばせるには、50代、60代の先輩が一人ついて、二、三人のチームを組ませるのがいい。共同作業をさせながら、ギリギリまで自分たちで物事を判断させ、最後のところで手を貸して成功体験を積ませるのである。失敗もあるが、これは人材育成のコストと考えるべきである。

 形式的な「定年」は定めているものの、希望すれば70~80歳でも働き続けられるマエカワならではの「匠」の育成方法ですね。


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親鸞 激動篇 (五木 寛之)

2012-05-20 10:01:17 | 本と雑誌

Shinran  以前読んだ「親鸞」の続編、今回の舞台は、流刑の地、越後の国と新たなる布教の地、常陸の国です。

 小説ですので、ストーリーについてのご紹介はやめておきます。
 とはいえ、気になったフレーズをひとつだけ。

(下p18より引用) はかなきこの世を過ぐすとて
海山稼ぐとせしほどに
よろずの仏にうとまれて
後生わが身をいかにせん

 親鸞はこの歌を思いだすたびに、胸がぎゅっとしめつけられるような気持ちがするのである。・・・無間地獄の恐ろしさを世にひろめたのは、仏門の僧たちである。
 生きて地獄。
 死んで地獄。
 救いをもとめて仏にすがろうとすると、よろずの仏は皆、さしだされた人びとの手をふり払って去っていく。
 おまえたちのような悪人を救うことはできない、と。

 一種マッチポンプのような当時の仏の教え、それに翻弄される庶民の苦悩を前にして親鸞は心を痛めます。親鸞自身も、師法然の教えを体得し切れない己の在り様に悩みは尽きません。五木氏の描く親鸞は、どこまでも聖俗混交の体で、これが器の大きさの表れなのか未だ未熟さの故なのか、どうもすっきりしないのです。

 本作品ですが、「激動篇」の上下をもって、刊行されているのは4冊になりますが、ここまでのところでは読み応えのある重厚な内容とは言い難いですね。
 親鸞の心の葛藤・成長が本幹ではありますが、そのあたりの描写も正直なところ深みを感じません。基本的なタッチは、前作と同様にエンターテイメント的、劇画調。別段、主人公が親鸞でなくてもある程度成り立ってしまうようなストーリーラインです。
 このあたり、本小説の評価・好悪の分かれるところかもしれません。

 私たちの世代の人間にとっては、五木寛之氏は一種、時代を象徴する先導者といった印象を抱かせる作家の一人です。
 今回は、私もノスタルジックに、「五木寛之」の名前をもって本作品に手を伸ばしているんだな、という感を改めて強くしました。


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ビーグル号世界周航記―ダーウィンは何をみたか (チャールズ・ロバート・ダーウィン)

2012-05-16 23:32:51 | 本と雑誌

Marine_iguana  ダーウィンの著作はまだ一冊も読んでいませんでした。有名な「種の起源」も、何度か読もうと思ったのですが、あの分厚さに少々気後れしていたのです。

 ということで、今回手に取ったのはコンパクトな著作、「ビーグル号航海記」のエッセンス版です。内容は、1831年、英海軍の測量船ビーグル号に同乗したダーウィンによる南米大陸や南太平洋諸島の調査記録です。平易な文で図版も多く掲載されており、とても読みやすいものでした。

 ダーウィンの進化論といえば、まずはガラパゴス諸島のイグアナやゾウガメを思い起こします。本書でのイグアナに関する記述です。

(p52より引用) トカゲの中でめだった種属であるアンブリリンカスは、ガラパゴス諸島にだけ棲息している。それにはだいたいの形が、たがいに似ている二種類のものがあり、一つは陸棲、他は海棲である。・・・
 私は数回、おなじトカゲをある一点においこんで捕らえたが、こんなに完全な潜水力と水泳力とをもっているのに、どうしても水中に入らせることができなかった。・・・
 たぶん、この見かけの上での愚かさは、この爬虫類が海岸ではまったく敵がいないのに、海ではときどき多数のフカの餌食にされてしまわねばならないという事実から説明されるであろう。したがって、トカゲにはおそらく岸は安全な場所であるという固定した遺伝的本能があって、そのためどんな危ない目にあっても、そこを避難所とするのである。

 こういった「動物」をテーマにした章に続いて、「人類」「地理」「自然」と章立てされていますが、どの記述も大変興味深いものがありますね。「対象」自体もそうですが、対象を見る「観察者」の視点からも当時の社会状況を垣間見ることができるので、二重に面白く感じられるのです。

 そのあたり「人類」の章、「奴隷」についてのダーウィンの考え方が表れているくだりです。ダーウィンがブラジルを訪れた際、ある家の前を通りかかると、うめき声が聞こえてきました。

(p121より引用) それはあるあわれな奴隷がさいなまれている声だと想像しないわけにはいかなかったが、それでも私は子供とおなじように無力で、抗議してさえやれなかったときの気持ちを、苦しくもまざまざと思い起こすのである。

 当時の植民地では、奴隷制度は許されてもよい弊害だという感覚が一般的でした。

(p124より引用) 奴隷所有者には同情して、奴隷には冷たい心で見る人は、けっして奴隷の位置に自分をおいて考えることがないらしい。・・・
 われわれイギリス人が、またわれわれのアメリカにいる子孫がおこがましくも自由を叫びながら、こういう罪を犯してきたし、また現に犯しているのを考えると、私の血は沸きたち、心はふるえる。

 ダーウィンは、忸怩たる思いで自分の無力を感じつつも、奴隷制度には反対でした。

 そして、最終、「自然」の章では、1835年2月、チリ滞在中に遭遇したM8クラスの大地震とそれによる津波の被害についても書き残しています。このあたりの記述は、昨年の東日本大震災の記憶と重なるところがあり印象的でした。

 また、この章では、様々な自然の力について記していますが、最後に、ダーウィンが驚愕した驚異的な「生き物(生命)の力」に関するくだりをご紹介しておきます。場所はインド洋の環礁、主人公は珊瑚虫です。

(p227より引用) 生きている珊瑚虫は石灰の炭酸塩の原子を一つ一つ泡立つ砕波から分離して、それらを一つの均斉のとれた構造に合成する。台風が千個もの大きな断片を裂きとってしまったとしても、夜も昼も、月に月をかさねて無数の建築師のつもりつもった働きに対してどれだけの力があるだろうか?かくしてわれわれの珊瑚虫の軟らかい膠質体が、生命の法則の力によって、人間の技術でも自然の無生命の工作物でも、とても抵抗できない海の波の大きな機械力を征服しているのを目のあたりにするのである。

 遠大で持続的な生命に対する賛美ですね。


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歴史・科学・現代 加藤周一対談集 (加藤 周一)

2012-05-12 10:02:58 | 本と雑誌

Yukawa  久しぶりに加藤周一氏関係の本です。

 今回は珍しく対談集を選んでみました。政治学者丸山真男氏、物理学者湯川秀樹氏、哲学者久野収氏、フランス文学者渡辺一夫氏、宗教思想史家笠原芳光氏、哲学者J=P・サルトル氏、歴史学者西嶋定生氏ら、語り合う相手も錚錚たる方々です。

 まず最初は、丸山真男氏と「歴史意識と文化のパターン」というテーマで。気心の知れたお二人の話題は奔放に拡がります。
 その中で興味深かったのは、日本の歴史意識における丸山氏の「古層」というコンセプト。

(p8より引用) 丸山さんが「古層」という言葉でいっているものは、持続低音として続いているというわけでしょう。主旋律は時代によって違う。それはたいてい外からのインパクト、まあ簡単にいえば、仏教と儒教と西洋思想ですね、それとの接触から出て来る。しかし、持続低音はずっと同じ調子で続いている、という考え方でしょう。

 こういった加藤氏の解釈を皮切りに、さらにこう論は進みます。

(p9より引用) それから主旋律のほうでも、外国から入って来たものが日本で微妙に変わる。変わるのは持続低音があるからだということでしょう。だから、はっきり表現された主旋律が外国の原型とどう違うかということを分析すれば、その違いをつくり出した持続低音を推定することが出来る。こういう基本的な考え方は、日本歴史を思想的に捉えるとき、唯一の有効な捉え方ではないか、とさえ思っています。

 もうひとつ、歴史家としての慈円と新井白石との比較論に話題が至ったとき。加藤氏は白石を評価していましたが、それに対する丸山氏のコメントも面白いものでした。

(p16より引用) 白石には、武家政権に距離をおいて、これを対象化する視点がない。歴史的価値判断の次元でも、白石は筋は通っているけれど、そのために明快すぎてね。慈円の方が判断の仕方が多層的じゃないでしょうか。

 この意見について、加藤氏は再反論します。
 慈円は、肝心な歴史解釈のところで仏教的な結果論に拠り過ぎているというのです。

(p17より引用) ・・・白石は、もちろん一方ではあまりに道徳主義だけれども、しかし、仏教で逃げちゃうよりも・・・
 ・・・そこは白石のほうが人間の歴史として人間自身の力で説明しようとしている。

 こういった知見の交錯は、(もちろん私には、どちらの論が正しいのか判断できるほどの学識は全くありませんが)とても興味深く感じますね。

 ちなみに、丸山氏との議論で登場した日本の持続低音としての「古層」というコンセプトですが、似たような内容が西嶋氏との対話でも見られます。
 日本は「情の世界」、中国は「理の世界」との話のくだりで西嶋氏はこう説いています。

(p276より引用) 情と理とはもともと次元が違うので、理を借りるときは簡単に借りてきてしまう。情のほうからいえば、融通無碍に取り入れてしまう。しかし、理が取り入れられて、そこで理として定着するかというと、やはりそうはならない。理は情の世界の中ではやはり足場のない浮遊物のようなもので、なかなか定着しない。日本と中国との関係、あるいは日本の中国文明の取り入れ方は、そういう性格として理解できる面があるでしょう。

 丸山氏の「古層」は、西嶋氏のいう「情」と重なるように思います。

 さて、本書に採録された8編を読み通してみての感想ですが、特に私の印象に残ったのは、「科学と芸術」というテーマでの湯川秀樹氏との対談でした。
 加藤氏は、東大医学部卒業ですから、科学的素養は十分に有しているわけですが、他方、湯川氏の学識の広範さには驚かされます。
 たとえば、こういう言葉が湯川氏から発せられるのです。

(p150より引用) 画を精神の表現とする考え方は、六朝の中ごろの宗炳くらいまでさかのぼるわけでしょうね。

 このあと湯川氏は、荘子の思想にも言及し、「荘子こそが動物生態学の開祖になるのではないか」とも指摘しています。幼い頃から漢籍を学び、また晩年は生物学にも関心を拡げた湯川氏ならではの返答ですね。

 もちろん、他の方々との対談にも、それぞれに興味を惹かれるところ、新たな知見を得られるところが多々ありましたが、この湯川氏の語り口は、柔和であるがゆえに猶更その薀蓄の深遠さを感じさせるものですね。


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エースの資格 (江夏 豊)

2012-05-09 22:31:27 | 本と雑誌

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YouTube: 江夏の九連続奪三振

 
 206勝158負193セーブ。著者の江夏豊氏は、まさに先発・リリーフを通して「エース」でした。

 本書は、その江夏氏による「エース論」。当事者ならではの興味深いエピソードも含め、予想外?に正統派の江夏氏の考え方が開陳されています。

 野球関係の「エピソード」に欠かせないキャラクタは、何と言っても長嶋茂雄さん。「ピッチャーはマイナス思考」というコンテクストの中でも早速の登場です。

(p69より引用) 無神経といったら失礼かもしれませんが、・・・あの長嶋茂雄さんもそれで成功した方です。バッターは無神経でも仕事ができるんですね。
 ただし、ピッチャーはやはり、無神経では務まらない。考えて投げなければいけない。・・・
 バッターが無神経でも成功するのは、つねに受け身だからです。極端にいえば、来たボールにただ反応すればいい。ピッチャーはそうはいきません。

 野球キャリアの後半は「絶対の守護神」として活躍した江夏氏ですが、高校を卒業後入団した阪神タイガースでは、村山実氏の後を継いだ正に「エース」、剛腕の先発投手でした。
 当時の江夏氏の数々の記録の中で「1シーズン401奪三振(世界記録)」という素晴らしい記録があります。その江夏氏が語る「理想的な三振」について。

(p98より引用) 仮に絶体絶命のピンチの状況に置かれて、もしねらって三振を取れるとしたら、空振りではなく、見逃し三振がいい。それも、できることなら三つ。アウトコースに「ボン、ボン、ボーン」で、すべて見逃しの三球三振がいちばんいい。
 こんな三球三振が、私にとっては最高の快感であり、喜びでした。

 意識したボール玉を振らせる投球術も持っていた江夏氏ですが、ピッチャーの鉄則はバッターに「フルスイングさせない」ことだと語ります。スイングさせてしまうと、当ればホームランもありうるからです。こう考えるあたりは、「マイナス思考」で「いつも打者を見て考えながらピッチングをしていた」という江夏氏の言葉と重なります。

 とはいえ、江夏氏のいう「マイナス思考」は受動的なものではありませんでした。最悪のことを頭において、それを避けるために、考え行動することを自らに課しました。そして、その姿勢を、野球界の若手選手に愚直に熱く訴えるのです。

(p246より引用) 私生活を含めてただ漠然と生きるよりも、自分で考えて工夫して、自分で感じて求めたいと思ったことに対して、勇気をもってぶつかっていく。
 私はつねづね、それが大事なことだと思っています。とくに、若い人にとっては。

 さて、最後に、私が「エース」と聞いて私が思い浮かべる投手。もちろん江夏投手はその一人ですが、そのほかにも、鈴木啓示投手・山田久志投手らがいます。ただ、やはりなんと言っても、極めつけは「マサカリ投法」の村田兆治投手ですね。センタの外野席から見ても、その剛速球のインパクトは強烈でした。


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徒然草 (兼好・島内 裕子)

2012-05-06 08:33:59 | 本と雑誌

Yoshida_kenko_2  ちょっと前に鴨長明の「方丈記」を読んだので、今度は、兼好の「徒然草」です。

(p17より引用) 徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆく由無し事を、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。

 冒頭の一節はあまりにも有名です。高校の古文のテキストでもお馴染みですね。ただ、当時は、部分的にいくつかの段を読んだだけなので、今回は全段読み通すことにしました。

 さて、その中から、ちょっと気になったくだりのご紹介です。
 まずは、第十三段。兼好が、自らの「読書」について語ったくだりです。

(p41より引用) 一人、燈火の下に、文を広げて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰む業なる。
 文は、『文選』の哀れなる巻々、『白氏の文集』、『老子』の言葉、『南華の篇』。この国の博士どもの書ける物も、古のは、哀れなる事、多かり。

兼好は読書人でもあり、当代一流の歌人でもありました。

 「徒然」という状態は、兼好にとって理想的な生きる姿でもあったようです。第七十五段では、こう語っています。

(p156より引用) 徒然侘ぶる人は、いかなる心ならん。紛るる方無く、ただ一人有るのみこそ良けれ。・・・
 いまだ、真の道を知らずとも、縁を離れて身を静かにし、事に与らずして心を安くせんこそ、暫く楽しぶとも言ひつべけれ。

世俗的な関わりから離れ、雑事に紛れることなく、ひとり静かに暮らすことが人生を楽しむということだ、兼好の望む様です。

 とはいえ、徒然なるままに無為に時間を過ごすことを賞賛ばかりはしていません。第百八段では、今を生きることの大切さをこう説いています。

(p214より引用) 一日の中に、飲食・便利・睡眠・言語・行歩、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの暇、幾何ならぬ中に、無益の事を成し、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して、時を移すのみならず、日を消し、月を渡りて一生を送る、最も愚かなり。

無益のことにこだわりを持つのは、「自己を知らない」ことに起因します。自己を知らないと際限のない欲望を抱くことになります。

(p259より引用) 貪る事の止まざるは、命を終ふる大事、今ここに来れりと、確かに知らざればなり。

第百三十四段で示した兼好の命題は、「生きられる時間」の貴重さを改めて強く認識させるものです。その貴重な時間の過ごし方について、第百八十八段でも具体的な例を挙げつつ、重ねて語っています。

(p366より引用) されば、一生の中、旨とあらまほしからん事の中に、いづれか勝ると良く思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。・・・
 京に住む人、急ぎて東山に用有りて、既に行き着きたりとも、西山に行きて、その益、増さるべき事を思ひ得たらば、門より帰りて、西山へ行くべきなり。・・・一時の懈怠、即ち一生の懈怠となる。これを、恐るべし。

 徒然草を読み通してみると、改めて、そのテーマ・着眼・文体等の多彩さに驚かされます。
 「・・・、いとをかし」といった枕草子然としたものもあれば、宮廷の有職故実を「実務的なタッチ」で書き置いたものもあります。もちろん、「無常観」に立脚した人生訓的なものもあれば、兼好の身近に起こった出来事をそれこそ「そこはかとなく」書き綴ったものもあります。

 最後に、教科書的ではないものとして、私の印象に残った一節を書き留めておきます。
 第二百三十六段、舞台は丹波亀岡の神社、その本殿前の獅子と狛犬が背中合わせに置かれていました。聖海上人は、何か由緒があるのだろうと大いに感動し、神官に尋ねたところ・・・。

(p448より引用) 「その事に候。さがなき童どもの、仕りける、奇怪に候ふ事なり」とて、差し寄りて、据ゑ直して、去にければ、上人の感涙、徒らに成りにけり。

 落語のマクラにでも使われそうな1シーンですね。


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もし、日本という国がなかったら (ロジャー・パルバース)

2012-05-02 23:02:18 | 本と雑誌

Miyazawa_kenji_2  いつも行っている図書館の新着図書の棚で見つけました。

 帯に坂本龍一氏の推薦文が載っていたので興味をもって手に取ったものです。
 著者のロジャー・パルバース氏は、アメリカ生まれですが、50年近く日本に在住している作家です。本書で綴られているのは、そのパルバース氏からの日本と日本人へのメッセージです。

 冒頭、著者自身の若いころを思い起こしながら、日本の若者にこう訴えかけます。

(p26より引用) いま足りないのは「反逆の精神」です。理屈ではなく、両親や祖父母の世代にはだまされた気がするという感覚、自分の自尊心を呼び覚ますには自分なりの価値観を、まずは同世代の仲間のために、作るしかないという感覚です。

 著者は、日本が生み出した多彩な人物の功績にも触れながら、日本を勇気づけるエールを送っています。
 彼が特に敬愛した宮沢賢治をはじめとして、葛飾北斎・坂口安吾・早川雪洲・南方熊楠・高峰譲吉・・・。彼らは、「創造的な偶像破壊者」であり、卓越したオリジナリティを発揮した偉人たちでした。

(p237より引用) 本来、欧米人は一貫性や対称性にこだわります。でも、日本の芸術とは、多彩なテーマを、スタイルをごた混ぜにして表現するものです。外部からの影響を受け入れる日本の姿勢は、ときには、日本の芸術家を「物まね」や「改良家」のように見せてしまうこともあるでしょう。でも、それは創造の過程における、単なる通過点に過ぎないのです。外からの影響がすべて吸収された後には、独創性のある素晴らしいものが産み出される。日本のオリジナリティは、このような形で生まれるものなのです。

著者は、40年を越える日本での生活の中を通して、とても国際的な視野から見ても最高の評価を受けるであろうような魅力的な人たちと交流を持ちました。井上ひさし氏、大島渚氏、坂本龍一氏・・・。その一方で、自国の文化や習慣の素晴らしさに無頓着な日本人を数多く見てきたとも語っています。

(p309より引用) もちろん、自国の文化をあまりに持ち上げることは、昭和の最初の20年間の歴史を見ればわかるように、悪質なナショナリズムにも発展しかねません。自国の過去と現在を、鋭いバランス感覚を持って眺める必要があることは言うまでもありません。でもぼくは、日本の人々が自国の文化をもっとよく知るようになり、日本の文化を形づくってきた驚くべき人々をもっとしっかり正確に知るようになることを願っています。そうなって初めて、日本の人々は、世界の人々と対等な立場でつきあえるようになるのですから。

 1967年、初めて日本の地を踏んで以来、「日本」は、著者にとって特別な国となりました。
 本書に込められた著者の熱い想いです。

(p33より引用) ぼくは、最も広義の日本文化、つまり日本人の振る舞いかた、態度、人間関係、ものの考え方、独自の世界を創り出す手法などが、21世紀の世界が抱える問題に対して、具体的な解決策を提供できると確信しています。

 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩に、日本人の美徳である「愛他精神」を見る、東日本大震災からの復興が本格化するこれからの日本にとって、著者はよき理解者であり、また、日本人自身も意識していない気づきを与えてくれる水先案内人のようです。

 しかし、日本には、こんな諺もあります。「喉元過ぎれば、熱さを忘れる」。
 決して、そうならないように、あらゆる機会を捉えて思い起こし、現実を踏まえた未来への営みを、常に現在進行形として位置づけ続けなくてはなりません。


もし、日本という国がなかったら もし、日本という国がなかったら
価格:¥ 1,785(税込)
発売日:2011-12-15



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