学生時代からずっと気にはなりつつも、恥ずかしながら、宇沢弘文教授の著作を読むのはこの歳になって初めてだと思います。
テーマは「社会的共通資本」。
読んでみての印象ですが、理論や論考で塗り固められているような内容を予想していたのですが、大いに(いい意味で)裏切られました。宇沢教授の自伝的なテイストも漂う内容で、それを辿っていくだけでもとても興味深いものでした。
そういった宇沢教授の人柄が偲ばれるようなくだりをいくつか書き留めておきます。
まずは、宇沢教授がシカゴ大学時代、ヴェトナム戦争反対の学生運動収拾に関わったときのエピソードです。
宇沢教授が学生に提示した調停案を前に、大学当局の代表リーヴィ教授と相対した場面です。
(p44より引用) 「学生の成績をつけることは、シカゴ大学教授としての雇用契約の重要な法的拘束力をもつ要件である。あなたは今、それを破ろうとしている」
つまり、お前はクビになる、ということです。私は打ちのめされて、しばらく何も発 言できませんでした。・・・満場水を打ったような静寂を破ってリーヴィ教授が続けました。
「だが、あなたの良心にかけての行動は、教授雇用契約の法的拘束力に優先する」
私はリーヴィ教授の言葉に感動し、大学教授は社会的共通資本としての大学を守るという重い責務を背負っているのだと強く感じました。
こういう大学の姿勢・リーダの存在は見事であり、とても頼もしく感じますね。
また、宇沢教授は“リベラル・アーツ”としての「教育」にも大きな関心を抱き、自らの信条としても“リベラリズム” を重視されていました。教授は、この“リベラリズム”を体現した先人として「福沢諭吉」をあげ、そこから「アダム・スミス」に思いをはせています。
(p92より引用)「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という人間に対する考え方、はじめての異郷の地でもまったくゆるがない信念を思うにつけても、私は、人間性の社会的本質を明らかにしようとしたアダム・スミスの『道徳感情論』を思い起こし、そこに経済学の原点をみる思いがします。『道徳感情論』をもとにして書かれた『国富論』のなかで、アダム・スミスは論理的整合性のみを基準として設計された経済制度は、必然的に、多様で個性的な人間のもつ基本的性向と矛盾することを、繰りかえし強調していました。
アダム・スミスといえば、“人々が利己的に行動することこそが、市場を通じて公益の増大にもつながる”という「レッセフェール(自由放任主義)」説いた人物だと短絡的に理解していた私にとって、この宇沢教授の指摘は“目から鱗”のショックがありました。
もうひとつ、「大学の変容」について。
1980年代、宇沢教授が東京大学経済学部長だったころ、官主導による大学改革の動きが東大にも及んで来ました。
(p112より引用) とりわけ無念だったのは、アメリカにはじまる市場原理主義の流れが押し寄せてからの変わりようです。学生たちは人間が本来持つべき理性、知性、そして感性まで失い、人生最大の目的はひたすら儲けることだという、まさに餓鬼道に堕ちてしまったのです。その頃から、工学部の学生たちが競って金融機関に就職を希望しはじめたのを見て、向坊さんは心底突いてこう言われました。
「工学はもともと、すべての人々が豊かな文化的香りの高い生活を営むことができるように、自然も社会も安定的に持続的に維持できるような社会的インフラストラクチャーをつくるのが目的ではないか。その工学を勉強した学生たちが、ただひたすら金儲けを求めて自分の人生を送ろうとすることほど悲しいことはない……」
この向坊学長の感慨に対し、さらに追い打ちをかけるように、こうエピソードは続きます。
(p112より引用) しかし、経済学部の同僚の教授は私にこういったのです。
「私のゼミの学生はその多くが大銀行に就職する。それは大銀行に入れば定年になってからも二次的な就職が可能で、生涯所得を最大にすることができるからだ。経済学の基本をちゃんと理解している彼らは、じつに賢明だ」
大学の変容に抗すべき「教師」までもがこういった考え方に染まっている・・・。学生が、というのも“むべなるかな”です。
しかし、まさに今振り返ってみると、その学生たちは本当に“賢明だった”といえるでしょうか・・・?