OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

日本企業の成功 (知識創造企業(野中郁次郎/竹内弘高))

2007-12-31 20:55:55 | 本と雑誌

Copy  著者の野中・竹内両氏は、序文において、本書で明らかにしたひとつの結論を以下のとおり端的に表明しています。

(pⅱより引用) この本の中で我々が主張しているのは、日本企業は「組織的知識創造」の技能・技術によって成功してきたのだ、ということである。組織的知識創造とは、新しい知識を創り出し、組織全体に広め、製品やサービスあるいは業務システムに具体化する組織全体の能力のことである。これが日本企業成功の根本要因なのである。なぜ日本企業が成功したかについての議論はたくさんあるが、我々が突き止めたのは、組織の最も基本的で普遍的な要素である人間知であった。

 この「人間知」の生成プロセスを、「形式知/暗黙知」「個人/組織」といった「認識論的」「存在論的」観点から解き明かして行きます。
 その「知識創造」の過程は、不確実性の時代において連続的イノベーションを生み出し続けるダイナミックなものです。

(p4より引用) 不確実性の時代には、企業は頻繁に組織の外にある知識を求めざるをえない。日本企業は、貪欲に顧客、下請け、流通業者、官庁、そして競争相手からも新しい洞察やヒントを求めた。・・・日本企業の連続的イノベーションの特徴は、この外部知識との連携なのである。外部から取り込まれた知識は、組織内部で広く共有され、知識ベースに蓄積されて、新しい技術や新製品を開発するのに利用される。・・・この外から内へ、内から外へという活動こそが、日本企業の連続的イノベーションの原動力である。

 こういった企業活動は、知識をベースにした「個人」と「組織」との弛みない相互作用です。

(p88より引用) 知識を創像するのは個人だけである。・・・組織の役割は、創造性豊かな個人を助け、知識創造のためのより良い条件を作り出すことである。したがって、組織的知識創造は、個人によって創り出される知識を組織的に増幅し、組織の知識ネットワークに結晶化するプロセスと理解すべきである。

 本書で示された数多くの立論過程は、2つの対立概念を対照させつつ論ずるというパターンをとっています。
 しかしながら、著者は、それら二項対立を「似非ダイコトミー」だといいます。

(p355より引用)
1.暗黙的/明示的
2.身体/精神
3.個人/組織
4.トップダウン/ボトムアップ
5.ビュロクラシー/タスクフォース
6.リレー/ラグビー
7.東洋/西洋
 これらのダイコトミーが、我々の組織的知識創造理論の基礎を構成している。我々は、それぞれのダイコトミーに含まれる二つの一見対立するように見えるコンセプトをダイナミックに統合し、一つの総合を作る。我々は、知識創造の本質がこの総合を作りそして管理するプロセスでありそれがまた変換プロセスをつうじて起こることを発見するであろう。

 著者は、AかBかという「二者択一的アプローチ」を採りません。
 AもBもという発想です。ただ、それも単純にA+Bではありません。AとBからCを、すなわち、AとBの最良の部分を統合してCを創り出すという「総合/統合アプローチ」を提唱しているのです。

知識創造企業 知識創造企業
価格:¥ 2,100(税込)
発売日:1996-03


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悪の読書術 (福田 和也)

2007-12-30 13:57:30 | 本と雑誌

 読書案内として読んでみました。が、期待していたものとは異なる視点で書かれたものでした。

 本書において著者は、「社交的価値」とやらに重きをおいているようです。

(p95より引用) 無垢さや無意識は、社交的価値の世界においては、もっとも恥ずべき、許し難いものなのです。

 その「社交的」という視点(著者によると、「世間の視点」)から、著者なりの「読書の見え方/見せ方」を縷々書き連ねたものです。

(p104より引用) 読書を、純粋に個人的な悦楽や教養から離れた社交的な行為、いわば不純きわまる世間の視点から見るとどうなるのか。

 著者は、「読書」を、「自らが読む」という行為と、「読んでいることを人に見せる」という行為の2つに分け、とくに、後者の行為についてあれこれ語っています。

(p228より引用) どんな本を読むのか、どんな本を自らの愛読書として人に示すのかということは、自分がどんな人間になりたいのか、どんな人間だと、人から見られたいのかという問いに直結しています。

 この本を読んでいて、私の感覚がどうにも受け付けないのは、著者が「人から・・・と見られたい」という点にこだわりを見せ、そこにこだわるのがとても大事なことだと主張しているところにあります。

(p231より引用) イノセントに読書を楽しむ、自分はこの本が好きだから読む、ではなく、自分を自分として作り、向上させるために何を読むべきか、ということを、客観的に考えるべきでしょう。

とこのあたりまでは理解できるのですが、そのつづきで、

(p231より引用) というと、あまりに教養主義のように聞こえるかもしれませんが、ここで私のいう「向上」とは、いうまでもなく、社交的な意味での向上、つまりはスノッブな意味での向上です。

となると、全く同意できません。

 著者の本を読むのは本書が初めてなので、正直、こういったことを本気で主張しているのか、あえてシニカルに訴えているのか、私の頭ではどうにも計りかねるところがありました。

悪の読書術 (講談社現代新書) 悪の読書術 (講談社現代新書)
価格:¥ 735(税込)
発売日:2003-10-20


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新・風に吹かれて (五木 寛之)

2007-12-29 19:48:27 | 本と雑誌

 五木寛之氏ももう70歳半ばとのとこと。

 中学時代に初めて氏のエッセイ(確か「地図のない旅」だったか・・・)を手に取り、今から30年ほど前、大学の入学式の後、記念講演を聞いた覚えがあります。

 五木氏の本は、最近では「蓮如」とか「知の休日」とかを読んでいます。

 今度の本は、五木氏の真骨頂の「エッセイ集」です。
 このところなかなか「しっかり目の本」が頭にはいらないので、気分転換に正統派?エッセイを選んでみました。

 クルマの話、靴の話、喫茶店の話・・・。「週刊現代」への連載をベースにした軽いタッチのものが約50編、気楽に読み通せました。

(p193より引用) モノを捨てるということは、思い出を捨てるということだ。どんな小さなモノにも、自分との縁があってここにある。そう思えば、気軽に捨てていいものなど、どこにもありはしない。だからこんなふうに雑然と周囲につみ重なっているのだろう。

 こういう感じが、すっ~と腑に落ちるようになってしまいましたし、

(p203より引用) 山陰ばかりではない。ずっと旅から旅の暮らしのなかで、どこの地方にいっても、妙に人が少なくなっているような実感があるのだ。
 いくつかのミニ東京に、人が集中してしまっているらしい。・・・
 ニッポン国の根が枯れつつあるような、そんな気がするのは錯覚だろうか。

 という想いにも、ふむふむと納得してしまいます。

 五木氏との年の差は、まだ30年ほどはあるのですが・・・、同種の感覚がほんの少し分かり始めてきてしまいました。
 久しぶりに原点に戻って「風に吹かれて」も読み直しましょうか。

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発売日:2006-07-06


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年功賃金 (経済学的思考のセンス(大竹 文雄))

2007-12-24 19:37:16 | 本と雑誌

 本書で取り上げられているテーマで、なかなか興味深かったのが「年功賃金」についてでした。

 「年功賃金」は、昨今は「成果主義」との対比で語られることが多く、日本特有の守旧的制度の代表格のように扱われています。

(p142より引用) 年功賃金制度は、日本特有のものであると考えられることが多い。・・・一方で、日本独特のものであると考えられてきた年功的な賃金制度は、ホワイトカラーにおいては世界共通に見られることがさまざまな研究で明らかにされてきた。

 著者は、世界のあちこちで見られる「年功賃金制度」を「経済学的」切り口からとらえ、その存在理由として4つの説を紹介しています。

(p142より引用) 第一は、人的資本理論で、勤続年数とともに技能が上がっていくため、それに応じて賃金も上がっていくというものである。

 この考え方は、経験を積み熟練することにより技能が向上するような仕事では納得感があったかもしれません。
 ただ、最近はそうもいえない状況が増えてきています。むしろ「年齢を経るに従い、新たな仕事のスタイルに追いつけなくなる」というケースが多く見られるようになりました。

(p143より引用) 第二は、インセンティブ理論で、若い時は生産性以下、年をとると生産性以上の賃金制度のもとで、労働者がまじめに働かなかった場合には解雇するという仕組みにして、労働者の規律を高めるという理論である。

 これは、若いときの取り分を年をとってから取り戻すということですから、働く者の立場、特に若い世代からの納得感は今一です。

(p143より引用) 第三は、適職探し理論である。企業のなかで従業員は、自分の生産性を発揮できるような職を見つけていくのであり、その過程で生産性が上がっていくと考えられている。

 これも企業実態からいえば、「?マーク」です。
 この考え方が幅広く適用されるほど、企業内に多種多様な「職」があるとは思えませんし、常に適材適所が実現されるほどの「人材の流動」が図られているとも言い難いでしょう。

(p143より引用) 第四は、生計費理論で、生活費が年とともに上がっていくので、それに応じて賃金を支払うというものである。

 これは、企業活動外に制度の因果関係を求める考え方であり、実態的にこういう傾向があるにしても、それこそ「相関関係」に過ぎないでしょう。これが主要因であるとは到底考えられません。

 著者は、これらの点から、

(p149より引用) つまり、年功賃金制には合理性がある。そういう意味では、この制度がなくなることはないといえる。

と主張していますが、どうも、上記の4つの理由をみる限りでは、著者がいうほどの「合理性」があるとは思えません。
 まあ、強いていえば、「インセンティブ理論」が結構企業実態には合致しているかも・・・という感じです。

 この理論による場合は、従業員に対する「効果的なインセンティブ」をどう考えるかが最大のポイントとなります。
 特に、金額的な価値観だけでない多様な価値観をもつ従業員に対して、どういう制度設計で対応するか・・・。
 著者もエピローグで、こうコメントしています。

(p222より引用) 税制・社会保障制度・人事制度などの社会制度の設計が難しいのは、金銭的インセンティブをきちんと考えるだけでも難しいのに、非金銭的インセンティブの影響まできちんと考える必要があるからだ。

経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書) 経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書)
価格:¥ 819(税込)
発売日:2005-12


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経済学的思考のセンス‐お金がない人を助けるには (大竹 文雄)

2007-12-22 17:42:23 | 本と雑誌

 本書のようなコンセプトの経済学入門書は最近よく見られますね。
 経済学の「実社会への適用例」を説明して、経済学の位置づけ・意味づけを再認識させようという狙いのものです。

 似たようなコンセプトの本としては、以前読んだ「これも経済学だ!」「ヤバい経済学」といったものがあります。

 著者は、「経済的思考法」として2つの概念を重視します。

 ひとつは「インセンティブ」

(p xiiiより引用) 社会におけるさまざまな現象を、人々のインセンティブを重視した意思決定メカニズムから考え直すことが、経済学的思考である。貧しい人を助けなければならない、容姿に基づいた賃金差別は許してはならない、というだけで思考を停止するのではなく、その発生理由まで、人々の意思決定メカニズムまで踏み込んで考える。こうした思考方法を身につけることは、さまざまな日常の場面でも有益なのではないだろうか。

 もうひとつは「因果関係」です。

(p xivより引用) もう一つ、経済学で重要な概念は、因果関係をはっきりさせるということである。これは、経済学に限らず学問全般にいえることである。

 単なる「相関関係」に止まるのか、方向性のある「因果関係」まで成り立つか・・・。
 経済学的思考にもとづくと、因果関係を明らかにし、その方向性を強めるインセンティブを与えるような制度設計をするようになります。

(p58より引用) 経済学者は人々の価値観を変えるよりも、金銭的インセンティブによって人々の行動を変えるほうが確実だと考えている。・・・制度設計上は、金銭的なインセンティブと非金銭的なインセンティブのどちらで人々はより影響を受けるのか、非金銭的なインセンティブの設計がどの程度容易であるかをうまく見極めることが重要だろう。

 著者は、インセンティブを踏まえた制度設計の実例として「成果主義」を取り上げています。
 ただし、「成果主義」に諸手を上げて賛同しているわけではありません。むしろ、その導入の難しさを指摘しています。

(p79より引用) そもそも成果主義的賃金制度の導入は、(1)どのような仕事のやり方をすれば成果が上がるかについて企業がよくわからない場合や、(2)従業員の仕事ぶりを評価することが難しいが成果の評価が正確にできる場合、に行われるべきものである。

 どうも、近年、「プロセス」の評価がしづらくなってきたようです。

(p79より引用) 近年の成果主義的賃金制度の導入は、人件費抑制の手段としてだけではなく、技術革新の進展や経済環境の激変のために、企業にとっても従業員がどのような仕事をすれば成果が上がるのかがよくわからない時代になってきたことを反映している。

 もし、「プロセス」による評価ができず、半ば止むを得ないものとして成果主義が導入されているのであれば、やはり問題が出てくるでしょう。
 「成果主義」を標榜する限りは、成果の把握方法や成果にもとづく評価の納得性が担保されていることが必要条件です。そうでないなら、「成果主義」というのは名ばかりの歪んだものになってしまいます。

 最後に、本書を通読した感想ですが、全般的に「インセンティブ」についての説明は、事例も豊富で確かに充実していました。
 ただ、著者の立論の納得性という点ではどうでしょう。立論の根拠が、「『相関関係』による実態」に止まっているのか、「『因果関係』まで証明された実態」に基づいているのか、そのあたり正直、ちょっと気になりました。

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ニセモノはなぜ、人を騙すのか? (中島 誠之助)

2007-12-16 13:59:15 | 本と雑誌

Shino  筆者の中島誠之助氏は、テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」に登場している古美術鑑定家です。

 本書は、その中島氏が、「ニセモノ」をテーマに語った軽い読み物です。

 古美術の真贋に限らず、今のご時世、詐欺や詐欺まがいの事件は後を絶ちません。
 中島氏が語る「ニセモノにひっかかる方程式」です。

(p19より引用) 懐があったかく、骨董をほしがっているが不勉強な人間に、「儲かるよ」と甘く囁く。こうすることで、百人のうち九十九人までは必ずひっかかる。
 これがニセモノにひっかかる方程式なのである。

 中島氏が長年にわたって関わってきた骨董の世界では、どうやら「ニセモノ」も必要な要素として認められていたようです。
 ただ、それも、骨董という特殊で閉鎖的な業界の専門家どうしの取引の世界に限って通用するものであり、その限りにおいて「許されるニセモノ」があるというのです。端から素人を騙そうという意図で創られたものは、許されざるニセモノであり、中島氏の言を借りると「ガラクタ」だというのです。

 中島氏が接したニセモノの中には、ホンモノといって通用するような高度な技術で創られたものがいくつもあったといいます。

 「ホンモノ」と「まったくそっくりのニセモノ」とを並べてみて、物性的には全く同じということも理屈のうえではあり得ます。
 とすると、「ホンモノ」とは一体何か?
 結局は、「創造」と「模倣」の違い、作者の精神の発露たる「オリジナリティ」に帰結するのでしょう。

 本書は、骨董という、私自身全く関わりのない世界が舞台になっているので、ちょっと感覚的に違うかなという点も多々ありました。

 が、そうはいっても、中島氏のことばでちょっと関心を惹いたものを1・2、ご紹介します。

 まずは、「目利き」の定義について。

(p175より引用) ホンモノとニセモノがわかるということは、プロとしては当たり前のことであり、わかって当然、わからなければ仕事にならない。何が大切かというと、出世するものを見分ける力、つまりは美の発見ができるかどうか。それが本当の目利きといえる。

 ホンモノかどうかを見分けるのにとどまらず、ホンモノの中でもさらに「一際光るもの」「美しいもの」を見出す眼力を重んじるのです。

 もうひとつ、「大切にする心」について。

(p5より引用) これまで私は、番組のなかで、骨董品の鑑定を通して、大事なことはモノではなく「心」が一番のお宝だと強調してきた。それが、
「どうぞ大切にしてください」
という私のコメントに凝縮されて口から出てくるのだ。
 たとえニセモノであろうと本人が気に入っているものであれば、あるいは先祖代々受け継いできたものであれば、大切にする心、いとおしむ心を持ち続けることが大事なのだから。

 モノの価値は、「それを持ち続ける気持ちの中にある」ということです。

ニセモノはなぜ、人を騙すのか? (角川oneテーマ21 C 135) ニセモノはなぜ、人を騙すのか? (角川oneテーマ21 C 135)
価格:¥ 720(税込)
発売日:2007-08


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日本を教育した遼太郎 (日本を教育した人々(齋藤 孝))

2007-12-15 22:13:27 | 本と雑誌

Kunitori_monogatari_3  齋藤氏は、本書で、「日本を教育した人々」として4人の人物を紹介しています。

 吉田松陰、福沢諭吉、夏目漱石、そして最後に登場するのは、昭和期の「司馬遼太郎」です。

 司馬遼太郎氏(1923~96)は、大阪生れの昭和期の代表的歴史小説家、戦後、新聞記者として勤めたのち作家の道に入りました。

 代表作といっても、絞りきれないほど数多くの有名な作品があります。
 戦国期を描いたものとして斎藤道三を主人公にした「国盗り物語」、幕末維新期を描いたものに、新選組をテーマした「燃えよ剣」、坂本竜馬の一生を辿った「竜馬がゆく」、中国を舞台にした「項羽と劉邦」等々・・・、紀行ものとして「街道をゆく」や「この国のかたち」等のエッセイ、その他多くの方との対談集もあります。

 私も、過去においては、文庫本(歴史小説)やNHK大河ドラマ(最近は全く見ませんが、・・・当時は「国盗り物語」「花神」とか)で司馬氏の作品にはかなりの数、接しています。

 著者が紹介している司馬氏の視点で、私が興味をもったものを1・2、ご紹介します。

 まずは、「明治」という時代の捉え方について。

 司馬氏は、明治を、日本の歴史における時の流れのなかのある「時代」としてではなく、独特な切り出されたひとつの「国家」としてみているというのです。

(p176より引用) 明治国家は世界史的な奇跡であって、立体的な固体のような感じで、テーブルの上にポンと置きたいと司馬は語っている。「明治時代」ではなく「明治という国家」として捉えようとするのは、それを時間的な経過の中で見るのではなく、一つの構造として見た方が、明治の特徴をより正確に確定できると考えるからである。

 この感覚は、確かにわかるような気がします。

 もうひとつは、「プロテスタンティズムと資本主義との関係」のように、江戸期の日本の倫理観が、明治期以降の経済成長の礎になっていたとの見方です。

(p177より引用) また倫理観に関していうと、日本人にはプロテスタントに近い倫理観があったのではないかと指摘している。世界の中で経済発展した国にはプロテスタントの国が多いが、日本はプロテスタントとは関係がなかった。にもかかわらず経済成長を遂げたのは、プロテスタント的倫理観があったからではないかというのである。
 清潔、整頓。これがプロテスタントの美徳です。・・・
 江戸時代の大工さんは、作業場をきれいに片づけて帰るのです。・・・江戸期日本は、プロテスタントによらずして、こうだったのです。大工さんのみならず、このような労働倫理や習慣が、明治国家という内燃機関の爆発力をどれだけ高めたかわかりません。

 このあたり、論拠としては非常に貧弱ではありますが、相似と相違という気づきの「視点」としてはおもしろい指摘だと思います。

日本を教育した人々 (ちくま新書 691) 日本を教育した人々 (ちくま新書 691)
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発売日:2007-11


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日本を教育した諭吉 (日本を教育した人々(齋藤 孝))

2007-12-09 17:11:12 | 本と雑誌

Fukuzawa  齋藤氏が、日本を教育した人物として2人目に挙げたのが、明治期の「福沢諭吉」です。

 福沢諭吉(1834~1901)は、当時の代表的な啓蒙思想家・教育者です。
 豊前国中津藩士の子として大坂に生まれ、蘭医緒方洪庵の適塾に学びました。その後、1858年(安政5)、江戸に出て藩の下屋敷に蘭学塾を開きましたが、この蘭学塾が後の慶応義塾となります。

 齋藤氏は、諭吉の教育に対する姿勢としての「学ぶ構え」に注目しました。

(p60より引用) 彼(諭吉)は武士の漢学の素養をもとにし、学習する構えを完成させていたのである。・・・
 日本人の教育のなかで最も大事なものとして、構えの教育があったと私は思っている。・・・「構え」とは、私の考えでは、物事に向かうときの身体や心がセットになった姿勢のようなものを指す。

 この「構え」の有無によって、同じインプットを与えてもその効果は全く異なるというのです。

 ところで、諭吉といえば、やはり「学問のすゝめ」です。

 「学問のすゝめ」は1872~76年(明治5~9年)にかけて刊行された冊子で当時の大ベストセラーとなりました。
 そこで諭吉は、個人の独立・自由・平等のもとで学問に励むことが国家隆盛の基本であると説きました。
 単なる西洋化を勧めたのではありません。西欧諸国と伍するために人々に教育の重要性を訴えたのです。

 人々に伝えるべき西洋の事物。
 諭吉は、その代表的な紹介者でした。

(p65より引用) ひとくちに西洋といってもいろいろなものがある。なかには、わざわざ学ばなくてもいいものもある。その中で学ぶべきものを純化して、それをふさわしい形の日本語にして、みんなにわかりやすい言葉で紹介する濾過器が諭吉だったのだ。

 幕末から明治にかけての時代は、「教育の時代」でした。
 学問が真の実学として大きな意味をなしていた時代でした。

(p98より引用) そもそも概念の活用が学問の本質である。さらに本質的には、その概念をつくっていくのが学問である。そういう学問をしっかりと積んだ人たちが日本を教育していた時代があり、それが尊重された時代があった。学問をすることが、みんなの当然の欲求であって、学問を達成している人が尊敬され、その人たちがリーダーとして発言するのが当たり前だと考えられていた。
 そういう時代の日本は幸せだったと思う。

 さて、今の時代は・・・。

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日本を教育した松陰 (日本を教育した人々(齋藤 孝))

2007-12-08 15:10:59 | 本と雑誌

Yoshida_shoin  著者の齋藤氏が、幕末から現代にかけて「日本を教育した」人物4人をとりあげ、それぞれの人物が残した教育的功績を辿ったものです。

 まず紹介されているのは、幕末期の「吉田松陰」です。

 言うまでもなく、吉田松陰(1830~59)は、幕末の長州藩に生れた思想家・教育者です。
 幼い頃から叔父玉木文之進らから教育をうけ、1839年(天保10)9歳にして藩校明倫館で山鹿流兵学を講義、翌年には藩主に「武教全書」を講義するなど、早くからその才能は開花していました。20歳台半ば、萩の松下村塾での講義は、久坂玄瑞・木戸孝允・高杉晋作・伊藤博文・山県有朋といった幕末・維新期に活躍した錚錚たる志士に大きな影響を与えました。

 齋藤氏は、松陰の教育から「教育の狙い」についてこう説きます。

(p17より引用) 『孔孟箚記』を読むと、授業では何をテキストにするかは、必ずしも問題ではないことがよくわかる。大切なのは、現在自分たちがどのような状況に置かれているのかという問題意識と、これから何をすべきかという課題意識を教師が強く持っていて、生徒たちに発することである。つまり問題意識や課題意識を、相手に喚起させることが教育の狙いなのである。

 こういう「狙い」を教える者が強く意識し、真に実践しているか否かがもっとも大事なことです。
 松陰は、それを自らの命を賭してやり遂げたのです。

 そこに、著者は、松陰の美しさを見出します。

(p50より引用) 彼(松蔭)の美しさは若くして死んだことにではなく、自分の欲得は抜きにして、ひたすらこのメッセージを伝えたいのだという純粋さにある。志を伝えることへの純粋な情熱が人の心を打った。その純粋な情熱のほとばしりや威力に裏打ちされた生き方全体が、ひとつの書物、作品そのものであったといえるだろう。だからこそ、最初からほかの人に影響を与えようというような、見え透いた意図をもって書かれた書物よりはるかに大きな影響を与え、後世の人のモデルになっていったのだ。
 松蔭は人に教えた時間も短く、直接教えた人数も必ずしも多いわけではないが、いまだに日本人に「志」を教育し続けている人物である。

 まさに、「至誠而不動者未之有也」という松陰の気概です。

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養老氏のブツブツ (ぼちぼち結論(養老 孟司))

2007-12-02 16:26:29 | 本と雑誌

 養老氏のブツブツは、まだまだ続きます。

 どのブツブツも、かなり過激な言いぶりです。意図的に強調している面もあるのでしょうが、氏の本音が、結構そのままストレートに表れているような気もします。

 ものごとをバクっと掴み、ザックリと割り切った評価を下すことはなかなかできないものですが、養老氏ほどのキャリアを積むと、それはそれ自然体で踏み出せるのでしょう。

 そういうザックリ系のコメントのなかで、私としても、なるほどと首肯できたものを2・3ご紹介します。

 まずは、「自由」と「規制」の相対的な関係について。

(p72より引用) 自由が正しいわけではない。規制が正しいわけでもない。規制によって自由の、自由によって規制の、メリットが生じただけである。
 その根本には、なにがあるか。秩序はかならずそれだけの無秩序を生み出す。熱力学の第二法則といいかえてもいいであろう。・・・規制は等量の自由を生み出し、自由は等量の規制を発生させる。人間はそれ以上のこともそれ以下も、おそらくできない。論理的にできないのである。

 また、「誤解」と「正義」について。

(p77より引用) 誤解で損をするのは、誤解している本人である。誤解された方ではない。相手を間違って見れば、間違えた方が損をする。山で道を間違えれば、遭難するのは本人である。その意味で私は「正義」を信じている。正義という抽象的なものがあるのではない。当たり前を認めなければ自分が害を受けるだけである。その当たり前を正義と呼ぶ。

 最後は、よく言われることですが、「客観を装うデータの不信」についてです。

(p142より引用) そもそも私は、データに基づいた議論を信用しない。現代人が逆の常識を持っているのは知っている。にもかかわらず、私は逆を信じている。データは考えていることを確認する材料に過ぎないのであって、じつは考えのほうが優先するのである。・・・データはつねに本人が持っている仮説を支持するものとして使われる。だからインチキが発生しやすいのである。或る目的に沿ってデータを出したら、強いバイアスがかかるに決まっている。

 まったくニュートラルに収集されたデータから何らかの結論を導き出すことは、現実的には極めて稀です。
 仮に最初はそうでないにしても、ある段階からは、仮説に沿ったデータの取捨選択が始まるのが常です。

(p146より引用) 考える労を惜しむ人が悪しきデータ主義に陥る。データを取るには手間ひまがいるが、考えるのはタダである。だから本当の能率主義は考えることにある。

 中途半端なデータ信仰は危険です。
 それよりも、養老氏は、「自分の頭で考え切ること」を薦めるのです。

ぼちぼち結論 (中公新書 1919) ぼちぼち結論 (中公新書 1919)
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発売日:2007-10


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個性 (ぼちぼち結論(養老 孟司))

2007-12-01 20:39:14 | 本と雑誌

 著者の養老氏は、「バカの壁」をはじめとして、最近とみに多くの著作が評判になっている解剖学者です。

 本書は、その著者が雑誌「中央公論」連載したエッセイ?をまとめたものです。雑誌の色でもあるのでしょうが、なかなかザックリと思い切った言い様が並んでいます。

 どうも同意できないというようなコメントもあれば、なるほどという気付きも与えてくれました。

 たとえば、最近、教育問題等でむやみに?大事にされている「個性」について。

(p50より引用) 人間の場合、個性を発見するのは他人であって、本人ではない。本人にとって当たり前が、他人と異なっているとき、それを人は個性と呼ぶ。無理にやっているのは、個性ではない。そもそもロビンソン・クルーソーの個性に意味はない。島には他人がいないからである。
 それぞれの人に個性があるという考え方は、自己の改変が困難だという難点を生じる。自分を変えることはなんでもないが、個性尊重の世界では、それがむずかしくなる。

 本人が強いて意識しているような「個性」は、厄介なものです。

 養老氏によると、現代は、悪しき封建主義の時代=個性主義だというのです。

(p104より引用) 現代にだって、本人は意識していないであろうが、封建主義より極端な封建主義がある。それを個性主義と私は呼ぶ。人には個性があって、それは生まれつき決まっている。その個性こそがその人の価値である。そう考える。それなら人の価値はすべて生まれつき決まっているわけで、そういう考え方こそ、江戸時代より極端な封建主義というしかないではないか。

 その他、今はやりの情報化社会に関してのコメントもあります。
 梅田望夫氏の「ウェブ進化論」で紹介された将棋の羽生氏にかかるくだりを引用して、こう語ります。

(p111より引用) 「彼は、言語化不可能な世界にこそ、人間ならではの可能性を見出そうとしている」。
 わかってるじゃないの。・・・なぜなら言語化できなければ、さらに「情報化できなければ」、検索なんてないからである。つまり検索以前に世界がある。それは「まだ情報化されていない」世界のことである。

 「検索以前の世界」があること、そして、そういう未踏破の世界のなかで「情報化されていない事象を情報化する」思索の大事さを訴えています。

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