OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

組織行動の「まずい!!」学‐どうして失敗が繰り返されるのか (樋口 晴彦)

2008-07-31 10:03:00 | 本と雑誌

 失敗の研究では、失敗学を主宰している畑村洋太郎氏の著作が有名ですが、本書の著者の樋口晴彦氏は、警察大学校警察政策研究センター主任教授として、危機管理分野を担当している現役の実務者の方です。

 ささいなミスから発生した数多くの重大事故の実例を示しています。

 たとえば、最大の原発事故として有名なチェルノブイリ原発事故の場合。
 その原因は、致命的な構造設計上の欠陥に加えて、それをカバーするオペレーションにも重大な過失が生じやすい穴があったと指摘しています。

 
(p25より引用) 「規則を守って原発を運転する」のではなく、「規則違反の状態では原発の運転ができない(=オペレータが規則違反をしようとしてもやれない)」ようにハード面をデザインすべきだったのだ。
 その意味で、チェルノブイリ原発事故の原因の一端は、ヒューマン・エラーを誘発しやすく、そのエラーが大事故に結び付きやすいという原発の構造それ自体にあったと考えられるのである。

 
 さらに、組織・制度等のソフト面もエラー惹起の背景要因でした。

 
(p26より引用) もともと実験計画そのものが安全規則に違反していた上に、危険な操作をするようにオペレータを追い込んだ周囲の状況が、この事故の重要な背景要因となっている。前述した構造面の問題も併せて考えると、チェルノブイリ原発事故は、まさしく「職場環境によって引き起こされたヒューマン・エラー」と言えるだろう。

 
 また、多くの知恵を総合して最適解を探るための「三人寄れば文殊の知恵」的考え方にも陥穽があるといいます。
 関係者同士の自己規制による自由な提案・発想の阻害がそのひとつです。

 こういった集団内の「和」を重んじる「集団的意思決定」の弊害は、日本固有の社会風土によるものであるとの考え方に対して、別の説も登場しています。

 
(p49より引用) 『Groupthink』の著者I.L.ジャニスは、凝集性が高い集団において、集団内の合意を得ようと意識するあまり、意思決定が非合理的な方向に歪められてしまう現象を「グループシンク」と名付けた。この「凝集性が高い」とは、リーダーの魅力や集団内の居心地の良さにより、各メンバーがその集団に強く引き付けられている状態を意味する。・・・
 このグループシンクの兆候としては、
・集団の実力に対する過大評価(=無謬神話の形成)
・集団独自の道徳の押し付け(=世間一般の道徳の軽視)
・外部の意見に対するステレオタイプ的な反応(=組織の閉鎖性)
・主流と異なる意見に対する自己検閲
・満場一致を求めるプレッシャー
などが指摘されている。

 
 このあたりのグループシンクの悪実態はスペースシャトルチャレンジャー号爆発事件におけるNANA関係者内でも起こっていました。
 
 

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世紀末建築 (田原桂一)

2008-07-26 10:10:11 | 本と雑誌

Guimard  写真家田原桂一氏による「世紀末建築」をテーマとした6分冊の写真集です。

 全体の構成は、以下のとおりです。

  1. アールヌーヴォー
  2. モデルニスモと幻想の建築
  3. リバティ様式と東方への夢
  4. 分離派運動の転回
  5. アーツ・アンド・クラフツと田園都市
  6. 民俗文化と世紀末

 
 第一分冊「アールヌーヴォー」のまえがきにはこうあります。

 
(p6より引用) 現代建築が切り捨ててしまった、生命の直接的表現、生という部分に密接に関わった19世紀末建築。
生の直視から生まれてきたようなフォーム、それは常に手になじんだもの、あたかも愛撫することを知っている人の手によって造られたもののようだ。

 
 題材となった建築物としては、私でも知っている建築家オットー・ヴァークナー、アントニ・ガウディ、エクトール・ギマールといった巨匠の作品もあれば建築家不詳の作品もあります。
 単純な建築紹介の写真集ではないので、私のような芸術関係の素人にはちょっと不向きかもしれません。折角だったら、解説のページでもいいので、「建築物の全体像」の写真も加えてくれるとありがたいと思いました。

 しかしながら、想像どおり「世紀末建築」は重苦しい感じがしますね。
 かなり以前に、バルセロナやウィーンは訪れたことがあって、サグラダ・ファミリア教会やカサ・ミラ等、この本で紹介されているいくつかの超有名な建造物も見学しているのですが、この写真集にあるような「内装」はほとんど見る機会がありませんでした。

 複雑な造形とそれを浮き立たせる光と影。そこには、文字通り「世紀末」のおどろおどろしい空間が現出していて、私などの感覚では、人の生活空間という感じは全くしませんね。
 アール・ヌーヴォーは、あまりにもミーハーですが、アルフォンス・ミュシャのポスターやルネ・ラリックのガラス工芸といったあたりがやはり私にはしっくりくるようです。

 ただ、著者はこう語ります。

 
(p7より引用) 既に一世紀以上もたった今なお、我々に強烈なメッセージを投げかけてくるのは、この時期の建築がただの器としてや、ただの構築物としてではなく、限りない様々の人たちの手の跡や息づきの跡があるからだ。・・・そのアーティストや職人達の手の跡から立ちのぼるエゴが大きなエネルギーとなって、空間の装飾と言う領域を越え宙づりの状態で浮遊することなく、建築自体をしっかりと支えていた。この世紀末建築のムーブメントを理解していくには、決して建築の範囲だけでとらえるのではなく、文化を詰め込んだ空間として観ていかなければ理解し得ないことに気がついた。

 
 

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私塾のすすめ-ここから創造が生まれる (齋藤孝・梅田望夫)

2008-07-23 11:22:29 | 本と雑誌

 新書では御馴染みの同年代二人の対談です。

 活動の舞台が異なっているなか、二人の思考の「相似」と「相違」がなかなか面白かったです。

 齋藤氏は、「言葉」「単語」にこだわりを見せます。
 例の「○○力」に代表される類ですが、本書では、たとえばこういったフレーズです。

 
(p52より引用) リーダーとは、役職以上に、「ポジティブな空気をつくることのできる人」だと言えますね。

 
 こういった一言で主張を紡ぎだす力は、(好き嫌いはあるかもしれませんが、)確かに優れていると思います。
 齋藤氏自身も「コンセプト」への注力を自ら語っています。

 
(p103より引用) もともと言葉がなかったのに、焦点があてられることによって、そこにみんなの経験が結晶化するような、そういうものをコンセプトと呼ぶとすると、そういうコンセプトを出すというが、論文でも大事なことだと思っていました。

 
 他方、梅田氏の方です。
 梅田氏の本はいままでも何冊も読んでいますが、氏の考え方について、初めて本書で気づかされた点がありました。

 
(p129より引用) 人間が人間を理解するとか、ある人が何かをしたいと思ったときに、相手がきちんと受け止めてくれるということのほうが、めったにおこることでない。そういう事実を、ベースにおかなきゃいけないと僕は思います。

 
 ネットの世界の可能性については極めて楽観的な考え方をされているように感じていたのですが、リアルな社会に向き合う姿勢は、いたって現実的です。
 梅田氏は、自らの経験をもとに、そういうノーという反応が当たり前という現実をふまえて、弛まぬチャレンジ・へこたれぬ行動を勧めています。

 最後に、本書のタイトルにもある「私塾」の可能性についてです。

 
(p196より引用) 現在の日本で、幕末の適塾のような「私塾」をそのままの形で望むばかりでは懐古的になる。「私塾的関係性」を大量発生的に生み出せる可能性がインターネットにはあります。直接面識のない人との間に、学び合う関係を築く不思議な事態がすでに起こっている。

 
 齋藤氏は「私淑」をベースにした「私塾」をイメージしています。
 梅田氏は「志向性の共同体」というコンセプトを提示しています。一緒に何かを創造したいというそういう気概をともにできるグループです。

 こういう相手は、通常の限られた人間関係の範囲で見つかることは極めて稀です。梅田氏は、志向性をともにする仲間の発見の可能性をネットに求めています。
 ネットの圧倒的な拡がりが、「共同体」の形成を可能にするとの信念です。

 同じ志向性のもと興味を共にし、それを高めていこうというインターネット空間での共同の営みが梅田氏のいう「私塾」なのでしょう。
 おもしろいチャレンジだと思います。
 
 

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グランドプランのない日本 (ほんとうの環境問題(池田清彦・養老孟司))

2008-07-19 08:25:40 | 本と雑誌

 環境問題を題材にして、二人の話は、日本の政策のグランドプランの欠如に収斂して行きます。

 池田氏の発言です。

 
(p97より引用) 国家戦略として太陽光発電に力と金を注いだほうが、CO2の排出をちょっとでも減らすなどということに大金を使っているよりもはるかにいいと思う。エネルギー戦略をどうするかということは、食物に連動してくる話でもあるのだから。

 
 さらに、厳しい言葉は続きます。

 
(p131より引用) 日本にはエネルギー政策も、京都議定書に関する政策も、食料に関する政策も、グランドプランがまったくない。・・・環境省も日本政府も、近い将来起こるであろう問題-食料の問題にせよエネルギーの問題にせよ-の対策よりも、地球温暖化による問題の発生をほんのわずか遅らせられるかもしれないという瑣末な予防策ばかりに腐心して、金を注ぎ込んでいるのである。やっぱりアホだと言うしかない。

 
 一方、養老氏は、環境問題に対する「日本人の態度」にも言及します。

 
(p154より引用) 自分さえやることをやっていればいい、という独善的な態度が日本人にはあって、それがある種の予定調和と結びついてしまう。自分がちゃんとしていれば世の中もちゃんとするようになる。ならなかったら、それは自分のせいではない、という態度になってしまう。「国際貢献」の問題にも環境問題にも、そんな姿勢が表れている。

 
 両氏は、現在の「何でもエコ」という風潮は、根拠薄弱な未来予測に対応した瑣末な対処策だと考えています。
 別の言い方をすると、合理的でない事柄があたかも合理的であるかのように扱われ、それが情緒的な運動論として流布しつつある現状に危惧をいだいているようです。

 
(p164より引用) 環境問題というのは、もともとは各自がミクロ合理性を追求したことによって、マクロが非合理になるということでしょう。いまの環境問題というのは、環境問題自体がまさに大きな問題なんだよ。・・・
 やっぱり、もっとシンプルに科学的に考えたほうがいい。エネルギー資源の問題をどう担保するか、とか、食べ物をどうするか、とか、本来はそれがいちばん重要な問題でしょう。ところが、いまは、もはや個人の倫理観とか道徳とかモラルとかの話にまでなってしまっている。

 
 両氏が本書で示した環境問題の指摘の是非はともかくとしても、この「合成の誤謬」的な風潮の危険性は、過去にも充分に経験しているはずですが・・・。
 
 

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ほんとうの環境問題 (池田 清彦・養老 孟司)

2008-07-12 09:27:30 | 本と雑誌

 以前にも環境問題の本としては、武田邦彦氏の「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」やアル・ゴアの「不都合な真実 ECO入門編」等を読んでいます。
 この問題はいろいろと多面的な見方をしないと判断を誤るものだと思っています。ちなみに、本書は、武田氏の主張に近いものです。

 二人の主張は、まずは、現在言われている環境対策、具体的にはリサイクルやCO2削減とかですが、これらについて実証的な論拠を明らかにすべきということから始まります。

 養老氏は、戦時中も意識してたところでモノと人間の関係からこう主張します。

 
(p36より引用) なぜ僕がモノの話をするのか。それが倫理でも道徳でもないからですよ。ほんとうの大枠は何なのかを考え、ひとつひとつ根拠を明示していかないと、意味がない話ばかりになってしまうというわけです。

 
 また、池田氏はリサイクルを例にこう語ります。

 
(p53より引用) リサイクルは良いことだとされているけれども、リサイクルするためにも金がかかるし、エネルギーも要る。だから、リサイクルすることによってどれぐらいの金とエネルギーがかかるかを考えないで、リサイクルすること自体を目的にすると、倒錯的な問題が生じてしまう。

 
 よく言われるところの「目的」と「手段」の倒錯、「手段の目的化」、また「木を見て森を見ず」「全体最適or部分最適」と同根の指摘です。

 池田氏は、京都議定書を守るために日本は年間1兆円の予算を支出しているといいます。またそれだけの税金を費やして日本が京都議定書を遵守しても、その貢献は、今世紀末までに気温の上昇を0.004℃抑えるのに貢献するだけとの数字も示しています。

 
(p126より引用) 結局、これも、注ぎ込む金に対して、得られるメリットがどのくらいあるか、ということを計算しなければダメなのである。それを計算しないで、CO2の削減はただただ善だという「メリット」を謳ったところで、何にもならない。

 
 さらに日本のエネルギー戦略に話は広がります。

 
(p82より引用) そんななか日本だけが、のほほんとしていて、環境のためには石油の使用をなんとか減らしてCO2削減のための努力をしなければならない、というようなことばかりを言っている。肝心の、石油に代わるエネルギーをどうするかという国家戦略はまったくないのである。

 
 重点思考に基づく他者(他国)への働きかけも重要ですが、それは少なからず他動的・他責の問題です。
 そういうリーダーシップを発揮しつつ、日本自身として自律的・自責としてできることにも「真の現実問題」として非常なパワーをかけて取り組まなくてはなりません。
 
 

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学習する組織 (失敗の本質-日本軍の組織論的研究 (戸部良一・野中郁次郎他)

2008-07-10 09:20:47 | 本と雑誌

World_war_2  組織論からの日本軍の失敗の本質の分析です。

 
(p358より引用) 組織の環境適応理論によれば、ダイナミックな環境に有効に適応している組織は、組織内の機能をより文化させると同時に、より強力な統合を達成しなければならない。つまり、「分化(differentiation)」と「統合(integration)」という層反する関係にある状態を同時に極大化している組織が、環境適応にすぐれているということである。

 
 そういう観点からみると、日本軍は、当初から一貫して陸軍・海軍と「分化」しており、本質的な「統合の実態」はありませんでした。(大本営も両軍の調整機能は持ち得ませんでした)
 そもそも戦略ビジョンの異なる陸軍(白兵銃剣主義)海軍(大鑑巨砲主義)には、軍事合理性や技術適応性の面から「統合」の必要性が生れなかったのでしょう。

 「統合」の思想はなかったとはいえ、日本軍が組織学習を全くしなかったかといえばそうではありません。むしろ、陸軍・海軍各々においては、過去の成功体験の固定的学習が徹底的に行なわれました。

 
(p369より引用) 帝国陸海軍は戦略、資源、組織特性、成果の一貫性を通じて、それぞれの戦略原型を強化したという点では、徹底した組織学習を行なったといえるだろう。しかしながら、組織学習には、組織の行為と成果との間にギャップがあった場合には、既存の知識を疑い、新たな知識を獲得する側面があることを忘れてはならない。その場合の基本は、組織として既存の知識を捨てる学習棄却(unlearning)、つまり自己否定的学習ができるかどうかということである。
 そういう点では、帝国陸海軍は既存の知識を強化しすぎて、学習棄却に失敗したといえるだろう。

 
 自己否定を自己変革のプロセスに組み込むための工夫のひとつが、意識的な「不均衡の創造」です。

 
(p375より引用) 適応力のある組織は、環境を利用してたえず組織内に変異、緊張、危機感を発生させている。あるいはこの原則を、組織は進化するためには、それ自体をたえず不均衡状態にしておかなければならない、といってもよいだろう。

 
 組織論の立場で日本軍の失敗の本質を結論づけるとすると「日本軍は自己革新組織ではなかった」ことに帰着するようです。

 
(p388より引用) 組織は進化するためには、新しい情報を知識に組織化しなければならない。つまり、進化する組織は学習する組織でなければならないのである。組織は環境との相互作用を通じて、生存に必要な知識を選択淘汰し、それらを蓄積する。
 およそ日本軍には、失敗の蓄積・伝播を組織的に行なうリーダーシップもシステムも欠如していたというべきである。

 
 

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戦略の進化 (失敗の本質-日本軍の組織論的研究 (戸部良一・野中郁次郎他)

2008-07-05 10:40:28 | 本と雑誌

Kamikaze  日本軍の基本戦略は、陸軍は、ソ連を仮想敵国と想定した白兵主義、海軍は、米国を仮想敵国と想定した艦隊決戦主義でした。この戦略思想は、どんなに戦況が変動しようと不幸なことに戦争中一貫して不変でした。

 
(p293より引用) 戦略は進化すべきものである。進化のためには、さまざまな変異(バリエーション)が意識的に発生され、そのなかから有効な変異のみ生き残る形で淘汰が行なわれて、それが保持されるという進化のサイクルが機能していなければならない。

 
 日本軍は、日露戦争における成功体験にもとづく戦略・戦術を墨守し、それを変更するような「学習」は全く軽視されていました。

 
(p325より引用) およそ日本軍には、失敗の蓄積・伝播を組織的に行なうリーダーシップもシステムも欠如していたというべきである。・・・
 失敗した戦法、戦術、戦略を分析し、その改善策を探求し、それを組織の他の部分へも伝播していくということは驚くほど実行されなかった。これは物事を科学的、客観的に見るという基本姿勢が決定的に欠けていたことを意味する。

 
 そもそも「学習」の内実も変化を前提としたものではありませんでした。
 著者たちは、目的や目標自体を創造することよりも模範解答への近さが評価される「教育システム」も組織学習上の問題点として指摘しています。

(p332より引用) 学習理論の観点から見れば、日本軍の組織学習は、目標と問題構造を所与ないし一定としたうえで、最適解を選び出すという学習プロセス、つまり「シングル・ループ学習(single loop learning)」であった。しかし、本来学習とはその段階にとどまるものではない。必要に応じて、目標や問題の基本構造そのものをも再定義し変革するという、よりダイナミックなプロセスが存在する。

 
 自己の行動を絶えず変化する環境に照らして修正していくという自己革新・自己超越的なアクションの欠如です。

 日本軍について言えば、開戦当初のノモンハン事件での貴重な教訓が何の組織学習も呼び起こさなかったということです。

 
(p68より引用) ノモンハン事件は日本軍に近代戦の実態を余すところなく示したが、大兵力、大火力、大物量主義をとる敵に対して、日本軍はなすすべを知らず、敵情不明のまま用兵規模の測定を誤り、いたずらに後手に回って兵力逐次使用の誤りを繰り返した。情報機関の欠落と過度の精神主義により、敵を知らず、己を知らず、大敵を侮っていたのである。
 また統帥上も中央と現地の意思疎通が円滑を欠き、意見が対立すると、つねに積極策を主張する幕僚が向こう意気荒く慎重論を押し切り、上司もこれを許したことが失敗の大きな原因であった。

 

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