OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

こんな上司が部下を追いつめる (荒井千暁)

2006-08-31 00:44:59 | 本と雑誌

 ちょっと前の朝日新聞に「心の病、30代社員に急増 企業6割で『最多の世代』」という見出しの記事が出ていました。

(p50より引用) 過労の「労」は、労働の労でなく、疲労の労なのだ。

(p53より引用) 長時間に及ぶ仕事をしていても、自分の意思でコントロールできたり、自分の意のままに仕事を調整できている限り、過労による死は起きにくい。・・・自分の意思ではどうにもコントロールできない状況に置かれている例が圧倒的に多いというのが過労死の共通点である。

 産業医の立場で、最近の企業で増加しつつあるメンタル疾患の現状と対応策を明らかにした著作です。

 私の勤めている会社でも、メンタルヘルスの問題は最重要課題のひとつです。

 この本では、「過労現場」における上司の役割にスポットライトをあてます。
 働く社員にとっての「最大の職場環境=直属上司」ですから当然の視点です。

 著者が指摘する問題上司の特徴を、そのまま以下に紹介します。

(p75より引用) 冷たさ・・・部下を育てる視線を持ち合わせていない上司や、部下に愛を注げない上司

(p77より引用) 目線が落とせない・・・自分の立場でしかモノがみえない。・・・部下の気持ちを想像し、忖度することができない。・・・あ・うんの呼吸が得られていない者同士に以心伝心はない。あるはずだと楽観的に期待してはいけない。

(p78より引用) 窮地に追い込まれている部下をサポートしない・・・上司からの援護射撃がなかった

(p80より引用) 目的や構想を語らない

(p83より引用) 保身的で自己分析ができず他人のせいにする

(p84より引用) 独断的・・・部下の進言に耳を貸さないタイプ、部下の立場に立てない人間ともいえる。

(p85より引用) 叱り方がヘタ・・・人を叱るには叱り方がある。相手の心臓を凍らせるような言動では意図は伝わらない。

(p87より引用) 叱らない・叱れない

(p90より引用) サークルの乗り・・・相手である直属上司は、軽い乗りが消えないままのバブル期入社や、それ以降に入社してきた世代が目立つ。

(p93より引用) 問われても教えない・・・質問をしてきた新入職員に対して、「勉強になるから自分で考えてやってごらん」と差し戻す上司がいる。これは、一見、教育しているように見えるが、時と場合によっては部下を突き放すことになる。・・・このようなかたちで質問を差し戻す上司は、三十代が圧倒的だ。つまり、ここでもバブル期入社組がちらほら顔を出す。

(p95より引用) 一律のノルマを要求する・・・部下の個性に気を配ることなく、誰にでも同等なノルマを課せば、プラスの業績や効果が自動的に出てくると信じて疑わない上司がいる。目標管理制度や成果主義が導入される風潮になってから、このタイプの上司は増えた。

 現実としての不幸をもたらせた元凶が、このような上司の姿勢であり態度であったという事実は、非常に重いものがあります。

 そして、著者の以下の言葉もまた真実です。

(p70より引用) 現代の職場において、部下をつぶしてしまう最大の元凶は上司である一方、逆に部下の健康を守ることができるのは、何をおいても上司なのである。

 「孤立させない」ことが大事です。「見て見ぬふり」は厳禁です。

 本書は精神医学の専門書ではありません。部下との付き合い方を示したビジネス書でもありません。
 どこの企業でも起りうる不幸をひとつでも減らすための、警鐘と真摯な願いのメッセージです。

こんな上司が部下を追いつめる―産業医のファイルから こんな上司が部下を追いつめる―産業医のファイルから
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安土往還記 (辻 邦生)

2006-08-30 01:22:07 | 本と雑誌

Oda_nobunaga  こういう感じの小説を読んだのは初めてでした。

 「信長」がテーマなので、ジャンルとしては「歴史小説」なのでしょうが、私が今までに何冊か読んだ(私にとって)極めてポピュラーな作家(たとえば、司馬遼太郎氏や海音寺潮五郎氏等)の作品とは全く感触が異なっていました。

 宣教師の従者の書簡という形式で「信長」を描いているのですが、その筆致は独特です。巻末の饗庭孝男氏の解説の言を借りると、まさに「抑制のきいたストイックな文体」です。

(p77より引用) 彼が廊下を通り抜けてゆきとき、青白い顳顬のひくひくする動きや、鋭く一点を見つめるような眼ざしとともに、冷たい空気の揺曳が、見えないヴェールででもあるかのように、あとまで黒ずんだ感触を残していった。

 辻氏は、この作品で、信長の思考・行動の基準を「理」だとしています。

(p87より引用) 大殿が言う「事が成る」という言葉ほど、彼の行動のすべてを説明するものはない。そして彼は、事の道理に適わなければ、決して事は成らぬ、と信じていたのだ。

 「理に適う」ことがすべての礎であり、信長は、それを純粋に追及します。
 それゆえの孤高の姿です。

(p88より引用) 私が彼のなかにみるのは、自分の選んだ仕事において、完璧さの極限を達しようとする意志である。

 信長の「理」の追求が、あるときには「慈悲」の姿に見え、あるときには「無慈悲」の行動と映るのです。

(p133より引用) 雨に打たれる盲目の足なえの哀れさに胸をつかれることと、合戦において非情であることとは、まったく同じことなのだ。荒木よ、合戦において、真に慈悲であるとは、ただ無慈悲となることしかないのだ。

 久しぶりの小説でしたが、私的には唸らされる作品でした。

安土往還記 安土往還記
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ブランドのDNA (片平 秀貴・森 摂)

2006-08-29 00:03:09 | 本と雑誌

 この本では、世の中に流布している「ブランド」の常識に対し、その誤りを正すために、具体的な実ケース(企業)をいくつも挙げています。

 たとえば、強い「ブランド」といえば、何となく歴史や伝統を重んじていて、「不変」というイメージを抱きがちです。
 しかし、世界最大の食品会社ネスレは、絶え間なく変化し続けているのだと言います。

(p36より引用) ネスレのピーター・ブラベックCEOは「ブランドは変わり続ける。変らないのは消費者との距離だけだ」と断言した。

 強いブランドといえども、顧客に受け入れられ続けなければ見放されてしまいます。
 見放されないようにするためには、顧客に刺激を与え続けなくてはなりません。

 新たな刺激を生み出す「創造力」が必要です。
 創造力を発揮するためには、「のびのびとした自由な環境が必要だ」としばしば言われます。
 しかし、ディズニー映画部門総責任者リチャード・クックはこう言います。

(p100より引用) 「我々はボックスの中で仕事をしている。予算制約、時間制約そして規律の制約で区切られたボックスだ。制約があった方が創造力の質は高いものになる

 そのほか、この本で紹介されている「なるほどのフレーズ」です。

 そのひとつ、「サービスの正解」について。

(p134より引用) サービスは、顧客一人ひとり、またその時々で正解が異なる。だから、「何をすべきか」ではなく、「何のためにすべきか」をしっかりと理解せよというのが「リッツ・カールトン式」なのである。

 また、「ブランドの専従組織」について。

(p165より引用) そもそもブランドは顧客の頭の中にできるもので、企業がブランドを「管理」することに無理がある。専従組織がやることは、せいぜいロゴの色やサイズを統一したり、テレビCMの基準をつくったり、「ブランドブック」を作り社員に配布したりする程度である。それはブランドの形を整える作業に過ぎない。

 確固たる「ブランド」を築きそれを維持している企業は、一貫した理念を掲げるとともに、その理念を社員全員・会社全体に浸透させるための具体的努力を重ねています。

 さらに言えば、「顧客を喜ばせることを自らの喜びと感じる社員が『ブランド』を作る」ということです。

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ブランドづくりの3つの鍵 (ブランドのDNA(片平秀貴・森摂))

2006-08-27 14:29:13 | 本と雑誌

 ブランドについてちょっと勉強しなくてはならないことがあって、以前講演を聞いたことのある片平秀貴氏の本を読んでみました。

 本書の「まえがきに代えて」の章に、強いブランドをつくり上げる組織に必須のポイントが示されていました。

(p4より引用) ブランドづくりにおける共通の鍵を次の3点に集約した。
1.「自分たちは誰をどううれしくさせるために仕事をしているのか」という基本的な哲学が組織を貫通している
2.「顧客が喜んでくれるのならばためらわずに行動に移る」という「筋肉」が組織に備わっている
3.「顧客の喜びこそが自分の喜びである」という利他の精神に根ざしたサービス魂が組織に備わっている

 果たして、自分たちの会社にこういったDNAが移植できるのでしょうか。移植しようとしても不適合症を引き起こさないでしょうか。
 もし、必要なものがDNAだとすると、それは、遺伝(交配)か突然変異か遺伝子組み換えでないと取り込むことはできませんね。

 長年にわたり評価され続けているブランドを持つ企業は、どうやら私たちが普通に考えているものと「ビジネスの意味づけ自体」が違うようです。

(p236より引用) ビジネスは、人が人をプロフェッショナルに幸せにする永続的な社会的しくみ、として位置づけられていて、利潤の獲得はその永続性を支える重要な必要条件に過ぎない。お金を儲けて幸せになるのではなく、幸せになるための基礎としてお金が必要だ、というわけで、順序がまったく逆になっている。

 そうだとすると、企業としての「価値観」(社員意識・企業文化等も含んだ)そのものが「ブランド」の源泉であり、まさに顧客が共感を抱き認める「ブランド」となるのでしょう。

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懶惰の説その他 (陰翳礼讃(谷崎 潤一郎))

2006-08-26 13:53:55 | 本と雑誌

 表題作の「陰翳礼讃」は、文化論としても有名です。
 たとえば、「陰翳」「陰」「闇」を地にした、「光」「金襴」「塗物」などの深く鈍い美しさ。こういった美意識が、西洋にない東洋的感性だと谷崎氏は言います。

 私が選んだ本書には、「陰翳礼讃」のほか、「懶惰の説」「恋愛及び色情」「客ぎらい」「旅のいろいろ」「厠のいろいろ」の5編の随筆も収録されています。

 「懶惰の説」にも東洋と西洋を比較した谷崎氏ならではの考察が紹介されています。

(p70より引用) 自分が楽しむよりも人を楽しませることを主眼とする西洋流の声楽は、この点において何処か窮屈で、努力的、作為的である。聞いていて羨ましい声量だとは思っても、その唇の動きを見ていると何んだか声を出す機械のような気がして、わざとらしい感じが伴う。だから唄っている本人の三昧境の心持が聴衆に伝わると云うようなことはないと云っていい。これは音楽のみならず、総べての芸術においてこの傾きがあると思う。

 西洋の精力的で勤勉な生活テンポに対しある種の無味乾燥の感を抱き、それと比較して、東洋の「億劫がった物憂い生活感」に人間的な価値を認めているようです。
 こういう考えを抱くに至ったくだりについて、氏は、「トイレや浴室のタイル」や「ハリウッドの映画俳優の白い歯並び」を例示としてあげていますが、このあたりの著述は、ウィットも感じられてなかなかさすがに秀逸です。

 その他、「客ぎらい」では、谷崎氏自身による人となりの自己分析が、また、「旅のいろいろ」「厠のいろいろ」では、当時の生活習慣やその中での谷崎氏一流の着眼等が、とてもおもしろく感じられました。

陰翳礼讃 陰翳礼讃
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発売日:1995-09

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陰翳礼讃 (谷崎 潤一郎)

2006-08-25 00:33:42 | 本と雑誌

Tanizaki  先に読んだ「日本文化論の系譜」において、文人による「日本文化論」の代表作として紹介されていたので、読んでみました。

 谷崎潤一郎氏(1886~1965)は、東京生まれでご存知のとおり明治~昭和期の小説家です。自然主義文学が盛んだった明治末期の文壇に異をとなえて、「刺青」をはじめとする倒錯的な官能美にみちた作品を発表しました。

 「陰翳礼讃」は、谷崎氏の手による随筆です。
 日本の生活文化が家屋の薄暗さや蝋燭のほのかな灯の下で醸成されてきたことを説き、当時の洋風に傾いた文化への懐疑と反省を綴ったものとされています。

 谷崎氏は東洋独自の文明の可能性について、こんな考えを披露しています。

(p14より引用) もし東洋に西洋とは全然別箇の、独自の科学文明が発達していたならば、どんなにわれわれの社会の有様が今日とは違ったものになっていたであろうか、と云うことを常に考えさせられるのである。たとえば、もしわれわれがわれわれ独自の物理学を有し、化学を有していたならば、それに基づく技術や工業もまた自ら別様の発展を遂げ、日用百般の機械でも、薬品でも、工芸品でも、もっとわれわれの国民性に合致するような物が生まれてはいなかったであろうか。

 西洋は自らの文明で自らの進路を拓いていきましたが、東洋は、新たに西洋文明を受け入れざるを得なかったために、旧来の良き文化が廃れていったのだと言います。

(p15より引用) とにかく我等が西洋人に比べてどのくらい損をしているかと云うことは、考えてみても差支えあるまい。つまり、一と口に云うと、西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我等の方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代りに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ歩み出すようになった、そこからいろいろな故障や不便が起っていると思われる。

 谷崎氏は、自らの文化に合った自らの手による文明の可能性に思いを巡らせたのでした。

(p16より引用) 尤もわれわれを放っておいたら、五百年前も今日も物質的には大した進展をしていなかったかもしれない。・・・だがそれにしても自分たちの性に合った方向だけは取っていたであろう。そして緩慢にではあるが、いくらかずつの進歩をつづけて、・・・他人の借り物でない、ほんとうに自分たちに都合のいい文明の利器を発見する日が来なかったとは限るまい。

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ビジネス・ノウハウ by マキアヴェッリ (マキアヴェッリ語録(塩野 七生))

2006-08-23 22:37:21 | 本と雑誌

 この本で紹介されている数々のマキアヴェッリの言葉は、現代のビジネス書に見られるアドバイスに通じるところがあります。
 たとえば、「成功体験が、時代の変化への対応を鈍らせる」という点については、以下の一節があります。

(p121より引用) 時代の流れを察知し、それに合うよう脱皮できる能力をもつ人間は、きわめてまれな存在であるのも事実だ。
 その理由は、次の二つにあると思う。
 第一は、人は、生来の性格に逆らうようなことは、なかなかできないものである、という理由。
 第二は、それまでずっとあるやり方で上手くいってきた人に、それとはちがうやり方がこれからは適策だと納得させるのは、至難の業であるという理由。
 こうして、時代はどんどん移り変っていくのに、人間のやり方は以前と同じ、という結果になるのである。〔政略論〕

 また、「優柔不断」については、こんな感じです。

(p172より引用) 弱体な国家は、常に優柔不断である。
 そして決断に手間どることは、これまた常に有害である。・・・
 決断力に欠ける人々が、いかにまじめに協議しようとも、そこから出てくる結論は、常にあいまいで、それゆえ常に役立たないものである。
 また、優柔不断さに劣らず、長時間の討議の末の遅すぎる結論も、同じく有害であることに変りない。〔政略論〕

 どこかの会社でも見られる「会議風景」を思い出させます。

 さらに、よく言われる「リスクの前兆を捉えた先取りアクション」については、むしろ、以下のような現実的対応を薦めています。

(p99より引用) 危険というものは、それがいまだ芽であるうちに正確に実体を把握することは、言うはやさしいが、行うとなると大変にむずかしいということである。
 それゆえはじめのうちは、あわてて対策に走るよりもじっくりと時間かせぎをするほうをすすめたい。
 なぜなら、時間かせぎをしているうちに、もしかしたら自然に消滅するかもしれないし、でなければ少なくとも、危険の増大をずっと後に引きのばすことは、可能かもしれないからである。〔政略論〕

 しかし、そういった選択肢をとる場合の「大事な条件」もきちんと指摘しています。
 リーダーたるものの役割です。漫然として見過ごすのではありません。すわという時すぐに動くための気構えは欠かせません。

(p99より引用) いずれの場合でも、君主ははっきりと眼を見開いている必要がある。
 情勢分析を誤ってはならないし、対策の選択を誤ることも許されないし、対策実施のときも誤ってはならないのだ。〔政略論〕

 最後に、これもビジネス書に付き物の「チャレンジのすすめ」です。

(p231より引用) きみには、次のことしか言えない。
 ボッカッチョが『デカメロン』の中で言っているように、
「やった後で後悔するほうが、やらないことで後悔するよりもずっとましだ」
という一句だ。〔手紙〕

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マキアヴェッリと孫子 (マキアヴェッリ語録(塩野 七生))

2006-08-21 21:46:16 | 本と雑誌

 マキアヴェッリの「政略論」や「戦略論」で説かれている内容は、「孫子」につながるところが多く見られます。

 たとえば、孫子の有名な「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という一節。
 これと同じことをマキアヴェッリはこう伝えています。

(p110より引用) 自軍の力と敵の力を、ともに冷静に把握している指揮官ならば、負けることはまずない。〔戦略論〕

 マキアヴェッリは、「孫子」に匹敵する兵法家でもあったようです。
 兵站の重要性も指摘していますし、指揮官についての箴言も見られます。

(p117より引用) 一軍の指揮官は、一人であるべきである。
 指揮権が複数の人間に分散しているほど、有害なことはない。
 ゆえに、わたしは断言する。
 同じ権限を与えて派遣するにしても、二人の優れた人物を派遣するよりも、一人の凡人を派遣したほうが、はるかに有益である、と。〔政略論〕

 以下のような「現状認識」や「厳しい人間観」も一流の兵法家たる所以です。

(p184より引用) サルスティウスが、その著書の中でユリウス・カエサルに語らせている次の言葉は、まったくの真実である。
「どんなに悪い事例とされていることでも、それがはじめられたそもそものきっかけは立派なものであった。」〔政略論〕

(p202より引用) 次の二つのことは、絶対に軽視してはならない。
 第一は、忍耐と寛容をもってすれば、人間の敵意といえども溶解できるなどと、思ってはならない。
 第二は、報酬や援助を与えれば、敵対関係すらも好転させうると、思ってはいけない。〔政略論〕

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やはり、「手段を選ばず・・・」 (マキアヴェッリ語録(塩野 七生))

2006-08-20 19:07:26 | 本と雑誌

Machiavelli  塩野氏の本は、妻が好きで家には何冊もあるのですが、私は初めてです。

 以前、「君主論」を読んだときの私のBlogで、「君主論≠マキアヴェリズム」の話題をとりあげました。
 「目的のためには手段を選ばず」という直接的な言い方は「君主論」には見られないという内容です。

 この本で塩野氏による「君主論」からの抜粋で、「目的のためには手段を選ばず」というニュアンスに近いのは、以下の一節でしょう。

(p65より引用) 君主たる者、新たに君主になった者はことさらだが、国を守りきるためには、徳をまっとうできるなどまれだということを、頭にたたきこんでおく必要がある。
 国を守るためには、信義にはずれる行為でもやらねばならない場合もあるし、慈悲の心も捨てねばならないこともある。人間性をわきに寄せ、信心深さも忘れる必要が迫られる場合が多いものだ。・・・
 君主の最も心すべきことは、良き状態での国家の維持である。それに成功しさえすれば、彼のとった手段は誰からも立派なものと考えられ、賞讃されることになるであろう。〔君主論〕

 「手段を選ばず」という趣旨でより直接的な表現は、マキアヴェッリの著作では「政略論」に多く見られるようです。
 たとえば、以下のようなフレーズです。

(p98より引用) この種の大任を負う一個人は、私利私欲よりも公共の利益を優先し、自らの子孫のことなど考えない人物であるべきで、そういう人物こそ根本的な改革もなしうるのだから、そのために必要な全権力を獲得するよう努めてほしいものである。
 そして、この種の目的のためにいかなる非常手段が用いられようと、非難さるべきではまったくない。
 結果さえよければ、手段は常に正当化されるのである。〔政略論〕

(p101より引用) 君主たる者、もしも偉大なことを為したいと思うならば、人をたぶらかす技、つまり権謀術数を習得する必要がある。〔政略論〕

(p135より引用) 祖国の存亡がかかっているような場合は、いかなる手段もその目的にとって有効ならば正当化される。〔政略論〕

 ただ、ここに、極めて重要で見逃すことのできない条件があります。
 「『私利私欲よりも公共の利益を優先』し、『根本的な改革』をなす目的のため」にはという条件です。「信頼」に対する「裏切り」ではないということです。

(p112より引用) 戦闘に際して敵を欺くことは、非難どころか、賞讃されてしかるべきことである。・・・
 ただし、わたしは、次のことは言っておきたい。
 すなわち、欺くことはよいことだと言っても、それは、信頼を裏切ることでも結ばれた条約を破ることでもないという一事である。
 なぜなら、この種の破廉恥な行為は、たとえそれによって国土は征服できても、名誉までは征服できないからである。
 だから、わたしの言っているのは、あなたとはもともと信頼関係にない相手に対しての、欺きについてである。つまり、戦時下のそれだ。〔政略論〕

 「目的のためには手段を選ばず」という場合、その「目的」とは何かが問題です。
 手段を選ばずが許されるのは、どんな手段を使ってでも果たさねばならない「絶対的な目的」のためのみです。
 何をおいても達成すべき「目的」なのだという「絶対的な価値」が認められていることが大前提です。

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日本文化発生のダイナミズム (日本文化論の系譜(大久保 喬樹))

2006-08-19 14:48:05 | 本と雑誌

 本書は、私がまだ読んだことのない学者や作家の著作のポイントが、手際よくまとめられていたので、いままで知らなかった多くの興味深い主張に出会いました。

 そのうちのいくつかをご紹介します。

 よく日本人は「独自の文化をもっていない」「外からはいってきたものを真似するのがうまい」と言われます。この点に関しての折口信夫氏の論考です。

 折口信夫(おりくちしのぶ 1887~1953)氏は、大阪府生まれの国文学者・民俗学者ですが、釈迢空(しゃくちょうくう)と号し、歌人としても有名です。
 民俗学の分野では、特に、古代日本人の信仰を探る研究に力を注ぎました。折口氏は、日本文化の源流を沖縄に見出し、「まれびと」論を提唱しました。

(p81より引用) 〈みこともち〉にせよ〈もどき〉にせよ、〈まれびと〉の言葉やふるまいを土地の精霊がまね、くりかえすというこうした神事が日本文化の起源となったことについて、折口は、異郷からやってきた〈まれびと〉の言葉やふるまいが、土地の一般人には理解できない象徴的なものであったために、これを、分かりやすく翻訳する必要から発生したのだと説く。つまり、日本文化の本質を、外からやってくる未知の文化を翻訳し、解釈し、国風化する文化ととらえる見方であり、それを、単なるものまねとして否定視するのではなく、創造、発展的エネルギーのあらわれとして評価するのである。

 この〈まれびと〉の所作を真似るものが〈もどき〉です。〈まれびと〉と〈もどき〉との関係が派生して、日本の数々の芸能を生んだと言います。
 能における「して」と「わき」はそうだろうと思いますが、漫才における「ぼけ」と「つっこみ」もその派生形だとされます。

 また、「本格」に対する「変格」というパターンもあります。「能」に対する「狂言」、「和歌」に対する「連歌」等がその例示です。

 あと、もう一人、私が興味を抱いた論客は、坂口安吾氏です。

Sakaguchi  坂口安吾(さかぐちあんご 1906~1955)氏は、新潟出身の小説家です。伝統尊重の時流に抵抗してその欺瞞をついた秀逸な評論「日本文化私観」(1942)で有名だそうです。(名前はよく聞いているのですが、氏の著作はまだ読んだことがありません)

(p189より引用) タウトが尊重畏敬する伝統などというものは、実は、思いこまれているほど、必然的なものではない。たまたま過去においてそうであっただけで、それが唯一のありかただというわけではない。そうであれば、他の選択肢がでてきて、その方が都合がよければ、伝統などにとらわれることなく、いくらでも新たな方向に転じていけばよい。

 終戦直後、若者を中心にかなりの読者を惹きつけたということです。

日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで 日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで
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日本文化論の系譜 (大久保 喬樹)

2006-08-17 21:41:53 | 本と雑誌

 私がこのところ読んでいる本の一つの流れは、大きくは民俗学のジャンルも含めた日本人論です。

 この本は、ちょうどその範疇の「明治から昭和期の代表的著作」を要領よく紹介したものでした。
 全体は6つの章からなり、それぞれの章で、2・3人の学者・作家等の代表的著作を取り上げ概括しています。

  1. 明治開国と民族意識のめざめ : 志賀重昂・新渡戸稲造・岡倉天心
  2. 民俗の発見 : 柳田國男・折口信夫・柳宗悦
  3. 日本哲学の創造 : 西田幾多郎・和辻哲郎・九鬼周造
  4. 文人たちの美学 : 谷崎潤一郎・川端康成
  5. 伝統日本への反逆と新しい日本像の発見 : 坂口安吾・岡本太郎
  6. 西欧近代社会モデル対伝統日本心性 : 丸山真男・土居健郎

 この本で紹介されている15人のうち、新渡戸稲造氏岡倉天心氏柳田國男氏九鬼周造氏丸山真男氏の5人は、このBlogでも紹介したことがあります。

 が、やはり、概観といえども専門家の紹介は的確です。
 当然ではありますが、私の理解とは天と地ほどの差があります。私の場合、哲学や文化論の専門知識の欠如はもちろんですが、論旨をコンパクトに整理し著述する力もまだまだ勉強しなくてはなりません。反省です。

 たとえば、九鬼周造氏の代表的著作『「いき」の構造』の「意味づけ」「位置づけ」について、著者は、「感性の論理化」というコンセプトで以下のように結論づけています。

(p150より引用) 生の哲学、現象学、実存哲学、哲学的人間学など、20世紀初頭以来の哲学は、さまざまに感性的なもの、具体的なものを論理化、概念化しようと試みていたのであり、『「いき」の構造』は、まさに、その際立った成果のひとつだった。

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千里の鍛錬 (五輪書(宮本武蔵・鎌田茂雄))

2006-08-16 20:04:49 | 本と雑誌

 千里の道も、一歩一歩を重ねて行き着くものです。

(P151より引用) 千里の道もひと足宛はこぶなり。緩々と思ひ、此法をおこなふ事、武士のやくなりと心得て、けふはきのふの我にかち、あすは下手にかち、後は上手に勝つとおもひ、此書物のごとくにして、少しもわきの道へ心のゆかざるやうに思ふべし。

 武蔵自身、日々の鍛錬と真剣勝負という経験を積み重ねて、自らの独自の兵法の道を拓きました。

(P152より引用) 千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす。能々吟味有るべきもの也。

 武蔵は門人に地道な自己研鑽を強く求めました。とはいえ、武蔵の指導法は放任主義ではなかったようです。

(P235より引用) 我兵法のをしへやうは、初而道を学ぶ人には、其わざのなりよき所をさせならはせ、合点のはやくゆく理を先にをしへ、心の及びがたき事をば、其人の心のほどくる所を見わけて、次第次第に深き所の理を後にをしゆる心也。

 それぞれの人の技量・理解度に応じて、早くできそうなところから教えてゆきます。決して画一的な指導ではなく、相手をみた柔軟な対応です。
 この姿勢自体、どんな相手にもどんな状況にも敗れなかった武蔵の兵法の精髄につながるものだと思います。

(P235より引用) 我道を伝ふるに、・・・この道を学ぶ人の智力をうかがひ、直なる道ををしえ、兵法の五道・六道のあしき所をすてさせ、おのづから武士の法の実の道に入り、うたがひなき心になす事、我兵法のをしへの道也。能々鍛錬有るべし。

 武蔵の兵法を究めるには、奥義も型もありません。正しい心と徳が肝心との教えです。

(P237より引用) 我一流において、太刀に奥口なし、構に極りなし。唯心をもつて其徳をわきまゆる事、是兵法の肝心也。

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目付け (五輪書(宮本武蔵・鎌田茂雄))

2006-08-15 15:52:55 | 本と雑誌

 相手と相対したときにどこを見るか。
 武蔵は、「ふたつの『みる』」を論じます。

 その違いについて私には十分に理解できていませんが、「見」は普通に言う「見る」という概念に近く、「観」は、相手や状況の本質的・大局的な「把握」を意味しているように思います。

(P100より引用) 目の付けやうは、大きに広く付くる目也。観見二つの事、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。

 「見」の目に引きずられて、目先のこと細かいことに目を奪われてはならない、「観」の目で本質を捉えよとの教えです。

(P227より引用) とりわけて目をつけむとしては、まぎるゝ心ありて、兵法のやまひといふ物になるなり。・・・兵法の目付は、大形其人の心に付きたる眼也。観見二つの見やう、観の目つよくして敵の心を見、其場の位を見、大きに目を付けて、其戦のけいきを見、其をりふしの強弱を見て、まさしく勝つ事を得る事専也。大小兵法において、ちひさく目を付くる事なし。前にもしるすごとく、濃かにちひさく目を付くるによつて、大きなる事をとりわすれ、まよふ心出できて、慥なる勝をぬかすもの也。

 大局的な「観」の目で掴むものは、たとえば、「拍子」です。
 武蔵のいう「拍子」とは、共振するリズム・間合い・場の流れ・運命の浮沈の波・・・といったものを意味しているようです。

(P83より引用) 兵法の拍子において様々有る事也。・・・兵法の戦に、其敵其敵の拍子をしり、敵のおもひよらざる拍子をもつて、空の拍子を知恵の拍子より発して勝つ所也。

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先手 (五輪書(宮本武蔵・鎌田茂雄))

2006-08-14 19:23:03 | 本と雑誌

 実戦にあたって、武蔵は「先手」を重視します。

(P161より引用) 三つの先、一つは我方より敵へかゝるせん、けんの先といふ也。亦一つは敵より我方へかゝる時の先、是はたいの先といふ也。又一つは我もかゝり、敵もかゝりあふ時の先、躰々の先といふ。是三つの先也。いづれの戦初めにも、此三つの先より外はなし。先の次第を以て、はや勝つ事を得る物なれば、先といふ事、兵法の第一也。

 先のとり方によって、はやくも勝利を収めたも同然だと言います。
 先をとるためには、構えは重要ではありません。むしろ構えに拘るのは、「先手を待つ」という受身の姿勢の表れだと否定します。

(P224より引用) 太刀のかまへを専にする所、ひがごとなり。世の中にかまへのあらん事は、敵のなき時の事なるべし。其子細は、昔よりの例、今の世の法などとして、法例をたつる事は、勝負の道には有るべからず。其あひてのあしきやうにたくむ事なり。・・・兵法勝負の道においては、何事も先手先手と心懸くる事也。かまゆるといふ心は、先手を待つ心也。・・・然る故に、我道に有構無構といひて、かまへはありてかまへはなきといふ所也。

 「先手」をとるには強い心が必要です。
 その観点から、武蔵は「長い太刀」を否定します。「長い太刀」は弱い心の表れだというのです。

(P214より引用) 他に大きなる太刀をこのむ流あり。我兵法よりして、是をよわき流と見たつる也。・・・世中にいふ、「一寸手まさり」とて、兵法しらぬものの沙汰也。然るによつて、兵法の利なくして、長きを以て遠くかたんとする、それは心のよわき故なるによつて、よわき兵法と見たつる也。・・・長太刀は大人数也、短きは小人数也。小人数と大人数にて合戦はなるまじきものか。少人数にて大人数にかちたる例多し。わが一流において、さやうにかたづきせばき心、きらふ事也。能々吟味有るべし。

 自分ではそれと気付かないうちに「長い太刀」を持っているかもしれません。
 反省しなくてはなりません。

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兵法の道 (五輪書(宮本武蔵・鎌田茂雄))

2006-08-13 14:04:57 | 本と雑誌

 五輪書の初巻「地之巻」の巻末に、以下のような兵法を学ぶにあたっての心得が記されています。

(P85より引用) 我兵法を学ばんと思ふ人は、道をおこなふ法あり。
 第一に、よこしまになき事をおもふ所
 第二に、道の鍛錬する所
 第三に、諸芸にさはる所
 第四に、諸職の道を知る事
 第五に、物毎の損徳をわきまゆる事
 第六に、諸事目利を仕覚ゆる事
 第七に、眼に見えぬ所をさとつてしる事
 第八に、わづかなる事にも気を付くる事
 第九に、役にた丶ぬ事をせざる事
大形如此理を心にかけて、兵法の道鍛錬すべき也。此道に限りて、直なる所を広く見たてざれば、兵法の達者とは成りがたし。

 「物事の利害損得を知ること」や「役にたたないことはしないこと」といった心得は、武蔵の合理的姿勢を表わすものです。
 さらに武蔵は、兵法の鍛錬のみに止まらず、実直であることや、広く多芸や職能に触れることも併せて薦めています。

 さて、五輪書の「水之巻」以降、兵法の道に至る具体的な教えが書き連ねられていますが、その中でも基本のひとつは「心持」についてです。
 武蔵はこう諭します。

(P92より引用) 兵法の道において、心の持ちやうは、常の心に替る事なかれ。常にも、兵法の時にも、少しもかはらずして、心を広く直にして、きつくひつぱらず、少しもたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を静かにゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。

 心は、真ん中に置くべきと言っていますが、それは「固定」することではありません。
 常に流動自在な状態にしておく、それにより、どんな状況に置かれようと心はそれに柔軟に対応して、(結果として)心持ちは安定し続けられるようになるのです。

 さらに、この点、訳者の鎌田氏によれば、武蔵の「常の心」はまさに武蔵流だと言います。

(P99より引用) 柳生宗矩は沢庵から禅の指導を受けていたため、平常心というものを禅の立場から説いたが、武蔵の『五輪書』の平常心は平常心ではなくて、平常身であることに注意しなければならない。
 平常心が観念的であるのに対し、平常身は具体的である。「常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする」ことが一番大切であると武蔵はいうのである。戦いの場において常の身を保つには、朝鍛夕錬の修行によって身を鍛えあげておかねばならないのである。身が感じ、身が思うようにならなければ武蔵のいうことは分からぬ。

 ちなみに、柳生宗矩の平常心については、以前よんだ「兵法家伝書」にも記されています。

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