以前、「未来の年表」という本を読んでみたのですが、その流れで手に取ってみました。
内田樹さんをはじめとして、バラエティに富んだ方々が寄稿されているので、それも楽しみでした。
本書で取り上げられているメインテーマは「人口減少社会」ですが、それを論じるにあたっての問題意識、別の言い方をすると「危機感」について冒頭の序論で編者の内田樹氏はこう語っています。
(p16より引用) 僕たち日本人は最悪の場合に備えて準備しておくということが嫌いなのです。
「嫌い」なのか、「できない」のか知りませんが、これはある種の国民的な「病」だと思います。
戦争や恐慌や自然災害はどんな国にも起こります。その意味では「よくあること」です。でも、「危機が高い確率で予測されても何の手立ても講じない国民性格」というのは「よくあること」ではありません。それは一つ次数の高い危機です。「リスク」はこちらの意思にかかわりなく外部から到来しますが、「リスクの到来が予測されているのに何も手立てを講じない」という集合的な無能は日本人が自分で選んだものだからです。
さて、それぞれの論客の方々の指摘の中から特に私の気になったところを以下に書き留めておきます。
まず、「東北食べる通信」編集長高橋博之さんの提唱する「関係人口」を拡大させるという考え方。
(p239より引用) 確かに被災地は甚大な被害を受け、定住人口は減った。しかし、そのまちに暮らす人の現状に思いを馳せ、未来を案じ、継続的に関わりを持ち続ける人は震災後にぐんと増えている。私はこうした人々を「関係人口」と定義し、4年前からその拡大を訴えてきた。
遠く離れた地域にも関わりを持ち続けようと主体的・能動的に動く人たちは、常に自分にできる役割を探している。つまり、観客席からお節介にもよそのグラウンドに降りようとしているのだ。この「関係人口」を第二住民として地方のまちづくりに参加させればいいというのが、私の提案である。
たとえば農業や漁業での「生産(農家・漁師)→消費(都市居住者)」という関係を一種の“相互依存/相互支援の関係”と位置づけ、その人と人とのつながりをひとつの社会として活性化を図っていくという活動です。人口も減少しつつ孤立化も進むという「人口減少社会」にとって、有益かつ現実的な対処策のひとつでしょう。
もうひとつ、東京大学名誉教授姜尚中さんの「斜陽の日本」の現状と今後の在り方についての示唆。
(p285より引用) もはや、戦後の、そして明治維新以来の、人口増大と潤沢な労働力、男女の性別役割と疑似家父長制、国家主導の科学技術動員体制と均質的な国民教育制度を土台とする国力増進型社会は確実に終焉を迎えつつある。それは、米国のような特殊な移民型社会を除けば、西欧の成熟社会にも共通した傾向である。
と現状を捉えたうえで、こう提言します。
(p287より引用) 「縮む」イメージで語られがちな日本の未来は、決してグルーミーなわけではない。少なくとも、「熱い近代」の呪縛から解き放たれ、そのソフトパワーを外交戦略重視の平和主義へと転換し、低成長=定常化を受け入れ、減災に優れた地域分散型の国土をネットワーク的に結びつけ、優れた文化的付加価値を多品種少量生産のシステムとリンクさせるサイクルを築ければ、日本はなだらかに斜陽を謳歌する成熟社会へと移行することができるはずだ。
本書の体裁は、各論客の主張をそれぞれの個性の任せるままに“ただ1冊にした”との様相です。
それ故か、最後の章を受け持った姜尚中教授のパートは行きがかり上「最後のまとめ」を引き受けたかのようで、なんとか無理やり投稿者の最大公約数でも最小公倍数でもない“共同声明”を発したような印象です。
それはそれで、悪くないと思いますが、この論考の掲載順序も内田さんの判断だとすると流石としか言いようがありませんね。
ちょっと「タイトル」が気になったので、普段手に取らないテイストの本を読んでみました。
中心人物は「三芳部長」。彼に関わる人々が、彼について、他の会社の人々について、あるいは自分自身について語るのですが、それは人物評でもあり、会社を舞台にした人生話であったりします。
一連のストーリーが一定方向に流れていくのではなく、それぞれの登場人物による語りが15編並んでいて、ところどころで描かれたシーンが伏線的に交錯するという変わったつくりの物語でした。
さて、読み終わっての私の感想です。
小説なので「ネタばれ」的な引用は控えておきますが、正直なところ私にはあまり合いませんでした。
私にとって致命的なのは「ストーリーの楽しさ」が感じられないという点ですね。
それぞれの登場人物は多彩なのですが、構成のせいもあって二次元的に出てきては消えてしまいます。各々のエピソードは横方向に拡散するだけです。「三芳部長」が物語の“軸”かといえば、それほどのインパクトのあるキャラクタ設定でもないので、どうにもまとまりません。
最後は大ナタを振るったようなプロットが準備されていましたが、それも結局のところ唐突でしかありませんでした。
とてもチャレンジングな作品ではあるので、ちょっと残念ですが、今一つ中途半端・・・という読後感です。
ここ数年、私の本の読み方は、中身を確認してから読み始めるということはなく、タイトルや著者だけから判断して気になったものを図書館で予約して読むというスタイルです。
なので、ページをめくって「あれ?」と予想に反した内容の本に出合うこともあります。もちろん、それがひとつの楽しみでもあるのですが、本書もそういった類のものでした。
意外な「解法」を紹介しているような頭の体操的なものではなく、「算数・数学」を教える側の立場からの課題提起の書なんですね。著者の強烈な“熱量”を感じるちょっと珍しいテイストの本でした。
著者は、学校教育における「算数/数学」の教授内容において問題視している視点を明記しています。
(p29より引用) 「何」に焦点を当て、「なぜ」を排除してしまったことで、学校での算数・数学は抜け殻になってしまいました。アートは真実にあるのではなく、説明や根拠にあります。・・・
算数・数学は説明のアートです。生徒たちからそれに取り組む(自らの質問をし、予想や発見を出し、間違え、創造的に挫折し、ひらめきをもち、そして自分の説明や証明をまとめる)機会を奪い去ってしまったら、数学自体をさせないということを意味してしまいます。私は、算数・数学の授業で事実や公式を使うことを問題にしているのではなく、算数・数学の授業において数学が欠落していることを問題にしているのです。
著者のイメージしている「アート」とは、“数学的?思考(プロセス)”のことのようです。
そういう「数学的思考」を身に着けさせることこそが、学校教育における“算数・数学の授業”の目的であると説いているのだと思うのですが、残念ながら、私にはその具体的な方法までは理解できませんでした。
「訳者のあとがき」に、訳者自身、著者に対して「教科書を使わずに具体的にどのように教えるのか示して欲しい」と依頼したそうです。
(p169より引用) 「この本は、教師のために書いたものではありません。人間のために書いたものです。私は読者に、学校から何を奪われたのかを知ってほしくて書きました。教師たちが精神的な児童虐待をし続けることを手伝うつもりはまったくありません。つまり、教師と学校こそが問題なのです。何が解決をもたらすのか、自分自身で学ぶしかありません。そのことは、本のなかでかなりハッキリ書いたつもりですが…」
というのが著者からの回答だったとのことです。
私自身で考えざるを得ないようですが・・・、今はまだダメですね。
レナード・ムロディナウ氏の本は、以前にも「この世界を知るための 人類と科学の400万年史」 「たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する」という2冊を読んでいます。
本書もまずはタイトルが気になって手に取ってみました。テーマは「無意識」です。
とても興味深い人間のもつ「無意識」の機能が紹介されています。
たとえば、感覚器で捉えた生情報をイメージとして意識する前に補完処置する “日常世界を「モデル化」する脳” について。
(p67より引用) 人間が知覚する世界は人為的に構築されたものであって、その特性や性質は、実際のデータの産物であるとともに、無意識の精神的な情報処理の結果でもある。自然は、わたしたちが情報の欠落を克服できるようにと、知覚した事柄に気づく前に、無意識のレベルでその不完全さを修正するような脳を与えてくれた。
これにより、より少ないデータや部分的な情報から完成形に近い?像をイメージすることができるようになっているのです。
また、「分類」というステップを経た人間の認知プロセスの功罪について。
(p217より引用) 人間は分類をおこなうと、偏重した考えを持つようになる。何らかの恣意的な理由で同じカテゴリーに属すると考えたものどうしを、実際よりも似ているとらえ、異なるカテゴリーに属するものどうしは実際よりも大きく違うととらえるのだ。
無意識の心は、暖味な違いや微妙な差異を、明確な境界線へと変えてしまう。その目的は、重要な情報を残したまま、不必要な委細を消してしまうことにある。それがうまくいけば、周囲の世界を単純化し、より簡単に素早く渡り歩くことができる。しかし下手をすると、認識が歪められ、他人を、さらには自分自身を傷つける結果になりかねない。とくに、分類をおこなうことで他人に対する見方に影響が及ぶ場合には、注意が必要である。
カテゴリーに分けるという方法は、カテゴリー内の対象物を“似たもの”として省力化してとらえることができますが、逆に、いったん異なるカテゴリーだと整理されてしまうと“異なるもの”だとのバイアスがかかって、ニュートラルな理解や判断の妨げになるとの指摘です。これが「固定観念」「ステレオタイプ思考」を生み出す一因にもなるのです。
そして、どうやら人は無意識のうちに自分に都合のいい考えを抱くようです。望んでいることを真実であると信じ、それを正当化する証拠を探すのです。
(p302より引用) 人間の思考プロセスにおける「因果律の矢」は、一貫して信念から証拠へと向きがちであり、その逆ではないのだ。・・・無意識の心は、限られたデータを使って、パートナーである意識的な心にとって現実的で完全であるように見える世界を構築するものであり、それにかけては達人の域に達している。視覚、記憶、さらに感情のすべてが、不完全でときには相矛盾する生データを混ぜ合わせてつくられているのだ。
これと同じたぐいの工程が、自己像を描き出すときにも使われる。自己像を描くとき、弁護士たる無意識は現実と錯覚とを混ぜ合わせ、自分の強さを強調して弱さを隠し、まるでピカソの絵のようにさまざまに歪めて、いくつかの部分(自分が気に入っている部分)はとてつもなく大きく膨らませ、ほかの部分は見えないくらいに小さくする。それを受けて、意識的な心という理性的な科学者は、何も知らずにその自画像を褒め、写真のような正確さで描かれた作品だと信じ込んでしまう。
自分に都合のいいように解釈するのではなく、実際、無意識がそういう“像”を作り上げているというのが驚きですね。
さて、本書を貫いている著者のメッセージは、「無意識の肯定」です。
“無意識”は、自分に都合のいいように“意識”に働きかけます。それは、人にとって、未知の将来に対峙するにあたってのとても大切な“前向きのエネルギー”になるのですね。