著者の山極寿一さんの著作は何冊か読んでいるのですが、この本はミーハーながらタイトルに惹かれて手に取ったものです。
ただ、内容は、私が勝手に想像していたものとはかなり違っていました。
書かれたのは、山極さんがまだ京都大学総長だったころ。山極さんのこれまでの研究生活の実体験から紡ぎ出された「人間関係形成のヒント」がストレートな人柄そのままに開陳されているのですが、いろいろと気づかされる点が多く、期待どおりの楽しい読み物でした。
まずは「前書き」で山極さんのメッセージが明確に提示されています。
(p6より引用)
・相手の立場に立って物事を考える
・状況に即して結論を出せる
・自分が決定する
私は、実りある対話をするための「対人力」というものは、この三つが軸だと考えています。
(p7より引用) そういう自分とは違う考えを持った人と付き合っていくときに、討論によって自分が正しいと主張するよりも、お互いの考えの違いを超え、そこで新たな考えを共につくりあげていくほうが、よっぽど「おもろい」と思うのです。
タイトルには「勉強法」とありますが、本書が目指す勉強のゴールはどうやらいわゆる「勉学の成果」とは全く別物のようです。
ひとつのゴールは、前書きでも示されているように「対人力」を身に付けることであり、より具体的なイメージは、
(p192より引用) 多様なものの存在を認めつつ、それを自分にうまく合わせつつ、なおかつ自分を失わずにいることができる人間。
になることです。
そして、そこで最も大切なコンセプトは「信頼」です。
この「信頼」という点について、山極さんのアフリカでの経験はとても大切な気づきを与えてくれました。
(p79より引用) われわれは過程を飛ばして結果だけを見たり、相手から与えられる権力の大きさやお金の多寡で信頼を測ってしまうところがあるけれども、人間が太古の昔から築いてきた一番大きな信頼関係の担保は、実は時間なのではないでしょうか。
時間をかけて理解し合い、双方で歩み寄る、その積み重ねでようやく「信頼関係」が築けるというのは、そのとおりですね。
(p189より引用) 人との関係を築くには、どうしたってアナログな方法しかないのです。ITを使ったコミュニケーションではやはり難しい。相手と対面したうえでの、もやっとした、ボンヤリした信頼空間のようなものを自分の周りにつくっておくことが大事で、どれほど携帯で連絡を密に取り合っても、信頼空間は生まれません。そこには、そばにいてくれるだけで自分がいつもより勇気づけられる、危険な場所でも安心して歩ける気配のようなものが、存在しているはずです。
と山極さんは語ります。私も「直接会うに如くはなし」だと思います。
そして、最後に綴られているのが、山極さんからの暖かなエール。
(p197より引用) いつでも自分は変われるんだと思うこと。羽が生えているんだと思うこと。飛び立てるんだと思うこと。今の自分の状況や仕事、研究や勉強に満足してしまってはもったいない。何も「より高みに」飛ばなくてもいい。別の場所にピョンと横跳びで飛んでもいいのです。「飛べる」と思えることが、自分の中の余裕になるのですから。・・・
そして、いつか自分が挑戦できることに出合えたら、そのときの自分の境遇にこだわらずに、思い切って飛んでみてください。その先に「おもろい」ことが待っているかもしれません。
いいですね、学生さんに限らず、どんな人をも元気づける言葉です。年齢も関係ありません。
あと、蛇足になりますが、私の印象に残ったちょっとトーンの違う山極さんのコメントを書き留めておきましょう。
(p16より引用) 大学という場所はそもそも企業とは違って、目に見える利益のために動いたり、何かを生産してお金を儲けることを目的としてはいません。「人をつくる」ための場所なのです。あるいは、常に社会に見える形で研究を行うところです。そういう一般に開かれたアカデミックな世界ですから、企業的な経営を求められると非常に困ります。
昨今の文部科学省による「大学改革?」への山極さんの真っ当な反論です。
つい最近も「“稼げる大学”へ外部の知恵導入」とかと言い始めているようですが、政府の “学問の場”の意義に対する無知には、理解しがたいものがあります。やろうとしていることも、到底、正気の沙汰とは思えません。
いつも聞いているpodcastの番組に著者の吉村喜彦さんがゲスト出演されていたのですが、その番組のパーソナリティのピーター・バラカンさんもファンだということで手に取ってみました。
吉村さんの本は初めてです。小説なので「ネタバレ」になるような引用は控えます。ちょっとした時事的なトピックも散りばめられていますが、とても軽いテイストの読みやすい作品です。
「井戸から湧き出した天然炭酸水」をモチーフに、宮古島の風景と人びとが登場する舞台は新鮮でした。
宮古島には学生のころですから、今から40年以上前になりますが、一度行ったことがあります。大阪南港から那覇までの船底2泊3日の航程の中で少しの間寄港しただけでしたが、初めて見る南国の海ということで、その異次元の美しさには圧倒された記憶が今でも残っています。
いつも利用している図書館の新着書籍リストの中で目に付きました。
東京から高尾までの中央線32駅の沿革やエピソードをひと駅ずつ取り上げた著作です。
中央線と私との関わりを辿ってみると、学生時代、友人が高尾に住んでいたので、今から40年以上前は月に何度か「高尾駅」で乗り降りしていました。社会人になってしばらく縁がなかったのですが、国分寺に自宅を持ったことから中央線は通勤で使うことになりました。それももう20年以上になります。
いつも乗り降りしている最寄りの駅は国立ですが、利用し始めたころと現在とでは国立駅も大きく様変わりしましたね。駅舎が新築され線路は高架になり、北口駅前のゴルフ練習場もマンションになりました。
その「国立」の成り立ちについて、本書ではこう紹介されています。
(p255より引用) 堤康次郎が率いていたデベロッパー「箱根土地」は、当時は山林だった国立市北部を切り拓く。大学用地を基準にメインストリートを設け、分譲地の宅地は間口10間、奥行20間の200坪を標準とし、放射道路沿いに商業地を配置する図面を描くと、学園都市建設に着工。同時に中央線に新駅を誘致。国分寺駅と立川駅の中間であることから「国立」を駅名とした。
堤康次郎はその頃、軽井沢の開発も手がけており、駅前広場を飛行場に、大学通りを滑走路代わりに、軽井沢と国立を飛行機で飛び回り、陣頭指揮を執った云々のエピソードが残されている。
東京商科大学が神田一橋から国立の学園都市に移転してきたのは昭和2(1927)年。その前後から分譲地に住宅が建ち始め、戦前から戦後にかけて国立音楽大学、桐朋学園、国立学園、NHK学園なども開校して、国立は住宅地としても発展していく学園都市となっていった。
こうやって開発される前、このあたりは、甲州街道沿いにある平安時代に創建された「谷保天満宮」を中心とした村落だったとのことです。その点では、かなり古くから歴史を重ねている土地なんですね。
ともかくいつも使っている路線の蘊蓄を語った本なので、私としては、とても興味深く親近感を持って読めました。