OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

三教指帰 (弘法大師)

2005-10-30 13:45:54 | 本と雑誌

 先に諸橋轍次氏の「孔子・老子・釈迦『三聖会談』」という本を読んだのですが、その本での「三聖人が一堂に会しての鼎談」という設定は、弘法大師の著作の影響ではないかとのコメントを見ました。

 そこで、その「三教指帰(弘法大師)」を読んでみたのですが、これは私にはすこぶる難物でした。

 この著作は、真言宗の開祖弘法大師(空海)が24歳の作で、彼の出家宣言書と言われているそうです。三教すなわち儒教・道教・仏教の思想を三人の登場人物に語らせ、仏教の優越性を論じたものです。

 翻訳ではなく書き下し文なのですが、そもそも古文・漢文の知識がないうえに、話の中に中国古典や仏教典等の知識を前提としたフレーズや喩えが多く、(弘法大師の博学多識には心底驚かされますが、)正直、内容はほとんど理解できませんでした。
(語句の注釈は豊富についているのですが、そもそも1935年初版の本なので、注釈自体の理解にも苦労する有様です)
 当時はこの程度の経典・古典の知識は常識だったのでしょうか。

 やはり本を選ぶにも、余りに身の丈にあわないものはやめることにしましょう。

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孔子・老子・釈迦「三聖会談」(諸橋 轍次)

2005-10-29 13:52:30 | 本と雑誌

 孔子・老子・釈迦が一堂に会して世界観・人生観等を語るという設定の本です。

 著者自身がコーディネータ的に話題をふるのですが、折角の企画の割にはちょっと物足りない感じがしました。

 複数のことがらを比較して何かその特徴(コンセプト)を導き出す手法として、「相似(似ている点はどこか?)」と「相違(異なる点はどこか?)」という2面に着目する方法がありますが、もう一歩、そういう観点からの深堀りが欲しかったです。

 テーマとしては、「孔子の『天』・老子『無』の・釈迦の『空』」とか「孔子の『仁』・老子の『慈』・釈迦の『慈悲』」というふうに、面白そうな「相似と相違」の分析対象のコンセプトを採り上げていただけに「もったいない感じ」がします。

 個性的な三聖が揃っているのですから、各テーマについて三人が自らの思想に基づき丁々発止の議論を戦わせ、その過程で「相似」と「相違」を浮き彫りにすることができたのではと思います。

 ただ、そういう不満をいうのもおこがましいかもしれません。
 やはり、自分自身、より原典に近い著作でそれぞれの教えに触れるのが先だったように思います。

 最初から、テーマを選定してくれていて、そのエッセンスだけ抜き出したような本に頼るのは安直過ぎますね。反省です。

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心と身とに懸待あること (兵法家伝書(柳生 宗矩))

2005-10-28 00:33:14 | 本と雑誌

(兵法家伝書(柳生 宗矩)p35より引用) 「懸とは、立ちあふやいなや、一念にかけてきびしく切つてかゝり、先の太刀をいれんとかゝるを懸と云ふ也。・・・待とは、卒尓にきつてかゝらずして、敵のしかくる先を待つを云ふ也。・・・懸待は、かゝると待つとの二也」

 「敵をまず先とはたらかせて勝つ」、これは新陰流のあらゆる術・理の本源となる極意とのことですが、ここに「懸待」が登場します。相手に先をとらせるために身を「懸」とし、その後「待」としていた太刀を振るうのです。

 「懸待」は、「身と太刀」、「心と身」、「陰と陽」「静と動」等々、多様な変化形がありますが、その肝は「これらふたつの同時性とバランス」です。「懸待を内外にかけてすべし」、すなわち、一方に偏るのではなく常に相反する二つを同時にバランスよく意識するということです。

 新陰流の達人は、こういった絶妙のバランス感覚をもち、背反するものを極自然にかつ自在に操ることができたのでしょう。

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変化と多様化

2005-10-25 23:23:56 | 本と雑誌

(「価値組」未来企業へのシナリオ(監修:島田 精一)p252より引用) “変化が常態”の時代だから、多様な価値観や経験を持った新しいスタイルのリーダーが求められている(富士ゼロックス:高橋秀明氏)

 「変化」するのが当たり前。
 こうなると、個々人としては、変化を素直に受け入れられる「柔らか頭」が重要になりますし、組織体の観点からは、千変万化の動きに柔軟に対応できるよう、バライティに富んだいろいろなタイプ(価値観・行動様式等)の人材が必要になります。個人としても組織としても「多様性」が求められるのです。

 ちなみに、「このような環境の変化にいかに対応するか」といったコンテクストで最近よく登場するフレーズがあります。

 「この世を生き延びられるのは、最も強い種でもなく最も賢い種でもない、変化に最もよく適応できる種である」

 非常に納得感のある内容で、これが「ダーウィンの進化論」で述べていることだとなると、私などは単純に「なるほど」と思ってしまいます。
 実際、このフレーズは、IT関係の大手企業やコンサルティング会社のHP、更には政治家の演説にも登場しています。

 が、(有名な話ですが、)この点、本当にダーウィンの「進化論」に記述があるか否かについては議論があって、少なくとも現時点では、「種の起源」には、それらしい著述、たとえば「It is not the strongest of the species that survive, nor the most intelligent, but the most responsive to change」というフレーズは見当たらないそうです。

 まあ、誰が言おうと言うまいと、語られている内容は的確に肝を押さえた正しいものだと思います。

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著作と文体 (ショウペンハウエル)

2005-10-23 16:13:18 | 本と雑誌

(p30より引用) 最近の発言でありさえすれば、常により正しく、後から書かれたものならば、いかなるものでも前に書かれたものを改善しており、いかなる変更も必ず進歩であると信ずることほど大きな誤りはない。

 先人を否定をすることはたやすいことです。特に過去の権威ある著作に対して異を唱えることは、容易に脚光を浴びる近道でもあります。しかしながら、その思索が真に対象(古典)を凌駕しているかがポイントです。

 これは別に古典に限らずすべての著作に対して言えることですが、その著作が伝えようとしている趣旨やそこに至る思索の営みをどれだけ真摯な姿勢で理解しようとしているか、批判者には、その受容のための努力が必須です。
 対象の真意を掴み切らない以上は、それと対等な的確な同意・反論はできないものだと思います。また、批判する資格は生まれないのだと思います。

 古典は、長きにわたる年月を経て多くの人の耳目をくぐって今に至っているのですから、まずは教授を受けるべく謙虚に相対するべきでしょう。

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兵法家伝書 (柳生 宗矩)

2005-10-22 12:57:50 | 本と雑誌

(兵法家伝書(柳生 宗矩)p22より引用) 治まれる時乱をわすれざる、是兵法也。国の機を見て、みだれむ事をしり、いまだみだれざるに治むる、是又兵法也。

 本書は、巻末の解説によると、「新陰柳生流の基本的伝書」で、1632年、柳生但馬守宗矩が62歳のときに完成されたとのことです。

 本論にあたるのは、「習いの外の別伝」とも言われる「殺人(せつにん)刀」「活人剣」の2部で、新陰柳生流の技法・心法上の理論的体系を詳しく記したものです。

 内容は表層的なHow Toの伝授にとどまらず、むしろ人が人ともしくは何がしかの対象と相対する際の基本的姿勢を著しています。

 具体的な剣法の指南書的な部分においても、その根底には、「禅」「能」等に出自のある思想が流れているのです。

 二代将軍秀忠の世に「将軍家兵法師範」となり、また三代将軍家光とは生涯にわたる親密な交わりを交わした宗矩は、「乱世には世を治めるために殺人刀を用い、治世には人を生かすために活人剣を用いる」との心で伝書を残したのでした。

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矛盾は創造の母 (野中郁次郎氏)

2005-10-20 23:08:29 | 本と雑誌

(「価値組」未来企業へのシナリオ(監修:島田 精一)p146より引用) 新たな価値は既成価値との矛盾から生まれる場合が多く、矛盾を組織として議論できる環境づくりが重要(富士ゼロックス代表取締役副社長 高橋秀明氏)

 この環境の中で、組織としての「問題解決力」が醸成されますし、個々のメンバの「変革への意識と意思(力)」が生まれてくるのです。

  しかしながら、そこに至るまでが実際は大変だと思っています。

 「矛盾を組織として議論できる環境づくり」とありますが、これを具体的に実現するためにはいくつかの条件があります。

 まず、「矛盾」が発生するか

 そもそも「矛盾」が発生しないとスタートしません。
 組織によっては、「矛盾」になりそうなものは表面化させないように自己抑制している場合もあり得ます。何も問題がないように、表面を塗糊されてしまうとアウトです。課題を隠蔽しない、課題を素直に顕在化できる環境構築がまず第一歩です。

 次に、「矛盾」を矛盾として感知できるか

 何んらかの「事象」が顕在化したとしても、それを「課題」「矛盾」と意識できるかが次のポイントです。
 同じ事象を前にして、ある人は「放っておくと大変だ」と思い、別の人は「いままでもあったし大丈夫」と思う・・・
 折角顕在化した問題事象も、それを「矛盾の兆し」と捉えられないと検討の俎上にも上がりません。

 ともかく、ここまで来てようやく「『矛盾』を前向きに議論でする」というスタートラインにたどり着くのです。

(野中郁次郎氏) 絶え間ない動きの相互作用の中で矛盾が解決されていったとき、本当のナレッジ、知が生まれ、しかも、非常に質の高いノウハウが形成されるんじゃないかと思います。

 ただ、もっとも大事なことは、「自由に議論できる」ということです。
 自由な議論を尊ぶ「価値観」が共有されているか、誰とでも自由に議論できる「場」があるか、自由に意見を交換するのが当然という「空気」があるか・・・これが肝です。

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思索 (ショウペンハウエル)

2005-10-19 00:21:38 | 本と雑誌

 ショウペンハウエルは、ペシミズムの哲学で有名な19世紀ドイツの哲学者です。

 エンカルタ百科事典によると、彼の主張はヘーゲルの観念論的哲学に強く反対したもので、

「物自体とは実は意志であり、表象としての世界の根底には、意志としての世界が横たわっている。ここでいう意志は、ある展望をもった自発的行為だけをいうのではない。人間のあらゆる精神的活動も、無意識の生理的機能もその本質は意志であり、それどころか意志は、非有機的な自然をうごかしている内的な力でさえある。ひとつの普遍的な意志が宇宙の究極的な実在なのである。」

 とかということらしいのですが・・・(何のことやらよく分かりません)

 岩波文庫に「読書について他二編」として収められている彼の著作は、(上記の解説に比べ、)はるかに読みやすく分かりやすいものです。(親切な訳のおかげかもしれません)
 下手なコメントを加えるより、何節か以下にご紹介します。

(p6より引用) 自ら思索することと読書とでは精神に及ぼす影響において信じがたいほど大きなひらきがある。・・・すなわち読書は精神に思想をおしつけるが、この思想はその瞬間における精神の方向や気分とは無縁、異質であり、読書と精神のこの関係は印形と印をおされる蝋のそれに似ているのである。・・・このようなわけで多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る。

(p8より引用) 読書は思索の代用品にすぎない。読書は他人に思索誘導の務めをゆだねる。

(p11より引用) 読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れこんでくる。ところが少しの隙もないほど完結した体系とはいかなくても、常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。

(p16より引用) 精神が代用品になれて事柄そのものの忘却に陥るのを防ぎ、すでに他人の踏み固めた道になれきって、その思索のあとを追うあまり、自らの思索の道から遠ざかるのを防ぐためには、多読を慎むべきである。

 書物は、他人の思索のプロセスや結果を記したものです。したがって、それにどっぷりと浸かってしまうと、無意識のうちに他人の思索プロセスを援用したり結論の影響を受けたりしてしまうのです。

 ショウペンハウエルは、自らの頭で考えることの大事さを訴えています。自らの頭で考えた独創的な思索のみに価値を認めているのです。模倣や借用はだめ、本質の乏しいことを覆い隠す不必要な修飾や曖昧な言葉を操ってのまやかしもだめということです。

 なお、表題の「思索」の原題は「Selbstdenken」で、文字通り「自ら考えること」だそうです。

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当たり前の徹底

2005-10-16 00:31:06 | 本と雑誌

(「価値組」未来企業へのシナリオ(監修:島田 精一)p145より引用) トヨタ自動車の強さは、合理的精神に基づいて、当たり前のことを当たり前に、徹底してやってきたところにあります。実はこれが一番難しいことなのですが、そこには特別なノウハウがあるわけではなく、組織全体の仕事に対する構えがそうなっているのです。これはどこの企業にも普遍化できると思いますが、企業の強みとは、そうした当たり前のことを徹底的にやり切るという仕事に対する立ち向かい方の中から、創り出されるものだと考えています。(トヨタ自動車専務取締役 松原彰雄氏)

 トヨタの5W1Hは、Why・Why・Why・Why・Why(「なぜだ?」を5回)でやっとHow(どうする)が出てくるというものだそうです。これは、物事の本質に至るための極めてシンプルかつ本質的な基本動作です。

 しかしながら、トヨタといえども、(創業時)生まれながらにして実践できていたわけではありません。これは、DNA(先天的なもの)ではなく、生まれてから成長の過程で身につけたもの(後天的なもの)です。

 後天的なものならば、やる気次第で誰でも身につけることができるはずです。実際、松原氏も「これはどこの企業にも普遍化できると思います」と話されています。が、これは世のほとんどの企業・組織体にとっては、「DNAの組み換え」に匹敵するほどの大事業です。

 TOYOTA WAYと賞賛されるような仕事への取組姿勢を「当たり前」といえるほど普通のことにしてしまう、むしろ、そういう「遺伝子(DNA)組み換え技術」を開発したことがすごいことだと思います。

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これもイソップ? (イソップ寓話集)

2005-10-15 00:46:10 | 本と雑誌

 イソップ寓話の中でもとりわけ有名なもののひとつが「アリとキリギリス」でしょう。

 この話の原型はイソップ寓話には2話あります。岩波文庫の「イソップ寓話集(中務哲郎訳)」では、「112 蟻とセンチコガネ」と「373 蟻と蝉」です。
 このためでしょうか、世界には、この話の変化形として「アリ」のペアにいろいろなムシが登場します。「キリギリス」のほかに「甲虫」「トンボ」・・・ただ、いずこも働き者はやはり「アリ」です。

 そのほか、イソップが起源かどうかは定かでありませんが、「イソップそっくりさん」です。

 先に「毛利元就の三本の矢」のそっくりさんは紹介しましたが、「173 樵とヘルメス」は、日本各地に伝わる昔話の「金の斧銀の斧」と驚くほど同じです。

 諺の類では、「人事を尽くして天命を待つ」≒「291 牛追とヘラクレス」ですし、「147 ライオンと熊」は、ライオンと熊が仔鹿をめぐって争ったあげくその仔鹿を狐に持っていかれる話で、まさに「漁夫の利」と同じです。
 ちなみに、漁夫の利となる一歩手前で2頭が踏み止まる「338 ライオンと猪」という話もあります。

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絵のない絵本 (アンデルセン)

2005-10-13 00:05:11 | 本と雑誌

 普通よく手にする本とは全く感じの違ったものを読んでみました。

 私も遥か昔、いくつかのアンデルセンの童話は読んだのですが、しばらくぶりのアンデルセンです。

 形式は、若い絵本作家に月が語る33の短編集です。
 内容は、童話というより、(童話的な書きぶりではありますが、)アンデルセンの体験に基づいたエッセイ集のような趣きがあります。
 心優しい話もあれば、私が読んでも結構シビアなものもあります。たとえば、第十六夜のプルチネッラ(道化)の話や、第十九話の俳優の話などです。

 そういえば、「童話」といっても必ずしもHappy Endが多いわけではないですね。アンデルセン童話の中でも最もポピュラーな「マッチ売りの少女」にしても「人魚姫」にしても悲しい話だと思います。

 「絵のない絵本」のタイトルどおり、この本には「絵」はありません。読んだ人が各々その人なりの感性で「絵」を想い浮かべるのでしょう。でもこの本は「絵本」なのです。33の物語の一つひとつが、その語られる言葉そのものが、読む人の心に「絵」を感じさせるのだと思います。

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マキアヴェリの「運命と自由意志」論

2005-10-10 15:27:47 | 本と雑誌

(p189より引用) この世の事柄は運命と神とによって支配され、人間は自らの思慮を用いてその動きを変えることはできず、それに対しては手の施しようがない、という意見を多くの人々が昔から懐き続けている。・・・しかしながら人間の自由意志は消滅せず、したがって運命はわれわれの行為の半分を裁定するが、他の半分、あるいは半分近くはわれわれが支配するよう任せているのが正しいのではないかと私は判断している。

 先のブログでも書きましたが、マキアヴェリは実証的・論理的な思考様式の持ち主であり、その姿勢も「王道」だと思います。

(p192より引用) もし人が時勢や状況の変化に応じて、自らの行動を変えてゆくならば運命は変化しないことになろう。

 このように、マキアヴェリは変化への対応の重要性を指摘していますが、同時に現実も冷静に見ています。

(p192より引用) かかる状勢の変化に適応できるほど賢明な君主は見当らない。それというのも人間は生来の性向から離れることができず、またある方法によって常に成功した人間にその方策を捨てるよう説得することはできないからである。

 とはいえマキアヴェリは運命を黙って受け入れることを決して容認してはいません。果敢に行動することにより、自ら運命を切り開くべきと訴えています。

(p194より引用) それゆえ次のような結論が得られる。運命は変転する。人間が自らの行動様式に固執するならば運命と行動様式とが合致する場合成功し、合致しない場合失敗する。私の判断によれば慎重であるよりも果敢である方が好ましいようである。・・・運命の女神は冷静に事を運ぶ人よりも果敢な人によく従うようである。

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ちょっと気になった話 (イソップ寓話集)

2005-10-09 14:49:20 | 本と雑誌

 イソップ寓話のストーリの癖として、素直に善行(たとえば正直であることとか)を勧めているものは多くないようです。むしろ、正直過ぎることで騙されたり、思慮の浅さによって不幸な目に会ったり、という形で忠告してくれています。

 そういったものが多い中、何となくタイプが違う話として印象に残ったものを2つ。

85 子豚と羊

 仔豚が羊の群にまぎれこんで草を食んでいた。ある時、羊飼に捕まったので、泣き叫び逆らっていると、羊たちは仔豚が泣くのを咎めて、
「わたしたちもいつも捕まっているのに、泣きわめいたりしないでしょう」と言った。
それに対して仔豚の言うには、
「僕と君たちとでは、捕まる意味が違う。君たちが引ったてられるのは羊毛か乳のためだが、僕の場合は肉のためだ」

 身に迫る大変さの程度が全然違うのですが、そういう相手の気持ちは結構気づかないものです。

322 蟹と母親

 「斜に歩いちゃだめよ。濡れた岩場で横さらいはいけません」と母親が注意すれば、子蟹の言うには、
「お母さん、まず先生が真っすぐ歩いてよ。それを見てするから」

 こちらは、いつの時代でもいずこも同じという感じです。

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二兎を追って二兎を得る

2005-10-08 16:30:08 | 本と雑誌

(「価値組」未来企業へのシナリオ(監修:島田 精一)p103より引用) かつて“品質コストはトレードオフだ”とされていた時代があった。しかし、TQCにより、プロセスがきっちりデザインされ管理された結果、両者は両立し、“品質が上がればコストが下がる”というポジティブな関係になった。

 上記の記述は、従来からの古い頭では「背反」だと思い込んでいたものが、実はそうではないという鮮やかな実例です。

 後半部分を私の理解でもう少し噛み砕いていうと、
 従来のやり方を「プロセス」という観点から整理しなおすことにより、「プロセスの改善」が「品質の向上」にも寄与したし、
 「プロセスの標準化・シンプル化」が「無駄なコストの削減」にも寄与した
ということです。

 同様のことは「セキュリティ」「コスト」の関係でも言えるかもしれません。セキュリティの向上が余計な管理コストの抑制を実現するということです。

 また、「販売」「コスト」の関係でもありえます。この点は、効率的な販売活動を目指した「データベースマーケティング」や「CRM(Customer Relationship Management)」への取り組みがその具体的アクションの実例になります。

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数学的思考 (森 毅)

2005-10-05 00:20:45 | 本と雑誌

 先に芳沢光雄氏の「数学的思考法」という本を読みました。
 今回の森毅氏の本は、タイトルとしては「法」が取れただけの一文字違いなのですが、取っつきやすさという点では大いに差がありました。

 この本を理解するには、ある程度の高等数学の知識と最低限の数学史の素養は不可欠です。(私の場合、その双方とも不足していたので難渋しました)

 ひょっとすると数学の専門家からみると、お二人とも本質的には同じ趣旨のことを主張されているように見えるのかもしれません。

 いずれの著作も、現代の「数学教育」に対する問題意識は共通です。
 この点については、私は「数学」についても「教育」についても門外漢なので深い議論はできませんが、素人の立場では以下のように思います。

 本テーマの議論は、「数学教育の目的」の置き方により大きく論点が異なってくると思いますし、その目標次第では、「教育方法の問題点」の所在も変わるように思います。
 すなわち、
 ・教えるべき対象に問題があるのか
 ・対象は正しいが、教育体系に問題があるのか
 ・教育体系は正しいが、教育方法に問題があるのか
という具合です。

 たとえば、「数」は「時間的概念である序数(一番目・二番目・・・)」と「空間的概念である基数(ひとつ・ふたつ・・・)」があるとされ、それを統一するのは「運動」であるという古典的な教えがあるそうです。

 私なりの例でいえば、X軸に経過時間(時間)、Y軸に移動距離(空間)をとったグラフは「運動」を表わしているという感じです。この運動の性質としての変化量(速度)は、グラフ上の1点における微分値となります・・・

ということですが、さて、こういった内容は、教えるべき必要な事項かということです。ここで「教えるべきか否か」の判断基準として、何のためにという「目的」が重要になります。

 本書では数学にまつわる「迷信」としていくつか掲げ論述しています。
  ・数学は諸学の根源である
  ・数学はものの役にはたたない
  ・数学は純粋形式による観念の産物である
  ・数学は生産技術の道具であればよい 等々

 こういった「迷信」についての個々人の考え方が目的の多様化の根源にあり、その状況が「数学教育の体系や方法」のブレに連なっているのだと思います。

 ある人にとっては「算術」でよいし、また別の人にとっては「数学」でなくてはならないのです。
 こういった異なる目的の人が混在している段階の集団に対して、同じ内容を教えるという場(たとえば、高校の数学の授業)がある限り「数学教育の最善解」を見出すのは困難です。

 ただ、願わくば、「機械的な『術』」の記憶や技能訓練に終始するのは回避したいものです。

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