OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

旅の途中で (高倉 健)

2008-03-29 10:22:29 | 本と雑誌

 特に、高倉健さんのファンというわけではないのですが、健さんのエッセイの評判が結構高いとのことで読んでみました。

 健さんは1931(昭和6)年生れですから、もう70歳半ばを過ぎていらっしゃいます。
 本書は、健さんが60歳代のとき、ラジオ番組ニッポン放送「高倉健旅の途中で…」で語られた内容を書き起こしたものです。

 
(p35より引用) 言葉というのはいくら数多く喋ってもどんなに大声を出しても、
伝わらないものは伝わらない、そういう思いは自分の中に強くあります。
言葉は少ないほうが、自分の思いはむしろ伝わるんじゃないかと思っています。

 
 いかにも健さんらしい飾らない実直な言葉で語られているのですが、それでいて繊細な優しい感性が伝わってきます。

 また、健さん自らの体験だけでなく、健さんが出会った魅力的な人々のエピソードも紹介されています。その中からひとつ、健さんの知人松久信幸シェフの言葉です。

 
(p104より引用) 人生には苦しいこともあるし、嘘と言いたくなるほど辛いこともある。
でも、神様は絶対に無理な宿題は出さない。
その人に与えられた宿題は、絶対にその人自身がクリアできるものなんです。
乗り越えようなんて思わなくても、一歩ずつ進んでいけば、
いつの間にか乗り越えてしまっている。
その時、初めて自分に自信が持てるんだと思います。

 
 そして、こちらは健さん自らの言葉。

 
(p112より引用) 人間にとっていちばん贅沢なのは、心がふるえるような感動。
お金をいくら持っていても、
感動は、できない人にはできません。・・・
一週間に一回でもいいですから、心が感じて動けることに出会いたい-。
とても贅沢だとは思いますが、
感じることをこれからも探し続けたいと思ってます。

 
 この言葉に表れている常日頃の心持ちが、健さんのエッセイで紹介されている数々の気づき・感動の源になっているのだと思います。

 大変失礼な言い様ではありますが、感性の豊かさは年齢とは無関係だと改めて感じ入りました。
 

旅の途中で 旅の途中で
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2003-05-30

 

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NTTの自縛 知られざるNGN構想の裏側 (宗像 誠之)

2008-03-23 09:38:20 | 本と雑誌

Hikari_fiber  NTTが取り組んでいる「次世代ネットワーク(NGN:Next Generation Network)の構築」をひとつの材料に、今のNTTグループが直面している大きな課題を明らかしようとしたレポートです。
「ふとっちょパパさん」も読まれたようです)

 著者は、NTTグループが抱える課題の根幹にあるものを「電話的価値観」だと指摘しています。
 そういった視点から捉えられたいくつかの問題的事象を紹介しましょう。

 まずは、著者が「電話的価値観」のひとつにあげている「プロダクトアウト的思考」に関して。

 
(p76より引用) NTTグループには、『高機能なよいインフラを作れば使われる』『NTTが作ればユーザーは使う』といった今では時代錯誤のなってしまった感覚が電話時代から残っている。・・・
 だが、IPネットワークは電話網とは違う。
 IPネットワークで使うルーターやサーバーなどの通信機器は市販製品であり、ネットワークそのものの機能では他事業者と差を付けにくい。こうなるとインフラではなく、そのインフラを使って提供するサービスで他事業者とどう差別化していくかが重要となる。・・・
 このように通信事業者を取り巻く環境が変わっている中で、NTTが持っている電話のプロダクトアウト的な感覚は大きな足かせになる。現に、その視点がすっぽりと欠けたまま、NTTのNGNは進んでしまった。

 
 また、同じく「電話的価値観」の代表的表象としての「自前主義」「計画重視マインド」に関して。

 
(p80より引用) 誰も管理しないインターネットと異なり、通信事業者が管理できるNGNなら、通信品質や帯域を制御して追加料金をユーザーからもらたり、付加価値のある新サービスを提供して収入増につなげられたりする可能性がある。・・・
 「NGNへの取り組みは、インターネット文化に対する、世界中の通信事業者の逆襲」-。
 同じIP技術を使うとはいえ、コンセプトが全く異なるNGNとインターネットの関係について、そう解釈するアナリストは数多い。

 
 もちろん、現在のNTTグループを取り巻く課題は、NTTが内包する「旧来の価値観」のみに起因するものではありません。
 1999年に実施されたNTT再編成、すなわちNTTグループ各社の新たな事業ドメインの整理も、今となっては(実は、当時から指摘されていたことですが、)時代の流れに対応した判断とはいえないものです。

 
(p119より引用) 時代が変わりIP技術を使うインターネットの波が押し寄せると、電話の発想で分割されたNTTの組織体制はすぐに時代遅れのものとなった。インターネットが台頭し、地域や距離は関係ないIP技術を使うネットワークの時代に移行する中で、県内通信を基本とする地域通信事業者がずっと存続していることもおかしな話。既に、固定通信と移動通信の融合まで始まっている時代に、このような時代と合わない体制を維持する必要はなくなってきている。

 
 本書の最後の章で、以下のようなNTT関係者のコメントが紹介されています。

 
(p175より引用) もはや、NTTが2010年に光アクセスのユーザーを二千万回線にできるかどうかという数字上の目標達成にはあまり意味がないのである。・・・
「二千万でも三千万でもどちらでもいいが、NTTの都合で強引に光アクセスを引いただけでは意味がない。『ユーザーが新サービスを使ってくれるようになった結果、光アクセスやNGNのユーザーが二千万~三千万まで増えた』というアプローチができなければ、収益状況の改善は見えずNTTの将来も見通せない

 
 至極当然の内容です。

 著者は、NTTに対して「電話的価値観」からの脱却を求めています。
 が、問題は旧弊から脱してどこに向かうかです。
 答は、単純明快で、素直に「お客様にとって真に価値あるサービスを提供する」という極々当たり前のことを追求し続けることでしょう。
 

NTTの自縛 知られざるNGN構想の裏側 NTTの自縛 知られざるNGN構想の裏側
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2008-02-01

 

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空(うつ)の創造 (脳と日本人(松岡正剛・茂木健一郎))

2008-03-22 09:32:53 | 本と雑誌

 新たな気づきや創造は、まさに「新しい」が故に過去の蓄積からの延長線上には現れないとも言えます。
 今、「ない」ものであるから、現れると「新しい」ものとなるのです。

 
(p124より引用) 茂木 以前、松岡さんが言われたことですごく印象に残っている言葉があるんです。「編集工学研究所で、スタッフがコンピュータにずっと向かっているのを見ると、ゾッとする」って。・・・いま、まさに、そういうことが常態化していますね。インターネットの登場で加速化している。
松岡 アタマを充満させてパソコンに向かっている。あれからは何も出ないね。一度、立ち上がって、また戻ってみるといい。あれではアタマの中に隙間が生まれません。

 
 松岡氏の言う「クリエイティブな『隙間』」です。

 
(p124より引用) 松岡 うつろいというのは、移行、変化、変転、転移のことです。・・・空っぽのところから何かが移ろい出てくることが「うつろい」で、目の前にはない風景や人物が、あたかもそこにあるかのように面影のごとく浮かんで見えることをあらわしています。

 
 この点に対して茂木氏は、専門の「大脳生理学」の視点から別の読み解きを試みます。

 
(p124より引用) 茂木 そういう見方って、脳をやっている立場からいうと、すごく面白いのです。脳にとっての「空」は、何もないという状態ではなく、何か隙間があるということです。神経細胞は自発的に活動する。何か少しでも時間があると、それを埋めようとする。うまく設定された「空」があるということは、脳の神経回路のダイナミックスからいうと、何かを生成するための誘い水となり得る。たとえれば「空」から天変地異が起こるようなものなのです。

 
 この「隙間」は、自発的・自律的な成長を促す創造的な空間です。
 この空間があるから、新たな能力の伸びしろが生まれるのです。

 
(p146より引用) 松岡 生命の最初の型は一種の“逆鋳型”(カウンターテンプレート)だろうと思うんだよね。・・・
茂木 ぼくは、教育もそうだと思うんですよ。子どもの作為的能力をつくり上げられるかのようなアプローチは基本的にまちがっていると思うのです。ある設えをして、その中で、子どもの生命力が勝手に枝葉を伸ばすようなアプローチのほうが絶対に正しいと思います。脳の神経細胞は自発的にしか活動しえない。

 
 画一的な狭い鋳型に押し込むのではなく、可能性の拡がりに誘う自由な空間を与える感覚です。

 以前、「フューチャリスト宣言」という梅田望夫氏と茂木健一郎氏との対談集を読みました。
 今回の本と合わせると、茂木氏を挟んで、梅田氏と松岡氏が両極に位置することになります。
 お二人の考え方の相似と相違も、なかなか面白いものがありました。
 

脳と日本人 脳と日本人
価格:¥ 1,800(税込)
発売日:2007-12

 

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二人の会話 (脳と日本人(松岡正剛・茂木健一郎))

2008-03-20 09:26:00 | 本と雑誌

 松岡正剛氏茂木健一郎氏、お二人の本はそれぞれ何冊か読んでいます。
 特に、松岡氏の著作は、時間的にも空間的にも広い視野でテーマをとらえ、刺戟的な視点から意外な立論がなされるので非常に勉強になります。

 本書は、その松岡氏と脳科学者?である茂木氏との対談集です。

 お二人の話の中から、興味を惹いたやりとりや、松岡氏・茂木氏各々の考え方が際立ったフレーズを私の覚えとして記しておきます。

 松岡氏は、従前より「編集」というコンセプトで、広汎な事象の間の新たな「関係性」の発見に取り組んできました。この「関係」というキーワードに対する茂木氏の経験からの言葉です。

 
(p28より引用) 茂木 その時、はっきりと思ったのは、遠さというか、隔絶しているという性質は、世界の中にあるというよりも、われわれの中、あるいは、われわれと世界との関係の中という位置にあるのではないかということでした。

 
 このイメージは、三内丸山遺跡での土器を前にして感じたのだと言います。

 次は、習慣が生む創発とでもいうのでしょうか、グーグル・アマゾン化するフラット社会に対しての松岡氏のアンチテーゼのフレーズです。

 
(p80より引用) 松岡 千の単位で繰り返された習慣が臨界値に達して何かを創発することと、習慣もないのに便利になった道具を持っていることとの格差が、これから、ますます開いていくだろうね。

 
 もうひとつ、松岡氏の薦める「前向きな断念」について。
 「何を断念するかということが選べるのが大事」と松岡氏は言います。

 
(p92より引用) 茂木 松岡さんがつくられた名文句に「香ばしい失望」という言葉があります。断念することでかえって自由になれる、前に行けるということがありますよね。ぼくは、文学というのは、そもそも断念から始まるんじゃないかと思っています。・・・
松岡 ・・・科学でも、ほんとにいい仕事というのは断念から始まっていますよ。たとえば、相対性理論を発表したアインシュタインであっても、・・・みんな制限、限界というものを感じていて、断念しているんですよ。

 
 最後に、本書で語られた松岡氏のことばの中で最も印象に残ったフレーズをご紹介します。

 
(p218より引用) 松岡 自分の生きてきたかたちでいえば、障害や衝突や解けない問題がどんなに小さくても、その奥は広いと思っています。よりよくするためには、何かつまずいたものを見つめるしかないのじゃないか。そこに絶対、ヒントがあるように思います。

 
 目の前に生起し存在することどもを真摯に受け止め、それを深く洞察する姿勢は、私も、是非とも見習いたいと思います。

 

脳と日本人 脳と日本人
価格:¥ 1,800(税込)
発売日:2007-12

 

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貧乏するにも程がある 芸術とお金の“不幸"な関係 (長山 靖生)

2008-03-16 09:40:30 | 本と雑誌

Natsume  なかなか毛色の変った本でした。
 著者は、本書の序章で以下のように宣言しています。

 
(p15より引用) 私は「自分らしさ」がもたらす幸福と不幸、さらにはその価値観に潜む欺瞞と真実まで、しっかりと見据えたいと思う。

 
 そして、著者は「自分らしさ」を貫こうしている代表者として作家・画家等をとりあげ、その生き方を、特に経済的視点から描き出そうとしています。

 まずは、個々の作家の話題に入る前に、(「経済資本」とは別物の)「文化資本」という概念についてコメントしています。

 
(p33より引用) ちなみに文化資本というのは社会学者のピエール・プルデューの用語で、学歴や資格にとどまらず、知識、教養、趣味などにわたる文化や社交、身だしなみなどの社会関係にかかわる体系的価値観を含んだ概念である。

 
 しかし、この文化資本も「生まれながら」という特権的・排他的要素が拭いきれず、他方、純粋に芸術に打ち込むことに価値を見出す「芸術至上主義」が唱えられるようになりました。
 こういった動きに対して、著者は以下のような穿った見方をしています。

 
(p77より引用) 経済優先の社会システムが整った十九世紀に、芸術至上主義の運動が盛んになったのは、だから実は矛盾ではなくて、表裏一体の関係にあった、といえるだろう。
 市民社会の理論が合理主義・経済効率優先を自明のこととしていたからこそ、効率を度外視し、経済原則からはみ出しているように見える芸術や文学の創作行為が、特権的に見えたのである。そして芸術至上主義運動には、そういう芸術家の純粋伝説を広めることで、作品の商品価値を高めるという「経済原理」も仕組まれていたに違いない。

 
 さて、次に、具体的な作家についての著者の論評もご紹介しましょう。
 切り口は、「経済」もっと直接的に言うと「おカネ」的視点からみた彼らの生活であり考え方・姿勢についてです。

 多くの作家は、事実、貧乏でした。

 
(p97より引用) 夏目漱石が指摘していたように、世の大半の人々の趣味が低いのであれば、作家にとって、売れることは屈辱ですらある。

 
 負け惜しみではなく、真にそう考えていたのだとすると、作家が貧乏なのは至極当然ということになります。

 ここで著者は、かなり大胆で特異な説を示します。

 
(p126より引用) 鷗外や荷風のような貸し借りなしの人生は、経済流通に取り込まれることを、極力拒もうとする生き方だ。資本主義の本質は流通にあるから、これは脱資本主義のひとつの在り方といえる。
 一方、「借りる人生」「借りられてしまう人生」を突き詰めてゆくと、どうなるだろう。中途半端に返したり、返してもらったりしては、世間並みになってしまうが、貸して貸して貸しまくり、借りて借りて借り倒してしまうと、そこでは「金」に自他の所有という区別がなくなってしまう。これもまた資本主義を否定する在り方だ。
 一見すると、まったく対極に位置するような鷗外的野暮と百閒的風狂は、資本主義の外側を目指すという点で一致していたのだ。そして資本主義と人の世が同義である今日、人間らしく生きる場所は、人間の世の外側にしかない。彼らはそれぞれの方法で、その存在しない場所に住もうとしていた。

 
 作家は資本主義の世界の外、すなわち「文学」の世界の住人だと言うのです。


貧乏するにも程がある  芸術とお金の“不幸"な関係 (光文社新書) 貧乏するにも程がある 芸術とお金の“不幸"な関係 (光文社新書)
価格:¥ 756(税込)
発売日:2008-01-17


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となりのクレーマー‐「苦情を言う人」との交渉術 (関根 眞一)

2008-03-15 09:46:05 | 本と雑誌

Parcoikebukuro  いつも読書の参考にさせていただいている「ふとっちょパパ」さんも大分前に紹介されていました。

 著者は、実際に西武百貨店の「お客様相談室」で数々の苦情・クレーム対応を経験された方です。
 ふとっちょパパさんのコメントにもありますが、やはり現実の経験に裏打ちされた話には圧倒的な説得力がありますし、「事実は小説より奇なり」といった風のエピソードも紹介されています。

 それらの中から、私の興味を惹いたフレーズをいくつかご紹介します。

 まずは、クレーム対応の王道の話です。

 
(p21より引用) 細かいクレームに対して真摯に対応している事業体には、隙がありません。「クレームはトラブルになる」という、危機意識を持っているからです。
 一方、「クレームごとき」と、軽い要望すら無視するような態度のところは、一見、クレームに強そうに見えるのですが、逆にクレームが大きくなり、トラブルに発展する場合が多いのです。

 
 次に、「クレーム対応のプロ」の反省の弁です。

 
(p147より引用)
●「たった二円」という気の緩みで、誠意を感じられない対応を見抜かれた。
●「普段から怒鳴るいやな感じのお客様」というレジ係員の言うことが先入観になって、お客様像を勝手に作って訪問した。

 
 こちらは、またか・・・何度も何度もといった対応であっても、お客様から見ると「一発勝負」です。一回一回の対応は、常に「真剣勝負」の気概で取り組まなくてはならないということです。
 特に二点目は難しいですね。
 事前にお客様について知るということは当然基本動作として必要なことです。ただ、そこでこれから対応するお客様像を想定する際、「(お客様に関する)事実そのもの」と「事実からの(他人の)評価」とを、きちんと意識・峻別してイメージすることが重要なのでしょう。

 最後に、「苦情・クレーム対応の極意=お客様の立場に立つ」という点について。

 
(p156より引用) 「お客様の立場に立つ」ことは、実際に簡単なことではありません。・・・
 私は、一年経って、ようやく店側でも顧客側でもない、中立の立場になれたと自覚できました。・・・
 二年もすると、かなり顧客側に立てるようになりました。・・・
 しかし、三年も経つと、ほぼ顧客側の立場になりました。そうすると、不思議なことに八割は電話だけで解決できるようになったのです。残りの二割も、店内で調査して後日連絡する、で解決できることがほとんどになりました。
 店側に立って苦情やクレームを処理するほうが、よほど時間がかかり、非効率的なのです。

 
 さもあらんとは思いますが、実際ここまでの姿勢になりきるのは、生半可なことではないでしょう。
 自己の精神状態を意識的にコントロールし、その考えのスタート・発想の始点の立ち位置を変えるのですから、ただ「経験」を積めばよいというレベルではありません。
 能動的な「自らを変えようという意思の力」を感じます。
 

となりのクレーマー―「苦情を言う人」との交渉術 (中公新書ラクレ 244) となりのクレーマー―「苦情を言う人」との交渉術 (中公新書ラクレ 244)
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発売日:2007-05

 

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倫理からの気づき (エコエティカ‐生圏倫理学入門(今道友信))

2008-03-12 16:00:28 | 本と雑誌

Aristoteles  倫理学と銘打った本は、私の記憶のなかでも読んだことはなかったと思いますが、本書の内容は非常に興味深いものがありました。
 もちろん、すべて肯定というわけではありませんが、あらゆることを考えるうえで、参考になる視点をいくつも再確認できたように思います。

 それらのなかで、私の覚えとして、以下のいくつかの気づきを記しておきます。

 まずは、エコエティカが対象とする問題の一つである「人と物との関係」を考えるにあたっての「所有」と「使用」の概念について。

 
(p127より引用) 所有権は直ちに使用権を含まないということは当たり前で、・・・所有権と使用権とがつながらないということは明らかなのに、現実の生活では「自分の土地だからどう使ってもいいだろう」とか、「自分の家だからどんな家を作ってもいいだろう」というふうになり、これが都市の美観を害なっていることも事実ですし、経済活動なり政治活動において、間違いを起させているのではないかと思います。

 
 この点、特に日本人は「物に対する所有のパトス」が強いとの指摘です。

 次に、日本人論のなかで頻繁に登場する「恥の文化」について。

 
(p128より引用) 昔から日本には「恥の文化」というものがある、と言われていますが、それは「公に顔向けができない、残念だ」と思うことがあっても、おのれ自身を不徳のゆえに恥じているわけではありません。
 何に対して恥じているのか、といえば、世間に対してであり、つまり、世間が間違っているのならば、間違いに合わせることが恥ずかしくないことになってしまうのです。これこそ、世に迎合することです。つまり、われわれの国の「恥の文化」は、内的な「恥の道徳」ではない、ということです。

 
 この指摘は素直に首肯できるものです。
 日本人論においては、この日本人にとっての「世間」、さらに「世間の中の自己」というものを突き詰めていくことになります。

 さて、最後にご紹介するのは、人間が行為を起す際の論理構造についての著者の主張です。

 ここでは、古代ギリシアの大哲学者アリストテレースが登場します。
 アリストテレースの「ニコマコス倫理学」においては、行為の論理構造の出発点は「目的」でした。その目的を達成するための「手段」が複数あり、その中から「もっとも立派」で「もっとも容易」なものが選ばれるという仕組みでした。
 これに対し、著者は「新しい技術環境の中での行為の論理構造」として、以下のような仕組みを提起しています。

 
(p144より引用) 目的が自明的に望まれているのではなくて、社会に強力な手段Pが自明的にそなわっているということであります。電力も原子力もその一例です。あるいは形はちがいますが、大資本もその例になります。そしてこの自明的なところで、ある強力な手段としての力Pから、どういう目的が達成されるかという考えが出てきます。ですから手段Pが自明であって、列挙されるのは、その手段Pから分析的に考えられて実現が必然的に可能と思われるもの、それが目的として列挙されます。そしてこの目的の中で、どれか一つをある原理で選んでいかなければならないのです。

 
 この考えによると、最後の「目的の選別の基準」がさらに重要になります。

 また、著者は、以下のような重要な問題点も指摘しています。

 
(p146より引用) 手段が強大な物理的な力である現代の場合には、この物理的な力が可能にする物理的な事柄しか目的としては出てこない、という限定があります。

 
 ちょうど本書と並行して、梅田望夫氏による「ウェブ時代をゆく‐いかに働き、いかに学ぶか」という本も読んでいたので、多くの点で、二人の主張の対比や拠って立つ価値観の相違が感じられてなかなか面白かったです。


(追記)
 実は、この本を読んだ後、著者の今道先生ご本人のお話しを2時間ほど直接うかがう機会がありました。
 お話しの中には、いくつもの心に残ることばがありました。以下にご紹介します。

  • 西田幾多郎氏と鈴木大拙氏の友人関係に関して、「真に謙虚であれば、良い友ができる」
  • 西田幾多郎氏の「善の研究」という本を何度か読み返しているというお話しに関して、「書物とともによい思い出が残る」
  • 今道先生が学生時代、西田幾多郎氏にお会いになった際、西田氏から贈られた言葉にとして、「哲学は予言者にならなくてはならない。その予言は論理に基づかなくてはならない」
  • 今道先生がエコエティカを記された想いとして、「『各個人が内面的に反省したときに自分の人生に意味があるかを考える』ということを書きたかった」

 
 哲学関係の講義は学生時代にも受けたことがなかったのですが、その道の第一人者の方のお話の内容はもとより、その正に謙虚なお人柄には、本当に久しぶりに唸りました。
 

エコエティカ―生圏倫理学入門 (講談社学術文庫) エコエティカ―生圏倫理学入門 (講談社学術文庫)
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今、思う倫理学 (エコエティカ‐生圏倫理学入門(今道友信))

2008-03-10 10:49:11 | 本と雑誌

Genshiryoku_hatsuden_syo  この1月から参加しているセミナーでの必読書として配布されたので読んだ本です。

 今の時代環境に基づき考察された倫理学の入門書です。

 
(p60より引用) 人間が運命として甘受しなければならないもの、また、それゆえに、そこから個性の自由な展開が可能なものと、それとは異なり、人間が人力で変換しなければならないものの別があるのか、ないのか、そういう問題を倫理として考えることは、絶対に必要であり、その基礎に形而上学が要求されると思います。ということは、形而上学に裏打ちされた新しい倫理学が考えられなくてはならない、ということです。

 
 タイトルの「エコエティカ」
 初めて耳にした単語ですが、著者によると、一般的な訳は「生圏倫理学」、「人類の生息圏の規模で考える倫理」とのことです。

 
(p74より引用) 今までの倫理学は、人間同士の倫理学でした。今や私どもは、それだけではなくて、直接的な対象として考えてみると、自然、技術、文化に対しても倫理があるのだということを考えていかなくてはならない。ここにエコエティカの対象拡大があります。

 
 著者は、エコエティカの具体像を示すために、いくつかの新たな徳目を提示しています。

 著者によると、従来の倫理学においては、「勇気」「忠」「謙遜」「責任」などが主な徳目としてひろく共通的に認められていたと言います。
 それらに加え、著者は、現代に資する倫理においては、「フィロクセニア(異邦人愛)」「定刻性」「国際性」「語学と機器の習得」「エウトラペリア(気分転換)」等が新たな徳目として掲げられるだろうと述べています。

 本書において著者は、以上のような体系整理に併せて、いくつもの具体的例を示しながら、新たな倫理(エコエティカ)の確立・浸透の必要性を訴えています。
 特に、臓器移植等を推進する「医の倫理」の問題、人間の制御能力を越える「原子力に係る倫理」の問題等における著者の主張は、非常に興味深いものがありました。

 この点についてのひとつの基本的なテーゼは、「人間の本質たる意識は時間的な存在だ」というものです。

 
(p194より引用) 人間に本質的なものであるところの意識は、いかにして生成発展するのかと申しますと、これは時間の中で自己を育てていくものです。つまり意識というのは、哲学的な伝統の通りに、時間的な存在だということです。
 技術が時間を圧縮してゆくことは、つまり、時間的存在たる人間の本質である意識を圧縮することにつながりはしないか。これが大きな問題となります。

 
 技術連関という現代の環境においても、自然は一定の時間を守ってきたといいます。

 
(p196より引用) 先ほど、われわれ人間は本質的には自然である、と申しました。そして、しかも自然のなかでもわれわれとしては、意識という時間性を強調しなければならない存在です。時間性を強調するとは、自然の「待つ姿勢」にまねることになります。それは時熟への忍耐と待機の自覚を養います。

 
 先の臓器移植についていえば、他人の体を傷つけてまで自らを助けるのではなく、人工臓器の開発まで待つという考え方です。

 

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