いつも聞いているPodcast番組のゲストで著者の堀潤さんが出演していました。
そのときのお話にちょっと関心を持ったので代表的な著作を手に取ってみました。
香港・朝鮮半島・シリア・パレスチナ・スーダンといった海外の地、そして国内では、原発事故による強制避難により生じた「分断」の地「福島」、米軍基地移転問題で県民が「分断」された「沖縄」・・・、実際に現場に入って聞くそこにいる人々の声は、たったひとりの意見であったとしても、紛れもない「現実」の証明なのです。
“現場に行く意味”は、「仮説の確認」ではなく、「新たな問いの発見」です。評論家の宇野常寛さんのコメントは、なるほどと思うものでした。
(p195より引用) 取材って単に行けば良いというものではないと思う。行くこと自体が大変だというのはあるんだけど現場に行くことが目的化してしまっては意味がない。そこで目に映ってしまったもの、カメラに映ってしまったものをしっかりと検証する知性と勇気、そして発信していく覚悟が大事ですよね。
新聞やテレビの取材を受けるたびに思いますよ。鉤括弧を埋めるためにこういったセリフを聞き出したい、その一言を引き出すために僕に話を聞きに来ることが、新聞記者にしてもテレビの記者にしてもすごく多い。
でも僕は、ジャーナリズムってそういうことではないんだよなあと、僕自身も一発信者として日々感じながら仕事してるんですよ。何で現場に行くかというと、自己破壊のために行くわけじゃないですか。
自分たちが見えていないものとか、聞こえていないものを聞くことによって、一回自分の世界観とか理解なりを破壊して、それを再構成することでより深い理解にたどり着く。視点を少し変えることによってそれまで気づかなかったことに気づく。その成果を僕らが再編集して発信していくことでしか、人々に何かを伝えるという仕事は成立しないと思っています。
「表層をなぞった仮説」をさらに「それが真実か?」と深堀していく、HONDAの本田宗一郎さんの物事の本質をとことん追究する信条にも通底する姿勢です。
もうひとつ、報道キャスター長野智子さんの言葉。
世界各地で非人道的な環境におかれ苦しんでいる人々に対して、自分たちができることについて。
(p260より引用) 海外の大変なところに行ったりすると、伝えてくれることが支援なんだと言われます。知ってますよ、見てますよということが、例えば非人道的なことをしている国への抑止力になるわけじゃないですか。・・・その意味で言えば知ることだけで支援になる。難民の方とか、国内だと被災された方とか、そういう困っている人たちを物理的に助けることができない人もいっばいいるけれど、「知ること」が支援に繋がるんです。その上で自分に余裕ができた時に、何か行動を起こしたらそれが未来を変えることになるかもしれないし、小さな夢を育てることにもなるかもしれない。
まず、固定観念にとらわれずファクトを知ることが“第一歩”です。「知ろうとすること」なら誰でも始められます。
本書で取り上げられた国内外の現実。こういったリアルタイムの姿を「マスメディア」で見る機会は一昔前に比べて圧倒的に減ってしまいました。昨今のSNSに代表されるメディアの多様化は、自分の知りたい情報だけを得ることを容易にしましたが、逆に、自分の知らない情報に触れる機会を奪い閉ざしつつあります。
だからこそ、改めて“マスメディアの今日的な存在意義”が問われているのです。ここ数年で最も劣化したのが「マスメディア」に他なりません。
樹木希林さんに纏わる著作は、以前も、「この世を生き切る醍醐味」「樹木希林 120の遺言 ~死ぬときぐらい好きにさせてよ」を読んでいるので、これが3冊目になります。なのでいくつかの有名なエピソードはダブりますが、この本が一番“樹木さんの自然の姿が浮かんでくる”ような気がします。
まずは「第1章 生きること」から、樹木さんらしい台詞を書き留めておきます。
(p42より引用) 終了するまでに美しくなりたい、という理想はあるのですよ。ある種の執着を一切捨てた中で、地上にすぽーんといて、肩の力がすっと抜けて。存在そのものが、人が見た時にはっと息を飲むような人間になりたい。形に出てくるものではなくて、心の器量ね。
お話しされたのは1996年ですから、樹木さんは53歳、まだそれほどのお歳ではない頃です。“心の器量”、いい言葉ですね。
次に、「第4章 仕事のこと」から。
(p132より引用) 私はお仕事で関わっている人達を、自分も含めて俯瞰で見るようにしているんです。そうすると自分がその場でどんな芝居をするべきかがとてもよく分かる。
この「俯瞰」という視座は、よくビジネス書とかで「仕事への取り組み方」として勧められるのですが、ポイントは“自分も含めて”という点なんですね。改めて樹木さんの言葉を読んで意識し直しました。
「俯瞰しろ」というと、私もそうでしたが、「自分自身が高い見渡せる場所に移動」してしまうんですね。つまり「俯瞰した視野には自分がいなくなる」わけです。これでは、自分のなすべき役割がわかるはずがありません。こんなことを誤解していたとは、心底情けないです・・・。
そして、「第6章 出演作品のこと」から、「夢千代日記」で共演した吉永小百合さんを評して。
(p164より引用) (吉永) 小百合さんは見かけよりもずっと頑固ですから。最初はわかりませんでしたけど、しばらくして映画の仕事を一緒にして、その頑固さに気づいたとき“あ、これはいいな”と思いましたよ。頑固というよりも、自分の意志をきちんと貫く芯の強さを持っている。そういうものを積み重ねてきた結果、なるべくして、今日に至っているのではないでしょうか。
・・・やはりあの夢千代という役は、誰にでもできる役ではないんです。『夢千代日記』が成功したのは、芯の部分で決して揺らぐことのなかった、吉永小百合という役者がいたからなんですよ。
確かに「夢千代日記」は名作でしたね。日本海側のうら寂しい温泉町の風情が今でも印象に残っています。
ほぼ同い年(樹木さんが2歳年上)の吉永さんと樹木さん、タイプも考え方も異なっているのですが、生き様としての根っこのところで相通じるものがあったのでしょう。
お二人が共演した作品「夢の女」の監督坂東玉三郎さんとの対談でもこう語っています。
(p169より引用) ある時期まではきらきら輝いているのに、気づいたら面変わりして、佇まいもすっかり変わってしまう。そうやって自分の人生を粗末にしている女優さんは少なくないんです。でも、小百合さんは自分の人生、生活、役を大事にしながら、失敗も成功も含めて自身の糧としつつ、そこにしっかりと生きている。
玉三郎さんがこういったんですよ。「だって、希林、見てごらんよ。結局、小百合さんに目がいっちゃうんだよ」って(笑)。やはり、ただすっと立っているだけで、凛とした生きざまが見える女優さんはなかなかいないし、別にお世辞でもなんでもなく、そう代わりがいるものではないんですよ。
私からみると、吉永さんも樹木さんも、お二人とも“素晴らしい女優”だと思います。
演じている姿ももちろんですが、その魅力的な人柄は「肉声でのお話ぶり」からしっかりと伝わってきますね。
恥ずかしながらユヴァル・ノア・ハラリ氏の著作を読むのは初めてだと思います。
私たちが現在直面している21の重要テーマについての論考です。もちろんどの考察も興味深いものですが、それらの中から特に私の興味を惹いたものをいくつか覚えに書き留めておきます。
まずは、「2 雇用」の章での「AI」について論じているくだり。
(p42より引用) AIが持っている、人間とは無縁の能力のうち、とくに重要なものが二つある。接続性と更新可能性だ。
人間は人ひとり独立した存在なので、互いに接続したり、全員を確実に最新状態に更新したりするのが雄しい。それに対してコンピューターは、それぞれが独立した存在ではないので、簡単に統合して単一の柔軟なネットワークにすることができる。 だから、私たちが直面しているのは、 何百万もの独立した人間に、何百万もの独立したロボットやコンピューターが取って代わるという事態ではない。個々の人間が、統合ネットワークに取って代わられる可能性が高いのだ。したがって、自動化について考えるときに、単一の人間の運転者の能力と単一の自動運転車の能力を比べたり、単一の人間の医師の能力と単一のAI医師の能力とを比べたりするのは間違っている。人間の個人の集団の能力と、統合ネットワークの能力とを比べるべきなのだ。
さすがに“現代の歴史学者”の知識は技術的ジャンルでも一流のようです。というより、そういった科学的知見も有しないと「人類の歴史」は語れないということでしょう。
次に「3 自由」の章での「自動車自動運転アルゴリズムと倫理」のついての議論。「トロッコ問題」における採るべき行動について何が正しいのか、アルゴリズムの実装においては何らかの明確な選択が求められます。
(p90より引用) テスラは自動車を生産するために、そのような込み入った問題で、実際に態度を明確にしなければならないのだろうか?
ひょっとするとテスラは、それをあっさり市場に委ねるかもしれない。テスラは、「テスラ利他主義者」と「テスラ利己主義者」という、二つのモデルの自動運転車を生産する。緊急の場合には、アルトゥルーイストはより大きな善のために、所有者を犠牲にするが、エゴイストのほうは、たとえ二人の子供の命を奪うことになっても、所有者を救うために全力を挙げる。こうしておけば、消費者はお気に入りの哲学的な見方に合うほうの自動車を買うことができる。テスラエゴイストを買う人のほうが多くても、それでテスラを非難することはできない。なにしろ、顧客はつねに正しいのだから。
「AI」が社会で実働するということは、人間に代わって “AIにこういった「倫理(哲学)的判断」を委ねた世界を受け入れる”ということなのです。
そして「14 世俗主義」の章での「陰の面を認める」ことの価値について。
(p278より引用) 私たちがこれから生命の歴史の中で最も重要な決定を下すにあたって、私としては無謬性を主張する人よりも無知を認める人を信頼したい。もしあなたが、自分の宗教かイデオロギーか世界観に世界を導いてほしいのなら、私は真っ先に問いたい。「あなたの宗教かイデオロギーか世界観が犯した最大の過ちは何か? その宗教かイデオロギーか世界観は、 何を誤解していたか?」と。もしあなたが、 何か重大なことを思いつけないのなら、少なくとも私は、あなたを信用しないだろう。
教条主義の自信過剰よりも非教条主義の慎ましさに信を置く考え方です。それは、ソクラテスの“無知の知”にも通底するものです。
さて、本書を読み通しての感想です。
“このところ休業状態だった脳のパート”を使おうとあがいてみたのですが、予想どおりなかなか思うようにはいきませんでした。情けないことに集中力が「2行」と持ちません・・・。休業中だと思っていたものが、実際はどうやら“消滅”していたようです。著者の論理の筋道を何とか辿れたのは、全体の1割にも満たないでしょう。
とはいえ、著者の抱く現代社会が直面している“危機感”は大いに伝わってきました。
それだけでも本書を手に取った意味はあると思います。やはり、時々は、こういったしっかりとした内容の著作に触れるトライだけはし続けたいものですね。