いつも利用している図書館の新着本リストで目に付いた本です。
著者のひろゆき(西村博之)さんは、今、信者もアンチも含めネットの世界でその発言が最も注目されている人の一人でしょう。
私自身は、あまり関心はなかったのですが、やはり一度はその本人の主張もしっかり理解してみようと思い手に取りました。本書で開陳されているひろゆきさんの考え方の中から2・3、書き出してみましょう。
まずは、「誰かを無条件に信じるのって、やめたほうがいいですよね」の章から、「他者の意見の扱い方」についてのくだり。
(p38より引用) でも、僕の信者”だという人が、たまに現れるんです。
僕は間違ったことも、たくさん言います。「ひろゆきが言っていた」は、なんの根拠にもなりません。だから、きちんとした論文を書いた大学教授が、自分の専門分野について話しているなら別ですが、そうでないなら、他人の意見を鵜呑みにして、自分の主張の根拠にすることは、とても危険です。
僕のYouTubeでは、「なぜそう考えたのか」という理由や根拠を、できるだけ説明するようにしています。物事の考え方を知ることで、同じような基準で考え、答えが出しやすくなるからです。ただただ鵜呑みにするのではなく、そうやって役立ててもらったほうがいいんじゃないかと思います。
このあたりは、至極真っ当な考え方ですね。
他方、意味不明?な考え方を披瀝しているくだりもあります。
(p150より引用) 時間を守らないことくらいで怒るのは、器が小さいのではないかと思います。 自分の思い通り、予定通りにならないと不快に感じるってことですから。
仕事やプロジェクトは、運がよければ予定通りに物事が進みます。
でも、思い通りにならないことも、予定から外れてしまうことも必ずあります。そんなときに怒ったからといって、世界は変わりません。
犬の糞を踏んで怒っても、踏んだ事実が変わらないのと同じです。・・・
時間を守らなくてもいいと考える、おおらかな人と関係を結ぶことで、結果的に何事もうまくいくのではないでしょうか。
このあたりの話は、1文ごとに突っ込みどころ満載ですが、致命的なのは、「コントロールできる要因」と「コントロールできない要因」の区別なく議論を進めているところです。
「コントロールできないことがあるのだから、そもそも“いい加減でいい”」というのは、あまりにも雑な考え方でしょう。「コントロールできるリスク要因は極小化して、コントロールできないリスクに備える」というのが、より現実的な解だと私は思います。
また、そうやって、自分が時間を守らないことにより他人の時間に無駄を生じさせておいて、次のコラムでは「動画は1.5倍速で見て、自分の時間は節約しましょう」とアドバイスしているというのは、なんとも “自分勝手”な姿勢だと言わざるを得ないですね。
まあ、こんな感じで、本書で開陳されている「100の言葉」は、私にはどうにも腹に落ちたとは言い難いものの方が圧倒的に多かったですね。
たとえば、ひろゆき語録として有名な「それって、あなたの感想ですよね」について言えば、“個人の感想(考え)”と“客観的事実”とをキチンと区別して議論すべきというのが本旨だとのひろゆきさんの主張は首肯できます。
ただ、短いフレーズで切り取られて、それが一人歩きしはじめると、いろいろと誤解・不具合が生まれてくるのでしょう。もちろん、ひろゆきさん自身、“確信犯”的に振舞っているところもありそうなので、この本で語られている主張も少々読み手側で補正しつつ読む必要がありそうですね。
もうひとつ、本書を読んで感じたのですが、ひろゆきさんは議論を進めるにあたって「論理的」であることに大きな意味を認めているようです。そして、その「論理構造」の出発点は「言葉・概念の定義」だという考え方も垣間見られます。
なので、(私も往々にして同じような思考傾向があるのですが、)議論を始める際には必ず「定義の明確化」を求めます。その明確化された定義をベースにして結論を導く、そしてその結論が相手の結論と異なっているとき“論破した”と宣言するわけです。
しかしながら、現実的には「定義」自体、議論が分かれることがあります。
その場合は、「定義=出発点」次第で論理プロセスも最終的な結論も大きく変わってきます。「この定義だと、Aという結論になるが、こう定義すると結論はBに変化する」ということは当たり前のこととして生じます。「結論の差(正否)は、定義の差に過ぎない」というわけです。
演繹的な思考は一本道で論理的ではありますが、ひとつの結論に誘導しようという意図がある場合には、たとえば「定義」の設定の仕方によって結論を任意の方向に持っていくことも可能になります。すなわち「定義」自体に、すでに結論を意識したバイアスがかかっている場合があるのです。
したがって、結論が“価値観”に依拠するものの場合には、自らが望ましい/正しいと思う結論を帰納法的議論でチェックしてみることも有益なんですね。そもそも目指すべきゴール(価値観・理想像)は何かを、虚心坦懐、イメージし直してみるのです。
ただ、そういった個人の価値観に基づいた発言をすると、今のご時世では、「それはあなたの感想ですね」と言われるのかもしれませんが・・・。
かなり以前に読んだ内田康夫さんの“浅見光彦シリーズ”ですが、このところ、私の出張に合わせて、その出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
今回は“博多”です。
ネタバレになるとまずいので、内容には触れませんが、この作品の導入部でも、今回出張で行ったビルの話題が登場していました。
(p25より引用) それに呼応するかのように、福岡市内のいたるところで、市街地の再開発が進行しつつある。博多駅周辺の有効土地利用計画もそうだが、NTTおよび西鉄ターミナルビルの移転に伴う、広大な跡地の利用計画が最大の目玉となっている。・・・
天野屋も、跡地に建つビルの一つに、新店を出す計画を進めていた。
この作品の舞台となった百貨店のモデルはやはり「岩田屋」でしょうね。
さて、この作品、浅見光彦シリーズとしては、兄陽一郎の絡み方がちょっといつもと違っていました。
あと、謎解きのフェーズですが、最後の方でちょっと無理筋のプロットも含め、バタバタ感が目立ったように感じます。そういった出来の作品が増えてきましたね。
いつも聞いている大竹まことさんのpodcastの番組に著者の大空幸星さんがゲスト出演していて、自らの生い立ちやその体験を踏まえ立ち上げたNPO法人の活動の話をしていました。
まさに今日的なテーマでとても刺激を受けたので、その営みを記した本書を手に取ってみたというわけです。
印象に残ったエピソードやコメントのうちのいくつかを書き留めておきます。
まずは、論考を紹介する前に、大空さんが区分する2種類の「孤独」についての説明部です。
(p56より引用) 一つ目が「積極的な孤独」。英語では、Solitude (ソリチュード)と訳される。例えば、友達や家族が周りにいてもひとりになる時間をつくったり、ひとり暮らしで友達付き合いがほとんどなくても「平気」という場合などが、この積極的な孤独に当てはまる。すなわち、自らの意志でひとりでいることが積極的な孤独、ソリチュードだ。孤独というよりは孤高に近い。
(p58より引用) もう一つの孤独は、英語ではLoneliness(ロンリネス)と訳される「消極的な孤独」、すなわち〝自らが望まない孤独〟だ。
大空さんが本書で取り上げる孤独は、積極的な孤独(ソリチュード)ではなく、この望まない孤独(ロンリネス)なのですが、この2つの孤独の区分を意識しない問題点としてこんなケーズを指摘しています。
(p60より引用) 書店に行くと、多くの雑誌や書籍などで、社会的孤立と孤独の違いや、望まない孤独の存在を無視した「孤独を愛せ」「孤独が人を強くする」といった言葉が躍っている。積極的な孤独(ソリチュード)を、人間関係のストレスなどから離れる必要がある人だけを対象にして、限定的に推奨することは問題ない。しかし、誰かとのつながりを欲している人や、望まない孤独を抱えてひとりで悩み苦しんでいる人に対してまで、孤独を礼賛し推奨するのは極めて酷で危険な行為である。
私もここで取り上げられているトーンの本は何冊か読んでいますが、その時には、私自身、極限的な「望まない孤独」の環境にいる当事者の受け止め方までは思いが至りませんでした。大いに反省です。
さて、この「望まない孤独」は現代社会に数々の深刻な問題をもたらしています。
大空さんの指摘の中で、特に私が気になったのが「若者の自殺の増加」。これは「若者の孤立の本質」に起因しています。
(p99より引用) このケースを踏まえて、改めて考えなければならないのは、Bさんは社会的孤立状態にはなかったという点だ。 Bさんは常に家族や友人に囲まれていた。・・・ 客観的に把握可能な社会的孤立のみに焦点を当てると、Bさんが抱える孤独の本質に気づくことはできなかっただろう。Bさんだけではなく、多くの子どもや若者たちが、社会的に孤立していなくても、周りの人には頼ることができず、ひとりで悩みを抱え苦しんでいる現状がある。こうした子どもや若者の孤独の本質への理解が社会的に乏しいことが、子どもや若者の自殺がなかなか減らない背景の一つにあるのだ。
「まわりが心配してくれているのにもかかわらず・・・」と考えてしまい “負のスパイラル(自己否定ループ)” に陥ってしまう若者たち、彼らも大空さんの相談窓口が頼りなのです。
そして、このせっかくの相談窓口の活用にあたって精神的抑止要因になっているのが自己責任論に毒された「スティグマ」です。
(p176より引用) 提言の四つ目は、「孤独に対するスティグマの軽減と正しい理解の普及」である。・・・孤独や自殺といった問題にまつわるスティグマは、「頼ることは負け」「誰かに頼っているのを見られるのが恥ずかしい」といった感情を喚起させる。このスティグマによって、いくら支援制度を拡充し、民間団体を支援して頼れる人のパイを増やしたとしても、真に支援を必要としている人に届かないといった状況が起きてしまう。
困ったときに「誰かに頼ること」は決して恥ずべき事でも間違ったことでもありません。ましてや、自分の力の及ばない深刻な悩みに陥っているのですから、社会のセイフティーネットに縋ればいいのです。“それが当たり前”の社会にするのは「一人ひとりの考え方」次第です。
さて、最後に本書を読んでの感想ですが、稀にみる強烈なインパクトを持った著作でしたね。
ここに記されている大空さんの情熱と行動力には驚きを禁じ 得ません。立ち上げた「相談窓口」のコンセプト・運営方法の緻密さはもとより、そのアクションのスピードや拡がりは卓越していますし、大空さんが取りまとめた「総合的な孤独対策の実現に向けた提言」の実現に向けた執念は物凄いものがあります。
大空さんの努力で立ち上がったこの取組みを、後に続く政治や行政がどこまでしっかりとフォローしていけるか、何とか継続的なサポートが続くことを強く望みます。(第三者として“望む”だけではなく、私たちとしても何をやるかが大切ですね。さて、私は何をやりましょうか。)
「マーベル・コミック」の実写映画のひとつです。
キャラクタとしては比較的地味ですが、「北欧神話」をモチーフに「神」自体を現実世界のヒーローとして登場させるアイデアは面白いですね。
キャスティングとしては、まだメジャーではなかったクリス・ヘムズワースを主人公に、アンソニー・ホプキンス、ナタリー・ポートマン、レネ・ルッソといったビッグネームが取り巻くという贅沢な顔ぶれです。
ストーリーは正直面白みはありませんし、特殊効果映像も少々質が劣る印象は否めませんが、アベンジャーズシリーズの一つのパーツとしては必要なんでしょうね。
久しぶりにいわゆる “古典” と言われるものを読んでみたくなりました。
かといって、大著にトライする元気もないので、とにかく「薄めのもの」をと思い手にとったものです。ちょっと前に読んだ五木寛之さんの「折れない言葉」という本の中で、この本の一節が紹介されていたんですね。
ご存じのとおり、著者のマルクス・トゥッリウス・キケロは共和政ローマ末期の政治家・文筆家・哲学者。
本書は、古代ローマの政治家・文人大カトーが二人の若者を自宅に招き「老い」について語った対話篇という体裁です。
流石ですね、現在にも通じる興味深い話がいくつも開陳されています。それらの中から2・3、覚えに書き留めておきましょう。
まずは、老年を耐えやすいものとする要諦を語った大カトーの言葉。
(p16より引用) スキーピオーとラエリウスよ、老年を守るに最もふさわしい武器は、諸々の徳を身につけ実践することだ。生涯にわたって徳が涵養されたなら、長く深く生きた暁に、驚くべき果実をもたらしてくれる。徳は、その人の末期においてさえ、その人を捨て去ることはないばかりかーそれが徳の最も重要な意義ではあるー人生を善く生きたという意識と、多くのことを徳をもって行ったという思い出ほど喜ばしいことはないのだから。
そして、本稿で、大カトーは「老年が惨めなものと思われる理由」をあげて、それぞれについて論を進めていきます。
(p22より引用) 第一に、老年は公の活動から遠ざけるから。第二に、老年は肉体を弱くするから。 第三に、老年はほとんど全ての快楽を奪い去るから。第四に、老年は死から遠く離れていないから。
の四つです。
その中の「老年には快楽がない」との説の検討において、大カトーは、年齢を重ねた偉人たちの研究や学問に向かう情熱的な姿勢を示し、こう評価しています。
(p51より引用) この快楽は、思慮深くきちんとした教育を受けた人にあっては年齢と共に育っていくので、先にも述べたが、ソローンがある詩で語った例の言葉、「自分は日々多くを学び加えつつ老いていく」というのは見上げたものである。このような心の快楽にもまして大きな快楽は決してありえないのである。
いくら年老いたとしても、どこまでも学問を極めようとする探求心が“心の快楽”だというのです。学びと老いの並走です。決して“人生の下り坂”“幕引きへの準備”ではないんですね。
さて、本書、本編だけなら70~80ページほどの論考ですが、内容は大いに興味をそそられます。さすがに深い思索を求められるような指摘もあれば、いつの時代でも老人の為す様は同じだと感じる微笑ましい記述もあります。
いずれにしても、時折は、この手の著作にもチャレンジし続けたいものです。「学究として」というまでの真剣さは持ち得ないのですが、私も還暦を過ぎ、“時折”“少しでも”日頃とは異なる脳の部位を使ってみようとの “悪あがき” といったところです。
いつも聞いているピーター・バラカンさんのpodcastの番組に著者の河合敦さんがゲスト出演していて、その内容を紹介していました。
最近、以前教えられていた日本史の通説の見直しが話題になることが多く、そういった新たな史実を開陳している著作もよく見かけます。本書はそこまでインパクトを追及したものではありませんが、対象を「歴代の徳川将軍」に絞り、その一人ひとりにつきかなり細かな話題にも入り込んで一覧にしたところに特徴があります。
歴代の徳川将軍といえば、家康・吉宗等といったとても有名なビッグネームもいれば、「歴代」という点から名前だけ憶えたような将軍もいます。気になるのは、そういった “無名の将軍の姿” ですね。
さっそく本書を読んで興味を抱いた将軍たちのエピソードをいくつか書き留めておきましょう。
まずは、2代将軍秀忠。
偉大な先代に比して“凡庸”との評価が一般的ですが、一本芯の通ったなかなかの人物だったようです。
病に侵された最晩年のエピソード。天海僧正とのやり取りです。
(p55より引用) 天海は、「大御所様は家康公のように神号をお受けにならないのですか」と尋ねた。これに対し秀忠は、・・・ 家康の偉大さを述べた後、「我はたゞ先業を恪守せしといふまでにて。何の功徳もなし。 神号なぞは思もよらぬ事なり。 とにかく人は上へばかり目が付て。 己が分際をしらぬは。第一おそれいましむべき事なり」と述べたのである。
最期に臨んで、自らをしっかりと客観視できる見事な胆力の持ち主ですね。
次に、6代将軍家宣。
わずか3年の治世でしたが、著者は “歴代将軍の中でも最も優れた君主のひとり” と評価しています。将軍位に就き次第、先代綱吉が定めた天下の悪法「生類憐みの令」を廃し、その定めに触れて入牢していた人々を次々に釈放していきました。
また、城下の落書に関するこんなエピソードも伝えられています。
(p131より引用) 家宣は、「庶民は直接、上の者に対する悪事を告発できないので、落書を認めてやれば、自由に意見を述べるだろう。そうすれば我々に下情がよくわかる。そのうえでよいことは採用し、間違った意見は無視をすればいい」と庶民の政治批判をあえて黙認したのだ。
これだけでもなかなかの度量だと測り知ることができますが、さらには、次期将軍として、天下のために幼かった我が子ではなく、尾張家に宗家を譲ろうとさえしたといいます。甲府藩主のころから碩学新井白石が侍講として仕えただけあって、なるほど傑物ですね。
そして3人目は、10代将軍家治。
その在位中政治は老中田沼意次による専横を許している状況でしたが、家治自身その人物としては吉宗の嫡孫で俊才だったと言います。その秀でた人格を紹介しているくだりを2箇所紹介します。
ひとつめ。
(p201より引用) 別の火事では、江戸城の御門にまで火が近づいてきた。このとき老中たちは消火の人数を増やすべきかどうかを議論したが、これを耳にした家治は大声で「城門は焼けてものちにつくり直せばよい。城下の商人たちは家が焼けたら明日の生活にも困るだろう。増やした消火の人数はすべて町家の救済に用いよ」と厳命した。
もうひとつ、
(p202より引用) 家治が天変地異を自己の責任だと考えていたのは、次の言葉からもわかる。
「かく近年火災打つゞく事。 ためし有べし(前例がある)とも覚えず。是みな上一人つゝしみの怠るより。政とゝのはずして(政治が良くないので)。天よりかく災害をしめし給ふと見えたり。汝等よろしく年寄どもと相談して。我身 (家治)のいまだいたらざる所あるか。また民庶のうれひとなる政事あるか。すみやかに告来れ。つゝみ かくすべからず」
まさに政治家の鑑のような言葉である。
良きにつけ悪しきにつけ、それらの全てを“自らに責を帰す姿勢”は見事です。
さて、本書で紹介されている15人の将軍たち。優秀な人材が必ずしも権力を持ち得なかったり、逆に適性を欠く人物が独裁的政治を推し進めたり・・・。世襲を基本としつつ、跡継ぎを輩出する家系も巻き込んだ権力闘争のなかで、玉石混交、多彩多様な人物が入れ替わり立ち代わりその座に就いたようですね。
そのあたりの様子を網羅的かつコンパクトに整理したなかなか面白い本でした。