絶対あり得ないような「HERO検事」が主人公の “劇画”的テイストの作りで、
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」4部作の最終作、完結版です。今年(2021年)社会現象にもなった作品ですね。
ここまでシリーズを観てきて、この作品でようやく冒頭からストーリーには乗っていけましたが、後半になるとキツくなってきました。
今まで作られた同じような作品の流れの域を超えない“犠牲のプロット” はお決まりですが、そのあとのラストに向かう「難しい講釈」は好悪が分かれるように思います。私にはあまりに“理屈っぽ過ぎ”ましたし、結局は“個人レベルのモチーフ” に収斂されて、ここまでの壮大な展開は何だったんだといった一種の徒労感も抱きました。
ということで、ここ数日間という超短期間「エヴァの世界観」に触れたに過ぎない私の「新劇場版4部作」についての感想は、“テーマとストーリーが今一つしっくりマッチしなかった” ということでした・・・。
あと、蛇足ですが、こうやって「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の第1作から観てみると、「映像」のレベルの格段の進歩には目を見張るものがあります。素晴らしいですね。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」4部作の第3作目です。
前作から大きく状況が変化しているところから物語がスタートしているので、最初のうちはつながりを理解するのにかなり混乱しましたね。解説サイトのあらすじを助けにようやくフォローしたというところです。
ここまで辿ってくると、主人公らしき少年の「頼りなさ」があまりにも際立ってちょっと興味が薄れかかりました。さらには、それぞれの登場キャラクタの魅力も劣化してきているように感じます。
ただ、あと1作、完結編を残すのみとなったので、この物語をどう総括するのか、最後まで付き合うことにしましょう。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」に続いて観てみました。
確かにこの「ヱヴァンゲリヲン」シリーズ、独特の世界観を持っていますね。ところどころで少々哲学めいた台詞が聞こえるのですが、これは私には “意味不明”で今ひとつ響きません。とはいえ、ハマる人はハマるのが分かるような気がします。
私も今までのところでは拒絶反応はありません。まだ物語の途中なので、どうやら次作も観るしかないようです。
いつも利用している図書館の新着書リストの中で見つけたので、早速予約して読んだ本です。
タイトルに「2」とあるとおりベストセラーとなった前作(ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー)の続編なので、期待と不安が入り混じった気持ちで読み始めました。
インパクトという点では前作が余りにも強烈でしたから、さすがにそれには及びませんが、やはり本書も大いに刺激になりましたね。読んでいて印象に残ったところを少々書き留めておきます。
まずは、編入後学校に馴染めず登校拒否になっていた少女の話。
校長に勧められて入った音楽部での活動が彼女を学校に溶け込ませました。そして、春のコンサートでの少女のパフォーマンスは絶賛されました。
(p41より引用) 「みんな上手だった。みんなで一緒に練習して、みんなでベストを尽くしたからいい演奏になったんだ。あの子はみんなの中の1人に過ぎない」
ターバンの女性はきっぱりとそう言い、満面の笑みを浮かべて廊下の向こう側に手を振った。・・・
あの子はみんなの中の1人。
それは謙遜の言葉ではなく、ターバンの女性にとってとても重要な言葉なのかもしれないと思った。彼女たちも、長い時間はかかったが、ここまで来たのだ。
この親子にとって「みんなの中に溶け込むことができた」という感慨は、それは深いものだったのでしょう。
そして、もうひとつ。カトリックの学校に行かず公立中学を選んだことを「後悔している?」と尋ねられたとき、息子くんは「わからない」と答えて、こう続けました。
(p203より引用) 「『なんで君みたいな、いい小学校に行った子がここに来てるんだ』って教室で言う子がいると、ああ僕は大きな間違いを犯しちゃったのかなと思うし、音楽部でバンドの練習をしているときとかは、カトリックの学校じゃこれはできなかったなと思う。どっちが正しかったのかはわからないよ。僕の身に起きることは毎日変わるし、僕の気持ちも毎日変わる」
「でも、ライフって、そんなものでしょ。後悔する日もあったり、後悔しない日もあったり、その繰り返しが続いていくことじゃないの?」
息子くんは、「わからない」という返答に至った考え方をしっかりと持っています。13歳の中学生は、自ら飛び込んだ環境の中で数々の貴重な経験をし、それらを自分自身の精神的な成長の糧として見事に活かしていますね。
ともかく、自分の心で感じたことを自分の頭で考えて、自分の言葉で話しているところが、何より素晴らしいです。
2018年の制作なので、ガンダムシリーズとしてはかなり最近の作品です。
劇場映画として完全に新たに制作されたのは27年ぶりとのことですから、代替わりした最近のファンもいれば、初期のシリーズから引き続きのコアファンもいるんでしょうね。
私は年代的には初期からの部類になるのですが、当時から「ガンダム」に心酔していたわけではなく、テレビ放映も観ていませんでした。むしろちょっと取っ付きにくく思っていた方です。
本作も、私にはダメでしたね。“素直な戦闘モノ” ならまだ付いて行けたのですが、テーマが “抽象的なメッセージ” になると途端に頭がシャットダウンしてしまいます。
いつもの図書館の新着本リストの中で目につきました。
ちなみに、私は小さい頃から「動物園」とか「水族館」とかが大好きなのです。
著者の溝井裕一さんは西洋文化史が専門の関西大学文学部教授ですが、「ひとと動物の関係史」というあまり耳慣れない学問ジャンルも専門とされているのこと。タイトルどおり、古今東西の「動物園」の歴史を辿りながら、数々の興味深いエピソードを紹介しています。
その中から、まず、動物園の歴史に関する解説の中で興味を惹いたところです。
動物園の原初は、古来、時の権力者の富や支配力をアピールする施設でしたが、その後、研究や種の保全といった学術的性格をもつようになりました。そしてさらに、事業主体や運営環境によっては、人々に「娯楽」を提供するエンターテーメント施設としての色彩も加わっていったようです。
(p105より引用) 動物芸への傾倒は、動物園が、博物館の一部であることをめざした研究・教育施設から、しだいに娯楽施設へと変容していったことを示している。多くの人びとにとって、動物園は珍獣をみるための場にすぎなかったのだ。この流れに竿さしていたのが、鉄道会社がオープンした、遊園地つき動物園(ないし動物園つき遊園地)である。
日本の場合、特に阪神電気鉄道や箕面有馬電気軌道といった関西の私鉄を中心に、沿線の開発やそこに住む価値向上の一環としての「動物園を併設した娯楽施設」が作られたのでした。“動物園=遊園地”というイメージの浸透です。
こういった動物園のコンセプトの変化に対応して、展示方法も変遷を遂げていきました。
日本では、最近、旭山動物園を皮切りに「行動展示」「生態展示」が主流になっていますね。それ以前は動物の姿形を見せる「形態展示」が中心でしたが、その時代においても動物の見せ方は様々に工夫されていました。
たとえば、20世紀初頭、ドイツ(ミュンヘン)のヘラブルン動物園では“ジオ・ズー”とのコンセプトのもと「動物地理学的展示」を実現していました。
(p160より引用) ハーゲンベックは、全域の生きものをひとつのパノラマのなかで飼ったために、各地の自然に忠実でないと批判を浴びた。これにたいして、ヘラブルン動物園では地理的な区分、たとえばヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカに対応したエリアをもうけ、それぞれの地域に由来する動物たちをセットにしたのである。たとえばアジア・エリアなら、手前にアジア産の草食動物を配置し、奥にシベリアトラやユキヒョウを置く。こうすることで、アジアの風景を「1枚の絵」として観賞することができた。
こういった動きが、より自然に近い環境を再現し、見物する側も同じ空間を共有する形で様々な動物の姿を楽しむ「サファリ・パーク」や「テーマ・ズー」の流行につながっていったのです。
さて、最後に、本書を読み通して最も印象に残ったところ、「戦時下の動物園」についてのくだりを紹介しておきましょう。
(p181より引用) そもそも、日本の動物園で実施された動物の殺処分でさえ、プロパガンダ的な性質があった。動物たちの悲劇的な最期をみせつけることで、国民に覚悟を求めるのである。京都市動物園は、「空爆のため、オリの破壊による猛獣類の脱出を恐れた当局が、命令によって彼等を処分させたというのが表向きの理由だが […] 市民が馴れ親しんだ動物を処分することへの鉾先を、敵国にたいする憎しみに置きかえて倍加させ、戦闘意欲、勤労意欲の高揚をはかる意図が背景に隠されていたともされている」と書いている。
こういう形で動物を扱うといった発想が想起されること自体、信じ難く言葉を失いますね。
これも、戦争のもたらす理不尽さですが、何も日本に限ったことではないようです。海外においても、以前からまた最近の紛争下、各地の動物園で似たような悲惨で身勝手な営みがなされているのです。なんとも醜く悲しいことですね。
笑福亭鶴瓶さんのラジオ番組に加賀まりこさんがゲスト出演されていました。
以前から魅力的な女優さんだと思っていたのですが、改めてお話しぶりを聞いて興味をもちました。
本書は、20年近く前に出された加賀さんのエッセイです。
少し前に岸恵子さんの自伝的エッセイ(岸惠子自伝)を読んでみたのですが、やはり、この頃の“女優”さんのエピソードは、到底普通人の日常ではお目にかからないような“突き抜けたもの”が多いですね。
加賀さんが映画に出演するきっかけになった瞬間から驚きです。
(p133より引用) 17歳のある日。いつものように通学路の神楽坂を歩いていた私は、30歳前くらいの二人の男性に呼び止められた。二人は、映画の脚本を書いている寺山修司サンと松竹の監督をしている篠田正浩サンだと名乗った。そしていきなり「あのですね、今度僕らが撮る映画にあなたに出て欲しいんです」と言ったのである。
もちろん、このころは、声をかけたお二方も若手だったのでしょうが・・・。
さて、本書、想像どおりの内容でしたね。多彩な方々との交友、さまざまな土地での経験、それらを通して、加賀さんの “一本芯の通った気位” がストレートに描かれています。
そのころから20年、今の加賀さんが筆を取ったら、どんな出来事をどう記されるか、とても気になりますね。