OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

「世界」の世界 (人間を信じる(吉野源三郎))

2011-11-30 22:21:31 | 本と雑誌

Sekai  本書の半ばの章の多くでは、吉野氏が活躍していた1960年代から70年代初ごろの世相を反映した政治的・思想的な主張もみられますが、そういった中で、「思い出すこと」という章に日本人論としてとても興味深い考察が紹介されていました。
 吉野氏の知人のフランス人の言葉なのですが、覚えに書き留めておきます。

(p146より引用) そのフランス人によると、日本の芸術や武道に接して、いかにも日本人らしいなと感じ、また感心する点をふりかえってみると、たいてい、精神がある一点や、ある瞬間に「集中し切った」というふうなものだという。・・・それは、たしかにすばらしい。しかし、その反面に、いくつかの問題を精神に同時に受けとめて、これを抱えこんでゆくというようなことは、日本人には不得意なようだ。こういう可能性もあれば、ああゆう可能性もある、というふうに多くの可能性を併立させ、複雑なものを複雑に考えてゆくことは、日本人には得手でないようだ。・・・「白地に唯一つ赤い丸を印した日本の国旗は、実によく日本人の特徴をあらわしている。」

 確かに、なるほどという指摘だと思います。こういう日本人の精神・文化的特性は、その行為の面においても一つの傾向を示します。

(p147より引用) 純粋なもの、いさぎよいものを好むという傾向は、人間の行為に関しては動機の純不純だけを問題にして、その行為の客観的な責任を不問に附するということになりやすい。

 この精神主義・主観主義的な国民性が、戦前・戦中期には大きな不幸を招いたのでした。

 さて、本書の後半部分は、総合雑誌「世界」の編集者としての吉野氏の述懐が中心になります。
 「世界」創刊前から当時に至るまでの数多くのエピソードが紹介されていますが、その中で、吉野氏は「世界」の使命についてこう語っています。

(p286より引用) 『世界』がいろいろな論文や報道を読者に紹介する場合にも、現実についてそういう問題を心の奥にもっている読者の自主的な判断に資するためという形で、その立場から提供することが必要なのであって、われわれとしては、それ以上特定な政治的主張にまで踏み出すことはできません。そこに政党の機関誌ではない私たちの雑誌の限界があるわけです。・・・
 私には、この限界を自覚してやっていくことによって、民主的社会の言論・報道機関として『世界』のような雑誌も、かえってその使命を果たすことができるのだと思われます。

 ここには、政治的判断は、一人ひとりの国民の自主的・主体的行為でなくてならないというポリシーがあります。言論・報道機関は、その国民一人ひとりの判断の助けとして、前提となる事実・参考となる意見を提示するのが役割だとの考えです。
 1970年代あたりまでは、こういう形でメディアと国民とによる民主主義の思想的基盤が築かれていたのです。

 翻って今日、この「世界」のような役割を果たしているのは何なのか。それが、メディア著名人のブログや一部政治家・評論家のつぶやく140文字のtwitterだというのであれば、あまりに狭窄であり貧弱でしょう。さらにいえば、こういった断片的情報であっても、それを咀嚼し自らの頭で考えて判断する「人」が存在するのであればまだ良いのですが、而して現実はどうでしょう。

 私自身、そういう主体的判断を貫徹していると到底自信をもっていえるものではありません。自分の頭で考えるという鍛錬が、以前の人びとに比して圧倒的に劣化しているとの自覚と慙愧があります。


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ヒューマニズム (人間を信じる(吉野源三郎))

2011-11-27 08:46:09 | 本と雑誌

Iwanami_shonen_bunko  以前、吉野源三郎氏の代表作「君たちはどう生きるか」は読んだことがあります。中高校生には読んでみて欲しいと思った本でした。

 本書は、その吉野氏の人間論・人生論に関する論考を採録したものです。ヒューマニズムを基調とした吉野氏の思想が明瞭に記されています。
 それらの中から、私の印象に残ったものを書き止めておきます。

 まずは最初の論考、その名のとおり「ヒューマニズムについて-人間への信頼」の章からです。

(p2より引用) 「すべて人間的なものは、自分にとって無縁なものではない。」
 この言葉は、ローマの哲学者テレンチウスという人の作品にある言葉で、フォイエルバッハという哲学者が、ヘーゲルの絶対的な精神・・・を中心とした哲学に反逆して、感性的な、血や肉体をそなえた人間を中心とする哲学をとなえた時、『将来の哲学の根本命題』という本で、新しい哲学者のモットーとしてあげているものです。私は若いころ、その本でこの文句にであってから、何かにつけてこの言葉を思いおこすことが多く、私にとっては忘れられない言葉になっています。・・・これは、人間を愛し人間を尊重するヒューマニズムの、合言葉になっている文句です。

 吉野氏の原点はここにあります。
 この言葉を礎石として、吉野氏は「人間を信じることができるか」を問います。第二次世界大戦やベトナム戦争等あらゆる戦争の場で生起するの敵兵や敵国民に対する残虐な行為の現実は、その問いへの肯定を躊躇させます。
 長く深い思索を経た吉野氏の結論です。

(p40より引用) 「人間を信頼するか、どうか。」「人間を愛するか、どうか。」という問題は、矛盾した可能性を同時に持っているこの人間、その可能性の中から自由な意志で何かを選びとらねばならないこの人間、そして、現実からどんな選択を迫られても逃げることのできないこの人間、それをそのまま信頼するか、愛するか、という問題でした。・・・「そうだ、信頼する。」と答えるか、「いや、できない」と答えるかは、理由や証明にもとづいての帰結ではなくて、私の決意による選択の問題なのです。

 この選択は、ある種の「賭け」です。論理的な帰結によって当否の結論が出るものではありません。人生の中で避けられない信念にもとづいた「賭け」です。

(p42より引用) 賭けることによってのみ、私たちは友人を持ち、恋人を持ち、人間的な関係を自分のまわりに作ってゆけるのです。ひとりひとりの人間が、それぞれに、自分の願いや希望を賭け、そのとき、そのときの選択をやってゆきます。

 賭けだから危険もある。しかしながら、ひとりでも多くの人が「信頼」に賭けることによって大きな希望も約束してくれているのだ。
 吉野氏が、若者に訴える究極の「希望のメッセージ」です。


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随筆 上方落語の四天王―松鶴・米朝・文枝・春団治 (戸田 学)

2011-11-25 23:38:07 | 本と雑誌

Kamigata_rakugo  私は落語が好きです。特に上方落語は大好きです。
 一番の贔屓はなんと言っても二代目桂枝雀師匠ですが、本書で紹介されている「四天王」、現役バリバリの頃の高座は(テレビではありますが)よく見ていました。四者四様、それぞれの個性が光る流石の話芸でしたね。

 本書では、その名人たちの芸の特徴や魅力を、それぞれの得意演目を材料に詳細に紹介していきます。

 まずは、「第1章 米朝落語の考察」。三代目桂米朝師匠は、端整な語り口で人気を博した上方落語界初の重要無形文化財保持者(人間国宝)です。滅びつつあった噺の発掘に尽力した研究熱心さでも有名な方です。

(p68より引用) 米朝落語は、譬えるならば楷書の芸である。折り目正しい。正攻法の語り口であるがゆえの無限に広がるイマジネーションの世界をもち、幅広い世代の観客に支持されたのである。これは、米朝独自の芸境であった。

 私も米朝師匠の落語は大好きで、CD「桂米朝 上方落語大全集」も持っています。やはり、絶品は「百年目」ですね。終盤の番頭を諭す大旦那の何ともいえない話しぶりは米朝師匠ならではです。「たちぎれ線香」も素晴らしいのですが、こちらはとてもつらい話でよほどのことがない限り聞き直しません。

 続いて第二章で登場するのは、六代目笑福亭松鶴師匠。だみ声とやんちゃそうな立ち居振る舞いで強烈な印象を残した名人です。

(p118より引用) 松鶴が亡くなって久しい。あるときに桂米朝がポツンといった。
「今、わしが大阪落語の本流みたいにいわれるけども、ホンマは松鶴なんや」
六代目笑福亭松鶴は、言葉といい、風格といい、存在自体が、大阪-それも古き佳き大阪そのものであった。

 この米朝師匠の言葉にも頷かされます。垢抜けないくちゃくちゃな表情が懐かしいです。

 三番手は五代目桂文枝師匠。私の記憶にあるのは、小文枝当時の姿ですね。

(p125より引用) 少年の心をもった桂文枝である。文枝が演じる子ども-丁稚は非常に素晴らしく良かった。

 大人びたこましゃくれた物言いの反面、ちょっとしたところで子どもらしさを露呈するようなあどけない姿の描写は、あの甲高い声と相俟って確かに絶品でした。

 そして、トリは三代目桂春團治師匠。「春團治」の名の印象とは異なり上品な語り口の名人です。

 本書では巻末に、上方の四天王に加えて、古今亭志ん朝師匠を主人公にした小文が載せられています。
 東京の落語家にしては珍しく、志ん朝師匠は大阪のお客さんにも受け入れられていました。それは、志ん朝師匠が心底大阪を愛していたからでした。その故のひとつが、六代目笑福亭松鶴師匠の存在だったそうです。

(p182より引用) 仁鶴やんもあたしもそうだけど、お互いに尊敬していた六代目(笑福亭松鶴)って師匠がいて、で、この人のことを思って、で、来てて、で、お客さんもそうやって聴いてくれるようになって、自分としては嬉しいですよ。

 東京の落語家で近年の名人上手といえば、やはりこの三代目古今亭志ん朝師匠は外せません。志ん朝師匠のこざっぱりとした芸、特にこの人の演じる「若旦那」は見事ですね。

 最後に本書の印象ですが、とても丁寧にそれぞれの名人上手の芸を分析・説明してくれています。著者は本当に「四天王」が好きだったのだろうと思います。その私淑の想いが十分に感じられる内容でした。


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新・堕落論―我欲と天罰 (石原 慎太郎)

2011-11-23 09:07:32 | 本と雑誌

World_war_2  この前、エンゲルスの「空想より科学へ―社会主義の発展」を読んだかと思うと、今度は石原慎太郎。いかに私の読書が濫読かということを端的に表していますね。我ながら節操のなさにあきれます。

 石原慎太郎氏は、私情では共感できるところの少ない政治家ですが、とはいえ氏の著作は真っ向から読んだことがありませんでした。本書も「食わず嫌いを無くす」との心がけの一環として手にとってみました。

 まず、石原氏は「一章 平和の毒」において、氏が感じている現今の日本人の劣化(堕落)をいくつもの憂いの実例を挙げて指摘していきます。

(p38より引用) 坂口安吾がかつて、当時の世相の変化を踏まえて書いた「堕落論」には、「世相が変わったので人間が変わったのではない」とあったが、今の日本の変化にそれが当てはまるものではとてもない。敗戦から六十五年の歳月を経て、この国では人間そのものの変質が露呈してきています。これは恐らく他の先進国にも途上国にも見られぬ現象に違いない。

 石原氏はこの「日本人の本質の堕落」の要因について、以下のように続けます。

(p46より引用) 要するに戦勝国アメリカの統治下、あてがい扶持の憲法に表象されたいたずらな権利の主張と国防を含めた責任の放棄という悪しき傾向が、教育の歪みに加速され国民の自我を野放図に育てて弱劣化し、その自我が肉親といえども人間相互の関わりを損ない孤絶化した結果に他なるまい。

 このあたりになると、憲法・国防・教育といった政治色・思想色の強いう要素が列挙されており、石原氏の主義・思想・価値観が色濃く反映された論旨に移っていきます。

 本章で石原氏が採り上げた主題のひとつは「国防」でありその手段たる「核武装」です。
 石原氏は、米国依存の国防意識に大きな危惧と不満を抱いています。

 日米安全保障条約に基づき、有事の際には米国が日本を守ってくれると信じている国民は必ずしも多数派ではないでしょう。むしろ問題設定は、その現実を踏まえ日本として独立不羈の途を歩むとした時、核武装・再軍備で対処しようとするのが、非核・非軍事的アクションに拠ろうとするのかという点にあると思います。本文中、軍備増強・核保有等を主張するときの石原氏の口調には自己陶酔しているかの印象を抱きます。

(p99より引用) 日本の核保有に関してはさまざまな論が噴出しましょう。しかし核に関する道義論は別にして、あくまで毀損されつつある国益の損得、国益を墨守する視点から改めて考えてみるべきです。

 こういった議論の際しばしばこの手の論者が使う「国益」という言葉が叫ばれるたびに、著作「人間と国家」にて、その実体は何なのかと「国益のフィクション性」を指摘した坂本義和氏の主張を思い起こし対比・熟考せざるを得ません。

 さて、本書を通読して、後半の良心とか良識といった「人としてのあり方」に関するくだりには共感するところがあるものの、私自身、石原氏の政治的思想に関する主張に対しては基本的に与するものではありません。しかしながら、石原氏に、今の政界・経済界そして社会的な「空気」に欠けている一種のパワーを感じるのも事実です。
 石原氏の言動・主張に対する諸々の好悪やその当否はともかく「自らの信念」を持ち、それをどんな相手であろうと「堂々と主張」し、言行一致で「実行」するという姿勢は、普遍的に正しいものでしょう。

 ただ、重要なのは、その「内容」です。その内容を誤ると、日本も含めかつていくつかの国々で現出した悲劇に再び陥ることになってしまいます。

(p218より引用) 我欲を堪えて抑制することで初めて、個々人の人生はしなやかでしたたかなものになっていくし、それが国家を支えるよすがにもなるのです。

 この巻末の言葉に垣間見ることのできる、人は国家を支えるもの、すなわち、人は国家存続の手段であるかのような国家至上思想には、私は断固反対です。


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科学的社会主義 (空想より科学へ―社会主義の発展(フリードリッヒ・エンゲルス))

2011-11-20 09:30:51 | 本と雑誌

Karl_marx  本書の第二章「ニ 弁証法的唯物論」では、まず従来の形而上学的思考と弁証法的思考を対比して論を進めます。

 エンゲルスの立論によると、形而上学的な思考においては、事物を個々独立の固定的対象ととらえ、それゆえに、対立物の矛盾は絶対的なものと考えるのだといいます。しかしながら弁証法的思考においてはそうではありません。

(p55より引用) 肯定と否定というような対立の両極は、対立していると同時に相互に不可分である、また、どんなに対立していても対立物は相互に滲透しあうものである

 あらゆる事象は動きの中にあるという世界観です。その点でエンゲルスは、ヘーゲルの観念論の限界を指摘します。

(p58より引用) 彼にとっては彼の頭のなかの思想は現実の事物や過程を抽象してできる模写ではなかった、それとは反対に、事物とその発展とは、世界そのもの以前にどこかにあらかじめ存在している「理念」が模写として現われているものと考えた。

 一般に、ヘーゲルはドイツ観念論哲学の完成者として位置づけられていますが、エンゲルスはそう考えていません。

(p59より引用) ヘーゲルの体系そのものはついに巨大な流産であった。・・・自然と歴史の認識の一切を包括するところの永久に完成した体系などいうものは、そもそも弁証法的思惟の基本原則とは両立しない

 人間の歴史はひとつの発展過程であるとしながら、自らの思想体系を絶対的真理だとしたのは、致命的な矛盾だと指摘したのです。

 そして最終章「三 資本主義の発展」では、弁証法的唯物史観から資本主義を論じます。
 唯物史観の命題は「生産と生産物の交換が一切の社会制度の基礎」だというものです。

(p65より引用) 一切の社会的変化と政治的変革の窮極原因は、これを人間の頭のなかに、永遠の真理や正義に対するその理解の進歩に求むべきものではなくて、生産と交換の方法の変化のうちに求むべきものである、哲学のうちに求むべきものではなくて、それぞれの時代の経済のうちに求むべきものである。

 「生産」と「市場(交換の方法)」の無政府性という資本主義の進展は、生産力の絶え間ない拡大をもたらし、生産過多、市場の未消化、恐慌を引き起こす必然に帰結します。エンゲルスは、この解決方法として「計画生産」たる科学的社会主義があると主張してこの章を終えるのです。
 もちろん、現在、結果論的に振り返ると、この計画経済の機能不全は歴史の証明しているところです。また、この社会主義が最終形だとすると、本書自身第二章においてヘーゲル哲学を批判した弁証法的立場からの矛盾が、自説にも降りかかってくるように思います。が、ともかく、このパンフレットが出版された当時、19世紀末においては、ひとつの経済思想の潮流となっていました。

 最後に本書を読んで思うところですが、その論旨の正否・適否はともかく、こういった形式論理的な媒体が広く労働者層においても読まれたという事実を鑑みると、現代社会における自省の要を感じざるを得ません。


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空想的社会主義 (空想より科学へ―社会主義の発展(フリードリッヒ・エンゲルス))

2011-11-18 23:00:43 | 本と雑誌

Engels1862  先に読んだ「人間と国家」という本の中で、著者の坂本義和氏が影響を受けた本として紹介されていたので興味をもって読んでみました。社会主義関係の本はまず手にとったことはありません。もちろんエンゲルスの著作も初めてです。

 さて、本書ですが、エンゲルスが、マルクス理論を批判するデューリングへの反論として著した論文「反デューリング論」のエッセンスを労働者向けのパンフレットに取りまとめたものとのこと。エンゲルスの著作としてはとても分りやすいものらしいのですが、これが(予想どおり)なかなかの難物でした。

 私自身、社会主義思想についての基礎知識がほとんどないこともあり、到底、本書でのエンゲルスの主張が理解できたとは言い難いのですが、関心をもった部分を覚えに書き留めておきます。

 まずは、「一 空想的社会主義」の章から、エンゲルスによる空想的社会主義の議論状況の評価が垣間見られる記述です。

(p48より引用) これら空想家の考え方は19世紀の社会主義思想を久しいあいだ支配し、部分的には今もなお支配している。・・・彼ら全てにとって、社会主義とは絶対的真理、理性と正義の表現であって、それを発見しさえすれば、社会主義はそれ自身の力によって世界を征服するものである、そしてまた、絶対的真理というものは、時間や空間はもとより人間の歴史的発展とも無関係なものであるから、それがいつどこで発見されるかは単なる偶然である。さればこそ、絶対的真理や理性や正義は、各派の提唱者によってそれぞれにちがっている、・・・従ってまた絶対的真理と絶対的真理とのこの争もまた互いに排斥しあう以外に、解決法はない。

 フランス革命以降の啓蒙思想の流れを引くサン=シモン、フーリエ、ロバート・オーウェン等の思想は、理念の絶対性を重視するあまり個々独立で排他的なものでした。それ故に、先人の思索に自己の思想を重ねるという歴史の堆積による進歩が見られないとの指摘です。
 この流れから、本書の次章以降において、弁証法的史観が優位性をもって登場してきます。

 さて、本書ですが、全体では150ページ程度、そのうち本編は60ページ強です。
 初版はフランス語で書かれていましたが、その後、ドイツ語・英語、さらにイタリア語・ロシア語・デンマーク語・スペイン語・オランダ語・・・、もちろん日本語と、数多くの翻訳版が出ており、訳者大内兵衛氏によると、その発行部数は社会主義関係の文献としては断然一位とのことです。
 本書には、それらの各国の版から、フランス語版・ドイツ語版・英語版の序文も採録されています。中でも、英語版の序文は、30ページ強のボリュームがあり、エンゲルスの「史的唯物論」の概論の体です。
 その説明は哲学的というよりも歴史的な内容で、せめて高校時代の世界史の知識が残っていれば、もう少し理解できたのではと思います。まあ、高校生のころは、エンゲルスを読もうとは思わなかったのですが・・・。知識レベルと興味との時期のアンマッチが残念です。


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「時間」の作法 (林 望)

2011-11-16 22:36:29 | 本と雑誌

Clepsydradiagramfancy  タイトルがちょっと気になったので手に取った本です。

 林望さんの著作はエッセイや小説など何冊か読んでいますが、今回のものは、文学的な風情を感じる余韻が少ないですね。正直な言い方が許されるならば、こういった趣きのエッセイなら、あえて林望さんのものを選ぶこともなかったように思います。

 今回の著作で、私としてはちょっと意外に感じたのが、林望流「時間節約方法」を紹介している「第7章 「一日」の中で時間節約を重ねる―“時間の見える化”と“家事の短縮”」でのこのくだりでした。

(p126より引用) 人によっては、お茶を飲むのでもゆっくり飲む人がいる。・・・
 そんなもの、パッとつかんで、パッと飲めば、1秒ですむわけです。
 ご飯を食べるとか、お茶を飲むとか、そういうことはさっさとやる。何の生産性もないことに、時間がどんどん過ぎていくという、これほど不愉快なことはありませんからね。

 「生産性」をどういう時間的スパンの中で考えるか、24時間365日、一時たりとも「生産性」を追求し通すのか、それでは、睡眠時間も無駄ということになってしまいます。睡眠は必要不可欠のものであり活力の源です。「生産性」という指標でその効果を計るべきものではありません。

 人間生活には、緊張と弛緩の双方が必要だと思います。ゆったりとした時間の中で楽しむ豊かな食事は、とても素晴らしいものです。「生産性」の定義にもよりますが、それが、「効用/時間」であるならば、「心の充足感・満足感」は、分母を大きくするための非常に重要な変数だと思うのです。

 本書で記されている「リンボウ流の勧め」は、残念ながらほとんど私には響きませんでした。
 

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ウルトラマンになった男 (古谷 敏)

2011-11-13 10:18:31 | 本と雑誌

Ultra_man  いつも行っている図書館の返却棚にあった本です。
 私は、まさに「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」の世代なので、タイトルを見た瞬間に手を出していました。

 著者は、初代ウルトラマンを演じた古谷敏さんです。私にとってのTV番組のルーツでもある「ウルトラマン」の製作にまつわるエピソードがそれこそ山のように紹介されています。

 古谷さんは東宝ニューフェースに合格した俳優の卵で大部屋俳優。その古谷さんは、1966年2月、特撮美術デザイナーの成田亨氏にこう言って口説かれました。

(p30より引用) 「このヒーローは、ビンさんのためにあるんだよ。・・・ビンさん、ただ背が高いだけじゃ、だめなんだよ。手の長さ、脚の長さ、頭の小ささ・・・、全体のバランスのいい人は、なかなかいないんだよ。それに中に入って演技ができないとダメなんだよ。ビンさんがやったら、きっとかっこいいウルトラマンができるんだよ。・・・隊員役は誰でもできるんだよ。でもウルトラマンは、古谷敏にしかできないんだよ

 しかし、ゴムの着ぐるみを着てのアクションはそれは大変だったとのこと、ゴジラ俳優として有名な中島春雄さんとの絡みは特に激しいものだったそうです。ちなみにゴジラを流用したことで有名なジラース(第10話「謎の恐竜基地」)は、やはり中島さんが演じていました。

 また、こんなくだりもありました。

(p130より引用) 「金城さん、最近怪獣を殺すの、嫌になってきました。・・・たまには殺さないで、宇宙に帰してやりたい。金城さん、そんなやさしいウルトラマンがいてもいいじゃないですか

 そして、制作されたのが、第30話「まぼろしの雪山」や第35話「怪獣墓場」でした。私にとっても、ウーシーボーズは、今でも強く記憶に残っている怪獣です。

 この古谷敏さん、次のウルトラシリーズである「ウルトラセブン」では、念願かなってクールな知性派「アマギ隊員」役で登場しています。こういう配役の妙もいいものです。しかし、決して演技が上手いとはいえなかったですね、ただ実直さ優しさには溢れていた印象があります。

 本書もそうです。それこそたくさんの苦労をされたのでしょうが、それを過度に飾るのではなく、さらりと軽く書き流しながら、それでいて周りの人たちへの感謝の気持ちが十分に伝わってくる語り口でした。

 しばらくの空白期間を置きながらも、桜井浩子さん(ウルトラマン 科学特捜隊のフジ・アキコ隊員役)やひし美ゆり子さん(ウルトラセブン ウルトラ警備隊の友里アンヌ隊員役)らとの交流が今に続いているのも、当時のメンバのチームワークの良さと古谷さんの人柄によるところなのでしょう。
 ちなみに、この本をきっかけに、ひし美ゆり子さんのブログ(あれから40年…アンヌのひとりごと)を見たのですが、失礼ながら60歳代半ばとは信じられない若々しさで驚きました。


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とんでもなく役に立つ数学 (西成 活裕)

2011-11-11 23:01:47 | 本と雑誌

Jyutai  著者の西成活裕氏は数理物理学者。「渋滞学」で有名になり、最近はマスコミへの登場の機会も増えていますね。

 西成氏の著作は以前「クルマの渋滞 アリの行列」という本を読んだことがあります。そこでは、「自己駆動粒子」というコンセプトを用いて渋滞発生のメカニズムを紹介していました。

 本書は、その西成氏が現役高校生を相手に、身近な課題を解決するための「数学的思考方法」を解説したものです。
 登場する方法は、三角関数といった私でも知っている初歩的なものから、微分方程式、さらには「ソリトン理論」とかいう(私のつたない数学的知識では)まったく理解不能なものまで並びます。

 その中で、私にも馴染みのあるものに「ゲーム理論」がありました。これは「囚人のジレンマ」に代表されるような人間関係を数学的に分析する考え方ですが、著者によると、この応用範囲は身近なところにも及ぶとのこと。たとえば、こんな例です。

(p114より引用) 「他人に思いやりを」という、道徳の世界で言われるようなことが、「ゆずり合ったほうが、社会全体がトクをする」と、数学で証明できる。

 著者の得意な「渋滞」等の現象に見られる集団行動においても、そういう結論に至るといいます。

 さて、この「渋滞学」でも活用されている考え方が「セルオートマトン(cellular automaton)」というものです。

(p165より引用) セルオートマトンは、「0と1」とそれを変化させる「ルール」を使って世の中の現象を0と1の動きで表現する数学で、フォン=ノイマンが1950年代に考案しました。・・・
 ルールを変えるだけでどんな現象にも対応できるので、複雑な現象のシミュレーションに向いている。・・・

 この考え方は、水や空気の動きをシミュレーションすることにも用いられますが、最近では、複数の飛行機の航路設計や携帯電話の基地局設置の検討にも応用されているそうです。
 シンプルなコンセプトですが、とても興味深いですね。

 本書では、こういった直観的な数学的発想とその応用例が、高校生レベルの数学知識を前提とした4回の講義という形式で紹介されています。
 「数学」というと、私などは、論理的で極めて緻密・厳密なものという印象を抱いてしまいますが、確かに、遥か昔を思い起こしてみると、その解法に至る過程では俯瞰的な視点や飛躍した発想が有益だった記憶もあります。

(p267より引用) 厳密さといい加減さの両方がわかる、人間臭い数学ができる人こそが、今の社会に本当に求められている人物だと思います。

 著者自らのことを意識したものでもあるのでしょうが、将来ある高校生(読者)たちに贈る「あとがき」の中の著者のメッセージです。


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方丈記 (鴨 長明)

2011-11-09 22:42:02 | 本と雑誌

Shimogamo_jinja_no_torii  食わず嫌いという点では、日本の古典もあまり読んでいないジャンルです。
 今回は鎌倉期の随筆、鴨長明の「方丈記」。岩波文庫で薄かったので手にとってみました。現代語訳はついていないのですが、和漢混淆文である上に注釈も適切だったので、私レベルでも何とか(最低限の)意味はとれたかなという感じです。
 しかしながら、この歳になって、これほど有名な作品も通読したことがないというのは恥ずかしい限りです・・・。

 冒頭はもちろんこの有名なくだりから。

(p9より引用) ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし。

 本書は言うまでもなく「無常」をテーマにした自伝的随筆ですが、その半ばは、鎌倉期の都にて、長明が実体験した大火・竜巻等々の天変地異についての記述が続きます。
 その度重なる災厄の中での人の情をとらまえた視点、治承5年(養和元年・1181年)、都が大飢饉に襲われた際の記述です。

(p20より引用) さりがたき妻、をとこもちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子のあるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。

 このころ都は大地震にも見舞われました。元暦2年(1185年)7月のことです。

(p22より引用) そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にただよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。・・・地の動き、家の破るる音、雷にことならず。家の内にをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。・・・おおかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。

 「海は傾きて陸地をひたせり。」、簡潔ではありますが、風景が浮かびます。まさに今回の東日本大震災を思い起こす描写ですね。

 方丈記での長明の筆は、こういった当時の災厄の述懐のあと、自分自身の隠遁生活での思いの吐露に移っていきます。
 長明54歳のころ、本書のタイトルでもある「方丈」の庵を結びました。

(p34より引用)おほかた、この所に住みはじめし時は、あからさまと思ひしかども、いますでに五年を経たり。・・・たびたび炎上にほろびたる家、又いくそばくぞ。ただ仮の庵のみ、のどけくして恐れなし。程狭しといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身を宿すに不足なし。

 さて、この方丈記、本文だけだと文庫本で30ページほどの小品です。解説や注釈によると、その中に古今の古典・漢詩・和歌等に由来する表現が数多く散りばめられているとのこと。ただこのあたり、当然のことながら私のような薄学では思いも至らず、作品の理解という点では全く不十分、その楽しみも半減以下という体たらく。何ともはや情けなく、また残念でもあります。


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随感録 (A. ショーペンハウアー)

2011-11-06 09:29:29 | 本と雑誌

Schopenhauer  ショウペンハウエルの著作は、以前、「読書について」「知性について」あたりを読んだことがあるのですが、本書はショウペンハウエルのいくつもの随筆を採録したのものです。

 まずは、初章「判断、批評、喝采ならびに名声について」から、いかにもショウペンハウエルらしい語り口の一節です。

(p10より引用) 精神的功績にとって不都合なことは、自分はつまらぬものしか生みだせないような連中が、その美点をほめてくれるまで待たねばならぬということだ。・・・カントの厳粛な哲学は、フィヒテのあからさまなほら、シェリングの折衷主義、ヤコービのいやらしいほど甘ったるい神がかったおしゃべりに押しのけられ、ついにはまったく憐れむべき山師のヘーゲルまでが、カントと同列に、いなカント以上に持ちあげられるしまつになったのだ。・・・

 ショウペンハウエルに言わせると、カントは偉人・哲人であり、ヘーゲルは似非哲学者となります。優れた先人の後に登場する数多くの模倣者を持て囃す「大衆の評価眼」への批判であり、さらに、この主張は、同時代の傑出した業績をその時期に見出せない「大衆の判断力の無さ」の指摘に繋がっていきます。

(p16より引用) こうした嘆かわしい判断力の欠如は、どの世紀においても、まえの時代のすぐれた者は尊敬を受けるが、自分の時代に傑出している者は見誤られるということにも示されている。・・・自分自身の時代にあらわれてきた真の功績を認めることが大衆にとって非常にむずかしいということを証明するのは、だいたいとうの昔に承認されているような天才の仕事にしても、大衆は権威にもとづいて尊敬はするものの、理解することも享受することもできず、ほんとうに評価する力をもっていないという事実である。

 続いて、第三章「自分で考えること」から、定番の「読書」についてのショウペンハウエル節です。

(p67より引用) 読書とは、自分の頭でなく、他人の頭で考えることだ。たえず本ばかり読んでいれば、他人の思想が強烈に流れこんでくる。ところで自分で考えることにとって、これほど有害なことはない。

 この点は「読書について」でも声高に指摘されていたことで、私も常に心しなくてはならないと自戒しているところです。そして、さらに、こう続けます。

(p70より引用) だからこそ読みすぎてはいけないのである。なぜなら、精神が代用品に慣れて、考えること自体を忘れては話にならないからだ。・・・いちばんいけないのは、本を読むことに気をとられて現実の世界を見落とすことだ。というのは、現実を見ることは、読書などと比較にならぬくらい、自分で考える機縁と気分とを与えてくれるからだ。具象的に実在するものは根源的な力をもっていて、思索する精神にとって自然な対象であり、きわめてたやすく精神を深くかきたてることができるのである。

 「現実に拠ること」「自分の頭で考えること」、これらが重要であることは極めて当然なのですが、実社会においては、それらを忘れた「似非」なるものが「真実」のものを駆逐することもある、そういう不満がショウペンハウエルの著作には通底しているように思います。

 ショウペンハウエルの言葉は辛辣でシニカルなものいう印象がありますが、必ずしもそうではありません。特定の思想・人物には厳しい口調も、当然の示唆の語りはとても論理的で分かり易いものです。
 たとえば、第五章「読書と書物について」の中のこういうフレーズです。

(p167より引用) 「反復は学問の母である」と言われる。すべて重要な書物は何によらず、すぐ二度読むべきだ。それは、二度目にはその問題の関連がいっそうよく把握されるし、おしまいの結論がわかっているため最初の部分がいよいよ正しく理解できるからである。さらにまた、二度目にはどの個所に対しても最初の時とは違った気分で臨むことになるから、印象も違ってきて、同じ対象を違った照明で見るようなぐあいになるからだ。

 また、第九章「教育について」では、子供の教育方法・順序についてこう諭しています。

(p273より引用) 一般に子供たちが人生を知るにあたっては、どういう点についても、原典よりさきに写しから知るようなことになってはいけない。・・・とりわけ注意すべきことは、現実を純粋に把握するように彼らを導いてやること、その概念をつねに現実の世界から直接汲みとり、現実に従って概念をつくりあげるような心構えをもたせることである。

 概念が先だと、それが先入見になって他人の尺度で物事を考えるようになってしまうとの指摘です。「読書」に対する否定的な見方とともに、ショウペンハウエルの「自らの頭で考える姿勢」へのこだわりが顕示された主張ですね。

 
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源流 (人間と国家―ある政治学徒の回想(下)(坂本 義和))

2011-11-04 22:35:30 | 本と雑誌

United_nations_hq__new_york_city  さて、少年時代から現在に至るまでの坂本氏の半生を顧みたあと、本書下巻の後半「第15章 日本社会への訴え」の章では、坂本氏の政治的思想の底を貫く流れの源を確認することができます。

 たとえば、坂本氏の考える「理想主義」について。対立概念である「現実主義」と対比してこう説いています。

(p193より引用) 「現実主義」は、国家という抽象的な実体の視点に立つのに対して、「理想主義」は、身体を持った市民の視点で「最悪事態」を具体的にとらえるのです。原爆を高空から投下して相手国を降伏させるのを「現実主義」は排除しませんが、市民つまり被爆者の立場に立つ「理想主義」は、戦争の「現実」を、自分が焼き殺される立場で見て抗議の声をあげ、平和を追求するのです。ですから私は「ヒロシマ・リアリズム」「オキナワ・リアリズム」という言葉を使ってきました。

 現実主義者といわれる論者は、しばしば「国益」を論拠とします。坂本氏は、この「国益」の実体は何かを問います。

(p195より引用) 「現実主義者」も「理想主義者」も、国際紛争解決の手段として「外交」の重要性を認めます。しかし、前者は、「国益」という、誰の利益か曖昧にされたフィクションを目的として掲げる外交を指すのに対して、後者は、具体的な市民の利益である「民益」の擁護を目的とします。そして「民益」を定義するルールが民主主義です。

  「国益」の定義は、語る人の規定によるいわば主観的なものだとの論です。その意味では、「国益」とは、誰かの頭の中に作られたフィクションだというのです。
 これに対しては、「民主主義のルールに則って選ばれた政治家」のいう「国益」は、民意を反映したものであり恣意的ではないとの反論が聞こえそうです。しかし、私は、「政治家」というフィルタが介在し「国」という言葉を使った瞬間に、人間ひとり一人の顔が消えてしまうような気がします。そこに、擁護すべき客体のすり替えが起こる隙が生じるのだと思います。

 現実主義の代表的論客であった高坂正堯氏との面談後の言葉は象徴的です。

(p192より引用) 話していて、この人は「戦争の傷」を骨身にしみて経験していないという印象を禁じえませんでした。

 坂本氏にとって「理想の追求」はまさに「現実」そのものだったのです。


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平和活動 (人間と国家―ある政治学徒の回想(下)(坂本 義和))

2011-11-02 00:05:05 | 本と雑誌

Little_boy  本書の下巻は、冒頭東大紛争との関わりを振り返ったあと、ライフワークとも言うべき「核軍縮・平和の問題」を中心とした坂本氏の現在に至るまでの幅広い活動を辿っています。

 まず、1960年代。坂本氏は多くの国際的な共同研究に参画しています。その中のひとつ「WOMP(世界秩序の構想)」に参加した際のコメントです。

 当時の政治学的な議論は、アメリカを中心として経験にもとづく「実証主義的なアプローチ」が主流でした。これに対し坂本氏は、世界が急速な構造的変動の過程にあることを踏まえ未来志向の新たな方法論が必要だと考えました。

(p73より引用) 経験的「事実」の意味を理解するためには、過去の歴史上の「事実」に引照して現代をとらえるだけでなく、未来の歴史を描き、未来を引照することによって現在の「事実」を見るという視座が必要である。そして未来は、われわれがそれをどう創るかにかかっているのだから、「科学的」認識だけでなく実践的な価値指向が不可欠だ。

 共有化された「価値観」にもとづき将来社会のTo-Be像を定め、それに向かうベクトルの中で、今の事実を意味づけるというアプローチです。「未来は自分たちが創るもの」という主体的・能動的姿勢が素晴らしいと思います。

 もうひとつ、坂本氏は、このプロジェクトに参加しての気づきとして、多元的世界における普遍的課題の再認識という点についても触れています。

(p76より引用) このプロジェクトに参加して、私が衝撃を受けたのは、私が東西対立下での課題として、「核戦争の防止と核軍縮」を、人類にとって、何よりも優先的で普遍的な課題として提起したのに対して、コタリから「核爆弾で死ぬのと、飢餓で死ぬのと、何が違うのか」と反論されたことです。

 「核」の問題は日本に「特殊」な問題意識であったという気づきは坂本氏にとっては大きな衝撃でした。

(p76より引用) 「世界」は多元的であり、優先順位は異なっても、そこに提起される問題(たとえば飢餓)は普遍性をもつのであり、排他的でない多元性という文脈の中で考えなければならない。・・・ここから私は、核兵器反対のもつ普遍的・人類的な意味に特別に敏感であること(いわゆる「核アレルギー」)こそ、戦後日本人の世界に誇るべき普遍性をもったナショナル・アイデンティティの核心にほかならないことを確信しました。

 坂本氏は、「核に対する意識」について、日本人ならではの特殊性の認識を基点に、「ナショナル・アイデンティティ」という次元での普遍的な意味づけを試みたのです。


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