OMOI-KOMI - 我流の作法 -

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インターネット的 (糸井 重里)

2015-11-22 22:41:53 | 本と雑誌

 図書館の返却棚で目に止まったので手に取った本です。

 著者は、あの糸井重里氏、元の著作は2001年の出版、もう10年以上前のものです。
 2001年といえばインターネットの急拡大からそのバブルが弾けようとしていた時期ですが、その頃、糸井氏は「インターネットの世界」をどう捉えていたのか、その後をどう見通していたのか、そこに興味を抱いて読んでみました。

 インターネットの黎明期、糸井氏は、インターネットという新しいメディアをこう意味づけていました。


(p18より引用)ぼくとしては、インターネット自体よりも、それがもたらす“インターネット的であること”に、より可能性を感じています。インターネットは人と人をつなげるだけで、それ自体が何かをつくり出すものではありませんから、豊かなものになっていくかどうかは、それを使う人が何をどう使っているかにかかっているのではないでしょうか。


 ネットベンチャーの華々しい登場といったお祭り騒ぎの中、糸井氏は、“インターネット的な人のつながり”に関心を抱いていました。マネタイズの絵が描けないままに「ほぼ日刊イトイ新聞」を発刊したのも、その関心に端を発しています。

 インターネットは、誰もが受信者となると同時に発信者にもなることのできるメディアです。そこにまさにインターネットに閉じたコミュニケーションワールドが生成されます。しかしながら、糸井氏は、その状況における課題をインターネットの外に見出しました。


(p21より引用) 「もうつながっている人」よりも、「まだつながっていない人」たちにこそ伝えなければならないし、逆にそっちにつたえられなければつまらないと、感じていたのです。
 つながっていない人に、もっと伝えたい。つながっていない人から、もっと受け取りたい。
 ・・・インターネットにつながっていない人たちと、ちょっとだけ先にインターネットにつながったぼくらがどういうふうに重なりあっていくか…そのことが大切なのだと思います。


 こういう視座にたって物事をつかむ、この感性は流石ですね。到底私にはできません・・・。

 本書では、こういったとても興味深い“糸井流思考”が随所に紹介されています。
 たとえば「ものの価値(=実力・底力)」についての考察。


(p94より引用) かつて、実力というものが「位置エネルギー」として不変のものであるかのように崇め奉られていた時代がありました。
 位置が価値であるような時代。
 老舗百貨店の包装紙に包んであればよろこばれる、といったようなことですね。


 「肩書」「看板」の類ですね。
 この「位置」にとって変わったのが「勢い」です。ベストテンとかチャートで表わされ、高速で生まれては高速で消費されていく価値です。
 こういった状況では、少数の「勢いのあるもの」に、その他大勢は覆い隠されてしまいます。トップチャートに入ったものしか人々の目に触れなくなってしまう、こういう世情に糸井氏は疑問を抱き、別の切り口で行動を起こします。


(p98より引用) こういう場合には、ぼくは「その力以下の評価をされているものを探せ!」と考えます。・・・評価する側が、勢いという不安定な評価軸だけで価値を決めているのは、文化の損失だと思うし、クリエイティブの多様性や豊かさをなくしてしまう傾向だと思うからです。


 これは、ちょっと前に流行った「ロングテール」の議論につながるものですね。まさに“インターネット的”思考スタイルだと思います。

 もうひとつ、「消費のクリエイティビティ」という考え方。
 これまでの世界は「生産」が重視され消費活動に対しイニシアティブをとっていました。消費者は、生産されたものを受けいれるか否かという受動的な立場でしかなったのです。“クリエイティブ”という言葉は、産み出される「商品」や「サービス」に冠されるものでした。


(p202より引用) これからは、もっと、使ったり楽しんだりするほうの工夫やアイデア、感覚、が大切になってきます。つまり消費のクリエイティビティが、育てられるといいなあと思うのです。


 ネット社会では、以前であれば目に留まることのなかったような多種多様な情報(製品・サービス等)を得ることができます。そして、一人ひとりが、そういった情報(材料)を、自らの「楽しみ」のためにどう使おうか(消費しようか)と知恵を絞るようになっていくというわけです。これは、インターネット社会においては、生産と消費の力関係が、大きく「消費」優位に傾いていくことも意味しています。

 とはいえ、糸井氏は、単純に“お客様は神様です”という考えには立っていません。


(p216より引用) かつて、いまは亡き三波春夫さんが“お客様は神様です”と言いましたが、これは、あの方独自の人生経験の中から出てきた非常に個人的な言葉で、それを「原則」のように言ってしまうのは無理があります。お客様が神様であるはずはありません。


 消費者=マーケットを重視することは、一部のお客様に過度に迎合することでもなければ、すべてのお客様の言い分を無批判に受け入れるでもありません。ネットを通じてより直接的に聞こえてくるお客様の声を、まずはそのまま受け取り、その声の求めているものは何か、その本質を「考える」ことが重要だとの立場です。
 そして、この「考える」という行動自体も、インターネットにより飛躍的にスピードが速まり、カバレッジが拡がり、深みが増しているのです。
 こういった“インターネット的”思考、それがまさに「消費のクリエイティビティ」の支柱なのだと思います。

 

インターネット的 PHP文庫
糸井 重里
PHP研究所
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坊っちゃん (夏目 漱石)

2015-11-08 22:04:10 | 本と雑誌

 久しぶりに海外出張に出たのですが、慌ただしくて少々疲れました。
 全く次元は違いますが、漱石も海外留学の時期、かなり精神的に厳しかったということを何となく思い出し、彼の手頃な代表作を今ごろになって手に取ってみました。思い返してみると、恥ずかしながら通読するのは初めてかもしれません。

 冒頭の一節、


(p5より引用) 親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて1週間程腰を抜かした事がある。


を読んでも、書き出しはこうだったのかと思うばかりで、全く記憶にもありません。このあたり、誰もが知る冒頭の句を持つ「我輩は猫である」や「雪国」とかとは決定的に違いますね。

 さて、この小説は漱石が英語嘱託となって愛媛県尋常中学校に赴任したときの経験を元に書かれたものだとされています。
 どこまでが、その漱石の体験を模写したものかは定かではありませんが、「坊ちゃん」では、着任早々、校長(狸)から高尚な教育論とあるべき教師の姿を説諭されます。


(p23より引用) おれは無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ来たと思った。校長の云う様にはとても出来ない。・・・旅費は足りなくっても嘘をつくよりましだと思って、到底あなたの仰ゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと云ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見ていた。


 世間ズレしていない一本気な“坊ちゃん”の性格が早速にストレートに吐露されたシーンです。

 そんな“坊ちゃん”には、唯一といっていい理解者がいました。“坊ちゃん”の家に仕えていたお手伝いの“清”です。かの地で出会う人々と比べると、“坊ちゃん”にとって、この“清”の真っ当さが直更に際立つのです。


(p49より引用) それを思うと清なんてのは見上げたものだ。教育もない身分もない婆さんだが、人間としては頗る尊い。今まではあんな世話になって別段有難いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。・・・清はおれの事を慾がなくって、真直ぐな気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢いたくなった。


 “赤シャツ”が“坊ちゃん”に対して、したり顔に世渡りの法を説いたときも、“坊ちゃん”は“清”のことを思い浮かべます。


(p68より引用) 赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大に感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツより余っ程上等だ。


 そして、結局“坊ちゃん”は1年するかしないかで、“清”のもとに戻っていくのでした。

 この小説をもって、何か高邁な論を語るのは粋ではないでしょう。まずは、単純に、“坊ちゃん”と彼を取り巻く多彩な人物との掛け合いや絡みを、その小気味のいい語り口とともに楽しむことだと思います。
 しかし、読み通して改めて、「坊ちゃん」とは、見事なタイトルをつけたものだなあと感じ入りましたね。まさに“言い得て妙”というべきです。
 

坊っちゃん (新潮文庫)
夏目 漱石
新潮社
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