OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

〈持ち場〉の希望学: 釜石と震災、もう一つの記憶 (東大社研/中村 尚史/玄田 有史)

2015-05-31 16:05:26 | 本と雑誌

 いつも行く図書館の新着図書の棚で目についたので手に取ってみました。
 以前、編者のひとり玄田有史氏の著作で「希望のつくり方」という本を読んだことがあったので興味を惹いたのです。

 本書の内容は、釜石を舞台にした東日本大震災の記憶を社会学的観点から記録したものです。

 今般の大震災で釜石も大きな被害を受けたのですが、その津波被害を少しでも抑えるのに寄与したものとして、「津波てんでんこ」という言葉が有名になりました。「てんでんこ」というのは“めいめいで”という意味で、「釜石復興まちづくり基本計画」の用語集には、


(p29より引用) 「津波のときには、自分の命は自分で守るという意識で家族がばらばらになってでも逃げることを優先する教え」


と説明されています。しかし、実際にその教えを極限状況において完遂することは難しいものでした。


(p30より引用) てんでんこ、なんて、簡単にはできないのだ。危険が迫れば、誰もが何をさておき家族を心配する。自分を最優先にすることなど、考えられない。簡単にできないからこそ、あえて「津波てんでんこ」という言葉に祈りを込めてきたのだ。


 では、どうすれば「津軽てんでんこ」を実行することができるのか、玄田氏は「日頃からの地域での信頼づくり」がキーだと語ります。
 自分が行かなくても子どもは大丈夫だ、先生を信頼しよう、まわりの人々を信頼しよう、そういう「相互の信頼関係の存在」が最大多数の安全を実現する決め手になるのだとの考えです。他者を信頼すればこそ、ひとり一人が個人としてなすべき行動をとることができる、“なるほど”と首肯できる発想ですね。

 さて、本書は「希望学」という視点から今回の東日本大震災で被災した人々の思いや行動を捉えたものですが、タイトルには「持ち場の」という枕詞がついています。
 著者は、震災が起こった直後、まさに自分がいたその場を自らの「持ち場」として行動した人々に着目し、その姿を聞き取り、記録として残しました。特に著者の目を捉えたのは、「地方公務員」の方々の献身的な姿でした。


(p108より引用) 震災復興の過程で見えてきたのは、地方公務員のすごさと限界でした。彼女/彼らは「公僕」として、自分の家族より市民を優先し、昼夜を問わず職務に邁進した。その献身的な活動に、私たちは深い感銘を受けた。それにもかかわらず、市民は不満の捌け口を行政にぶつけ、マスコミはその批判を書き立てた。


 この状況は、著者たちにとっては理不尽な理解し難いものに映りました。そこで生まれた問題意識は「公平とは何か」という視点でした。


(p109より引用) 震災後には、公平性の基準となる前提条件が刻一刻と変化した。流動的な状況のなかで、絶対的な公平性を担保することは不可能である。そのため行政は、公平性に関する一定の基準を設けた上で、その時々に最善と思われる対応をせざるを得なかった。


 「一定の基準」すなわちどこかで線引きをせざるを得ない以上、その境界付近の人々には、なぜ自分は保護・救済の対象ではないのかとの不満が生じてしまうのです。また、その施策や基準は自治体によって区々になることもあり、ますます人々の不満や不信は高まっていきます。そこに避け難い地方行政としての限界やジレンマがあるのです。


 最後に、本書を読んで改めて思うこと、それは、この未曽有の大災害が被災者の方々一人ひとりに刻み付けた心の傷の深さでした。


(p296より引用) 全壊を免れ形の残った自宅の存在と、それほど大きな身体的ダメージを受けずに避難できた自分自身を責めた。同室の「被災者」の人たちからサポートをうければうけるほど、佐伯さんの心には「申し訳ない」と感じる気持ちが大きくなり、早く避難所を出たいという気持ちがふくらんでいったという。
 佐伯さんは避難所生活への不満は口にしなかった。・・・そして、感謝すればするほど、自宅のダメージの小ささ、高齢者である「何も出来ない」自分が生きのびた事実に打ちのめされていった。


 80歳という高齢の佐伯和子さん(仮名)は、今なお、近所を散歩することすらなく暮らしているのだそうです。

 

〈持ち場〉の希望学: 釜石と震災、もう一つの記憶
東大社研,中村 尚史,玄田 有史
東京大学出版会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説日本婦道記 (山本 周五郎)

2015-05-24 10:00:12 | 本と雑誌

 会社の同僚の方のお勧めでお借りして読んでみました。
 こういう形で手に取る本は、通常の私の視野の外になるものなので、楽しみも増しますね。

 1958年出版の本ですが、タイトルの「婦道」という言葉は新鮮です。
 一つひとつの物語は、それぞれ閑かでありながらも、抑制されたサスペンスのような緊迫感があります。
 作者が舞台としている封建的な武家社会の価値観や、それに応える主人公らの心理・振る舞いには、必ずしも共感できるものではないのですが、とはいえ、時に自らを省みて心に響くくだりがあるのも事実です。


(p22より引用) あのひどく荒れた手に触れたとき、藤右衛門はまったく意外だった、皮膚の荒れたその手と、彼の印象にある妻とはどうしても似あわず、自分のまったく知らなかった一面にはじめて触れたような気持だった。


 冒頭の短編「松の花」のなかで、藤右衛門は自分の不明を恥じてこう呟きました。


(p23より引用) 「なんという迂闊なことだ。なんという愚かな眼だ。自分のすぐそばにいる妻がどんな人間であるかさえ己は知らずにいた」


 実は、私、山本周五郎氏の作品を読むのはこれが初めてでした。
 もちろん、有名な時代物の作家であり、大河ドラマ「樅ノ木は残った」や映画「赤ひげ」の原作者であることは周知のことではありますが、こうやって氏の代表作に触れてみると、その細やかな舞台描写の表現や抑揚が効いた台詞回し等々、ストーリーテラーとしての語り口の秀逸さを強く感じますね。

 今更ながらではありますが、いろいろな意味でとても新鮮なインパクトを受けた作品でした。

 

小説日本婦道記 (新潮文庫)
山本 周五郎
新潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (藻谷 浩介)

2015-05-16 09:26:35 | 本と雑誌

 話題になっている本ですね。タイトルからして耳慣れないもので、興味をそそられます。

 本書において、著者が昨今のわが国の閉塞感に満ちた社会状況を俯瞰する中で、その元凶として最も懐疑的なテーゼとして捉えているのが「マネー資本主義」です。


(p280より引用) 瞬間的な利益を確保するためだけの刹那的な行動に走ってしまって重要な問題は先送りにしてしまうという、マネー資本主義に染まった人間共通の病理がある。目先の「景気回復」という旗印の下で、いずれ誰か払わねばならない国債の残高を延々積み上げてしまうというような、極めて短期的な利害だけで条件反射のように動く社会を、マネー資本主義は作ってしまった。


 この近年来先進諸国を中心とした世界の経済政策をリードしその破綻により大きな経済危機を招いた「マネー資本主義」のアンチテーゼとして提起された考え方が、本書のテーマである「里山資本主義」です。

 「金(かね)」に頼らない経済、その具体例として、最初に紹介されているのは、岡山県真庭市で製材業を営んでいる銘建工業中島浩一郎社長の取り組みです。
 1997年、中島社長は自社の製材所内に“ある発電施設”を建設していました。製材所の木くずを利用した「木質バイオマス発電」です。その発電施設の成果には非常に大きなものがありました。製材所の電力を100%賄ったに止まらず、さらに余った電力を売電したうえ木くずの廃棄費用もなくなり年間4億円の利益増を実現、傾きかけていた銘建工業の経営再建を見事に果たしたのです。


(p32より引用) 農林水産業の再生策を語ると、決まって「売れる商品作りをしろ」と言われる。付加価値の高い野菜を作って、高く売ることを求められる。もしくは大規模化をして、より効率よく、大量に生産することを求められる。
 そこから発想を転換すべきなのだ。これまで捨てられていたものを利用する。不必要な経費、つまりマイナスをプラスに変えることによる再建策もある。それが中島さん流の、経営立て直し術だったのだ。


 もうひとつ、「金(かね)」の介在を極小化させた「牛乳生産」に取り組んでいる州濱正明さん
 州濱さんは島根県の山間の耕作放棄地で酪農を営んでいます。耕作放棄地の利用ですから、土地代はほとんどかかりません。また、飼料も飼料会社から購入したものではなく、あるがままのものです。州濱さんの乳牛は自然に生える多種多様な草を食べて育ちます。それ故、洲濱さんが生産する牛乳は日によって味が異なります。「品質を一定に保つことが市場競争力の源泉」と考えられている「工業製品的発想の酪農品」とは全く異質の考え方です。


(p191より引用) そうなのだ、私たちは「均質なものをたくさん」以外の価値観も持ち合わせている。ワインなどの世界では、他にない特徴を持つものが少量あることに価値を置く。・・・晴れた日、草原を突っ切り、森に入ってクマザサをおなかいっぱい食べる牛の乳。草はらにハーブがはえる季節、ほのかにいい香りのする牛乳。
 確かに、その方が自然放牧ならではの「ストーリー」を語ることができる。聞いているだけで、わくわくしてくる。


 従来は、こういった「個性」が、競争力の源泉として唱えられていた「差別化」そのものであったはずです。こういった洲濱さんの取り組みは、決して「常識破り」などではなく、むしろ「マーケティングの王道」への回帰なのだと思います。

 こういった実例が示す「里山資本主義」という考え方(=生き方)は、今の社会構造の全否定ではありません。誰でもが取り掛かることができる“現実的”な提案です。


(p121より引用) 「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方だ。


 今の社会を構築している基本的な経済システムの“セーフティネット”として位置づけているのです。
 著者は、これら日本の中国地方の実例、欧州のオーストリアの取り組みから、こう語っています。


(p121より引用) 庄原の和田さんも言っている。「お金で買えるものは買えばいい、だがお金で買えんものも大事だ」と。・・・オーストリアの例のように、森や人間関係といったお金で買えない資産に、最新のテクノロジーを加えて活用することで、マネーだけが頼りの暮らしよりも、はるかに安心で安全で底堅い未来が出現するのだ。


 自らの考え方や行動をちょっと転換するだけで、今の生活で感じている「不安」「不満」「不信」と訣別した生き方ができるんだと、多くの胎動の実例を挙げて訴えているのです。

 

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)
藻谷 浩介,NHK広島取材班
角川書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手にした人だけが次の時代に行ける黄金のボタン (小楠 健志)

2015-05-09 09:05:21 | 本と雑誌

 自分の興味を惹いた本だけ読んでいると、当然偏りが出てきます。
 もちろん好きでもない本を読むのは苦痛以外の何物でもないのですが、とはいえ少しでも手に取る本の幅を広げる方法のひとつが、外から与えられた本を読んでみるというやり方ですね。
 そういう意味では、本書は「黒船」、レビュープラスというブックレビューサイトから献本していただいたので読んでみたものです。

 内容は、ちょっと変わった経歴の著者が、交通事故専門の治療院を開院し発展させた起業ストーリーです。

 もともと著者はプロの格闘家でした。その後、サラリーマン生活を経て格闘技ジムを開設、その流れで整骨院を開きました。「治療家」としての技術を磨き、その後「交通事故治療」にフォーカスする等マーケティング活動にも力を入れ、それなりに患者数を伸ばしました。しかしながら、そうやって増えた患者も結局はレントゲン設備等が備わった病院に行ってしまう、著者は、自分の力の限界を感じたと言います。

 大きな壁にぶつかった著者は、患者の悩みを聞いていくうちに、自分自身の活動に「大義」を見出します。


(p47より引用) 腰痛や肩こりの治療のように個人が抱える「主観的」な悩みとは違い、加害者も被害者も関係してくる交通事故治療は、「社会的」に解決が求められている「公的な」悩みでもあるのだと感じました。・・・
 その瞬間、私の中で「大義」の意識が生まれ、新たなスイッチが入ったのです。


 本書は、スマートなマーケティング理論の著作ではありませんし、大仰な経営思想の書でもありません。整骨院を開き、試行錯誤の結果大きなビジネスに花開かせた著者の体験を記したものです。自らが体得したビジネスの要諦だけに、リアリティと親近感を抱くことができます。

 たとえば、会員組織として「ジコサポ日本」を立ち上げた当初、ネットからの資料請求や入会希望者の受付を試みたときの経験。


(p83より引用) 説明会の開催では、たった3回、2週間の間に40人以上もの人が入会してくれたのに、資料請求では4カ月かけてもゼロ。そこでようやく、「ああ、このやり方ではダメなんだ」と気が付きました。・・・やはり、多くの人に直接話を聞いてもらうことをやらなくては、人を動かすことなどできないのだと実感した出来事でした。


 さて、本書を読んでの感想です。
 大きな文字の薄くて軽い読み物ですが、著者にとってもこの出版は新たなチャレンジの一つだったのだろうと思います。他方、冷めた見方をすると、著者が立ち上げたビジネスモデルの啓蒙本(PR本)との色合いも感じられますね。

 

手にした人だけが次の時代に行ける黄金のボタン (ALL WIN出版)
小楠 健志
ALL WIN出版

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仕事に効く 教養としての「世界史」 (出口 治明)

2015-05-03 09:11:30 | 本と雑誌

 ちょっと話題になっている本です。以前の同僚の方のお薦めでもあったので、読んでみました。

 著者の出口治明氏は、ライフネット生命保険株式会社会長兼CEO、歴史の専門家ではありませんが、稀代の読書家としても有名な方です。

 本書は、その出口氏が、人類の長い歴史の中から10のトピックを取り上げ、現代を読み解くヒントを解説したものです。
 具体的な内容は、かなり出口氏流の解釈が開陳されていることもあり、すべてが史実であるかといえば私の知識では識別できませんが、とても刺激的な指摘のオンパレードです。

 たとえば、北宋時代に確立された「官僚制」の成立の背景には「紙」と「印刷」があったという話。官僚制を支える官吏の登用には、ご存知の「科挙」という試験が用いられていました。


(p56より引用) なぜ科挙という全国統一テストができたかといえば紙と印刷です。科挙って試験でしょう。試験をやろうと思ったら、まず何が要るかといえば参考書です。・・・10世紀の中国では、すでに紙と印刷技術が進歩して、参考書が広く国内に行き渡っていたということです。技術が、いかに制度に影響を与えるかという好例です。


 技術史と政治史のクロスオーバーですね。

 もう一つ、中国を理解するための鍵として「諸子百家」が採り上げられているくだりから。春秋戦国期、中国では多彩な思想が一気に勃興しました。著者は、この「諸子百家」が並び立つ状況をこう解釈しました。


(p105より引用) 諸子百家は必ずしも対立していたのではなく、棲み分けていたのではないか。


 「法家」の思想を奉る官僚に、その与党としての民を生み出すアジテータとしての「儒家」とそれに反抗した少数派の「墨家」。そういった図式を覚めた目で眺める「道家」という並立した俯瞰模様です。


(p106より引用) 棲み分けという考え方は重要です。儒家の中でも性善説と性悪説が対立していたと、物の本には書いてありますが、僕はこれも少し違うと考えています。・・・
 すなわち、性善説と性悪説も、儒家の中で対立していると考えるのか、あるいはそれぞれに説く相手が違ったんだ、棲み分けていたんだと考えるかで、ものの見方が変わってくる。


 この指摘はとても興味深いですね。著者は、こういった各種思想の棲み分けの賢さに、過去から現在に至る中国社会の安定性の源を認めているのです。

 そして、最後は、アメリカを世界の中でどう位置付けるかの基本的認識についてです。著者は、アメリカを世界の中では特異で例外的な国だと語っています。


(p272より引用) アメリカは、世界で一番ユニークな人工国家であると同時に、地理的条件がこれほど恵まれた国もなく、・・・それ故、アメリカは普通の国ではなく、とても変わった国だというのがむしろ世界の常識ではないでしょうか。しかし戦後の日本人は、何となくこう考えてしまう。
「アメリカはすべての規範であり、アメリカこそが普通の国である」と。


 こういったそもそもの対象に対する立ち位置の違いを意識し、それを踏まえて考え行動することは、多様な価値観を持つ人々と付き合ううえでは大変重要なことです。これは、国際社会においてもそうでしょうし、ビジネスや常日頃の人間関係においてもそうだと思います。

 さて、本書を読み通しての感想ですが、著者は本書によって、私たちに「歴史」を学ぶ姿勢を示してくれているように思いました。
 「おわりに」において、著者はこう語っています。


(p332より引用) 歴史を学ぶことが「仕事に効く」のは、仕事をしていくうえでの具体的なノウハウが得られる、といった意味ではありません。負け戦をニヤリと受け止められるような、骨太の知性を身につけてほしいという思いからでした。そのことはまた、多少の成功で舞い上がってしまうような幼さを捨ててほしいということでもありました。「自分が生まれる前のことについて無知でいることは、ずっと子どものままでいること」(キケロ)なのです。


 この考え方は、こと歴史にとどまらず、著者の「読書」一般に対する姿勢でもあります。
 

仕事に効く 教養としての「世界史」
出口 治明
祥伝社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする