いつも聴いている大竹まことさんのpodcastの番組に著者の田崎基さんがゲスト出演していて、本書についてお話ししていました。ちょうど、いつも利用している図書館の新着本リストの中で見つけたので手に取ってみました。
著者の田崎さんは神奈川新聞の報道部デスク。内容は、新聞に連続掲載した特殊詐欺の実態記事をルポルタージュとして取りまとめたものです。
本のかなりの部分は、「特殊詐欺」に関与した出し子・かけ子・受け子・主導役等犯罪当事者からの取材による実態の紹介ですが、そこで明らかにされるところは、若者が犯罪者になる入口の広さとそこから抜け出すことの困難さ、もう一つは、特殊詐欺の根本的な首謀者の秘匿性の堅牢さでした。
(p206より引用) 特別な誰かによる、特別な犯罪ではない。誰もがそうした陥穽へと落ちうる。人間関係や金銭的困窮で追い詰められ、孤独な状況であればなおさら、手元にあるスマホから手っ取り早く稼ぐ道へと誘引されやすい。特殊詐欺が絶え間なく引き起こされるのは、そうした誰もが持ちうる心情に巣食っているからなのだ。
実際に末端の詐欺行為に手を染めてしまう若者たちの姿を田崎さんはこう総括しています。
他方、本書を読んで少々残念に感じたところは、情報遮断されている上部組織、すなわち “首謀者の実態” までは暴き切れなかったところでした。もちろん、これは捜査当局ですら辿り着くのが困難なのですから、止むを得ないところでしょう。
近年「暴力団の関与」が増加しているという指摘はありましたが、海外での組織的活動の実態等も含め、今後の取材に期待したいところですね。
いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。
片岡義男さんの著作はそれほど読んでいないのですが、この歳になって、改めてちょっと気になり始めました。私よりも20歳ほど先輩ですが、独自の感性で綴り続けるエッセイには懐かしさと心地よさが同居しています。
数々の小文のなかから、私の関心を惹いたくだりをひとつ書き留めておきます。
「積み上げたCD」というエッセイ。
CDを専用棚に整理していた片岡さんですが、いつの間にかその棚の周辺にも積み重ね始めたようです。
(p185より引用) ひとつだけ褒めるとすれば、七つの棚の周辺にのみ、CDの積み重ねた山があることだ。・・・CDはCDのあるところに集まっている。どこになにがあるのか。よくわかっているんだよ、という言いかたは、要するに言いかたであり、少なくとも僕の場合は、どこになにがあるのか、まったくわからない。
積み重ねたCDの山から、ふと数枚を手に取り、一枚ずつ眺めるときの、新鮮な感慨をあなたは知らないだろう。ここにこんなものがある、ここにこんなものが買ってあるではないか、こんなものを持っていたのか、という驚きの連続は、捨てがたい。
どこまで真面目に書いているのか、人を食ったようでいて茶目っ気のある語り口は歳を重ねた片岡さんの洒落たセンスの表われでしょう。
さて、本書を読み終えたところで思うこと。
このエッセイ集は片岡さんが最近書き下ろしたものとのことですが、これを機に、片岡さんの往年の代表作にもあらためてトライしてみようかなと。
書き手も読み手もかなりの年月を経ているので、その “感性” がどの程度変容しているのか、我がことながら興味が湧きます。
かなり以前に読んだ内田康夫さんの“浅見光彦シリーズ”ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
ただ、私の出張先も以前勤務していた会社のころを含めるとそこそこの都道府県にわたるので、どうせなら “浅見光彦シリーズ”の制覇にトライしてみようと思い始ました。
この作品は「第7作目」です。舞台は “伊豆” と “大船渡”。
伊豆は、仕事関係では以前の会社のお客様ご招待イベントで何度も訪れていますし、プライベートでも家族や友人とのドライブ先として足を運んでいるので、比較的馴染みのある土地ですね。
大船渡はたぶん行ったことはないと思います。岩手県は、出張での盛岡をはじめとして、学生時代の東北旅行で浄土ヶ浜あたりまで足を延ばしたことはあります。
ネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、この作品は以前読んだことがあったかもしれません。
明らかにストーリーの記憶はあるのですが、それが本なのかテレビドラマなのかはっきり思い出せないんですね。ミステリーの仕掛けはよく出来ていると思います。
ただ、他方、二人のヒロインをはじめとして登場人物のキャラクタにはさほどの魅力は感じられませんでした。シリーズのなかでは比較的珍しいテクニカルな“構成重視”の作品でしたね。
さて、本作を皮切りに取り掛かってみた“浅見光彦シリーズ制覇チャレンジ”、それほど強い意志をもって完遂しようとも思っていませんので、まあ、“どこまで続くことやら”です。
執筆順で言えば「小樽殺人事件」ですが、出張先トリガーで既に読んでいるので、次は「高千穂伝説殺人事件」ですね。
少し前に、鴻上尚史さんによる「人間ってなんだ」というエッセイ集を読みました。
鴻上さんが20年以上にわたって「週刊SPA!」に連載していたコラムから、これはというものを選りすぐって書籍化したものですが、本書は、その流れの第2作目です。今回のテーマは「人生」です。
これまた壮大なテーマですが、鴻上さん一流の感性が数々のエピソードを通して描き出されていきます。
とても興味深いそれらの中から、最も私の印象に残ったところをひとつ書き留めておきます。
「「逃げる」という選択」という小文です。
(p158より引用) ここんとこ、僕が2006年に「いじめ」に関して書いた文章が激しくリツイートされています。もともとは朝日新聞の求めに応じて書いた文章で、「もし、あなたが今、いじめられていたら、とにかく逃げなさい」という内容です。
当時報道された「いじめ事件」を契機に、鴻上さんの高校からの友人である朝日新聞記者に頼まれて書いたものとのことです。
(p159より引用) 書いた当時は、この文章に対する反発もけっこう受けました。「戦わないで逃げてどうする」というのが典型的な反論でした。「戦うことを教えないで、逃げることを勧めるなんて無責任だ」とか「逃げているだけでは、ろくな大人になれない」なんてことも言われ ました。
でも、最近、ネットではこの文章がさかんにコピーされています。
原因は胸潰れる、上村遼太君の悲しい事件だと思います。18歳や17歳の少年達に日常的にいじめられていた13歳の上村君のようなケースで「逃げないで戦え」なんて言える大人はいないと思います。
できることは、戦うことでも無視することでもなく、ただ逃げるだけです。
真の当事者や関係者ではない人間の言ほど無責任なものはありませんが、真の当事者や関係者でなくても “その人を想い助ける言葉” を発することはできます。そして、その一言で救われることも間違いなくあるのです。
ちょっと前に沢木耕太郎さんの「飛び立つ季節:旅のつばくろ」というエッセイ集を読んだのですが、その本はシリーズ第2作目とのこと。なので、当然のごとく “第1作目” にもトライすることにしました。
テーマは同じく「国内旅」。いったい沢木さんはどこを自らの旅の始発に据えていたのか、楽しみにページをめくりました。
まずは、16歳のころの沢木さんの旅の思い出です。
国鉄の周遊券を手にした沢木さんは龍飛崎を目指して一人津軽線に乗っていました。
(p58より引用) 列車には行商のおばあさんたちが大勢乗っていた。リュックひとつで旅をしている少年の姿が珍しかったのか、盛んに話しかけてきてくれるが、何を言っているかわからない。本当にひとこともわからないのだ。そのときの津軽弁に対する「まったくわからない!」という絶望感は、のちに沖縄に行って石垣島のおばあさんたちと話したときに覚えた八重山方言に対する「まったくわからない!」という絶望感と双璧をなすものだった。
先の「飛び立つ季節 :旅のつばくろ」の感想にも書きましたが、私も高校生のころ国内ですが「鉄道+ユースホステル」の一人旅をしたことがあります。旅先で強い印象を残すのが “その土地の言葉” というのは、私の体験からいってもよくわかりますね。私の場合は、薩摩半島指宿枕崎線(鹿児島)の車内でのおばあさんどうしの会話でした。本当にひとこともわからないんですね。
ただ、長い年月を経た今回の沢木さんの龍飛崎への旅の途上での驚きは、土地の人が話す言葉が理解できたことでした。昔のように日常的に “津軽弁” を話す人が少なくなったのであれば、ちょっと淋しいことです。
そしてもうひとつ、やはり東北の旅から、沢木さんの “旅の原点” のひとつが語られたくだり。
深夜の北上駅の待合室でのエピソードです。
(p210より引用) どれくらい経っただろうか。いつの間にか眠っていたらしい。ふっと気がつくと、背後で、足音がする。しかも、こちらに近づいてくるようだ。・・・その足音は私の すぐ近くで止まった。・・・そして、しばらくすると、私の体にふわりと何かが掛けられた。
次の瞬間、心の中で、「あっ!」と声を上げそうになった。それは、私の毛布だった。その男性は、私の体から床に滑り落ちた毛布を拾い、掛け直してくれたのだ。
私は、依然として眠ったふりをしながら、その人を疑ったことを激しく恥じた……。
・・・
私は、あの十六歳のときの東北一周旅行で人からさまざまな親切を受け、それによって、旅における「性善説」の信奉者になった。
今はどうでしょう。性善であろうと性悪であろうと何か関わりを求めて行動するというより、そもそも相手になろうとしない “性無関心?” な世情のような気がします。