こういった作品では往々にして主人公の友人のキャラが結構大事に
伊藤祐靖さんの著作は、以前「国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動」という本を読んだことがあります。
今回の本は、いつもの図書館の新着書リストの中で目にとまったものです。
普段あまり気に留めていない「自衛隊」がテーマですが、先の伊藤さんの著作が結構興味深い内容だったので、こちらもちょっと期待しつつ手に取ってみました。
やはり、全く違う世界に生きてきた方の話はとても刺激になりますね。順不同ですが、私の印象に残ったくだりをいくつか書き留めておきます。
まずは、海上自衛隊幹部候補生学校で学ばされた「遵法精神」についての伊藤さんの評価です。
(p103より引用) 平時は規則に従っていれば事足りるが、非常時、有事は、そうはいかない。・・・ ゆえに、自衛官には、平時における遵法精神を徹底するよう教えると同時に、非常時、有事に法律など、何かに従っていれば訴追、糾弾されるはずがないという感性を排除しなければならない。
しかし、大変残念なことに、この自衛官として当たり前の精神構造を作ろうとせず、平時にしか通用しない思考過程を身につけさせてしまうのが、江田島伝統の教育システムなのである。
過去の組織から通底している「失敗の本質」のひとつですね。
そして、もうひとつ、イージス艦みょうこうの航海長として乗船していた時のこと。
海上警備行動が発令され、能登半島沖日本海を北上する北朝鮮不審船への立入検査実施の命令が発せられました。
(p223より引用) 繰り返すが、あの命令が間違っていたとか、取り消すように動くべきだったということではなく、いったいなぜ任務を達成できず、全滅するとわかっているのに彼らを行かすと決めたのか。その理由を確認して、彼らに伝えるべきだった。そんな当たり前のことをせずに命令に愚直に従おう、従わせようとしたのである。これは、私が一生恥じていかなければならないことだ。
自らも陥ったこのときの衝撃的な経験から、伊藤さんは「特殊部隊」設立を強く求めることとなったのです。
最後に、防衛大学校の学生に語った「離任の辞」の中の一節。
(p188より引用) 我々の職業は究極のボランティアだ。知らない奴のために自分が死ななきゃならない。人を殺さなきゃならない。敵ばかりじゃない、部下も殺さなきゃならない。「ガタガタ言わずに死んでこい」と言わなきゃならない時もある。しかも、ボランティアである以上見返りも求めてはいけない。「国民に感謝されたい」などと、せこいこと考えちゃいけねえよ。どう思われたっていいじゃないか、その人達のためになるなら。
目の前の現実を直視した伊藤さん流の「合目的的」な思考の開陳であり、“信念”の言葉です。
ちょっと前に横溝正史さんのエッセイを読んでいて、その中に松本清張さんの名前が登場していたので、久しぶりに本棚から取り出してきました。読むのは3~4回目かもしれません。
本作品は昭和32年から33年にかけて雑誌に連載されたもので、いわゆる“社会派推理小説”の先駆け的作品と言われています。横溝さんはそれより前、“怪奇的探偵小説”を世に出していたのですが、この清張さんが登場したころから日本の推理小説の潮目が変わったと感じたようです。
さて、この清張さんの代表作「点と線」ですが、改めて読み通してみると、一流のストーリーテラーとしての清張さんを印象付けた作品だと思いました。
プロットに役所の汚職事件を置いているとはいえ“社会派”というほどその内幕を抉った内容ではありません。また推理小説の謎解きとしても、移動手段の組み合わせや共犯者を使ったシンプルな“アリバイ崩し”です。とはいえ、映画やテレビドラマのように映像や役者の演技の力を使わずして「読み物」として読者を惹きつける筆力は流石です。
(p155より引用) 四分間の偶然の目撃は、もはや、偶然でなく、必然であった。安田の作った必然である。札幌駅の河西も東京駅の女中も、安田に作られた目撃者である。安田自身がこの情死事件には不在であるという証明のためにである。
札幌、東京の二つの駅でおこなわれた安田の作為の行末は、交差の点を九州博多の近郊香椎に結んでいる。すべて彼がそこにいなかった、という結像である。
ここまで考えてきて、三原は、安田辰郎がかならずそこにいたという自信を強めた。作為が加わっている以上、その結像は虚像である。実像は反対に転倒している。
やはり、時々、こういった原点に戻るのもいいですね。
(一年前に同じようなシチュエーションで読んでいました。たった一年前なのに気づかないとは・・・)
図書館で予約している本が切れたので、だいぶ以前にダウンロードしていた電子書籍のコンテンツを読むことにしました。
横溝正史さんが、自らの作品の代表的キャラクター金田一耕助をモチーフに書いたエッセイです。
こういう軽い小品も残しているんですね。もともとは、昭和51年9月から51回にわたり毎日新聞に連載された随筆を再録したものとのことです。
昭和51年と言えば私も高校生で、当時、横溝さんの小説とそれを映画化した角川作品、さらにいくつものテレビドラマにはハマっていました。
私のころの金田一耕助といえば、第一に石坂浩二さん、続いて古谷一行さんですが、初代は片岡千恵蔵さんだったんですね。その他高倉健さんや三船敏郎さんも演じたことがあるそうです。
片岡千恵蔵さんのころの金田一映画は、原作とは違う犯人に作り直していたようで、横溝さんとしては複雑な心境だったとのこと。
10年以上のブランクののち再登場した「角川映画」の金田一シリーズについての印象については、横溝さん自身、こう語っています。
(p22より引用) しかし、作者としてはこいねがわくば原作どおりにやってほしいし、せっかく作者と馴染みの濃くなっている金田一耕助のことだから、原作のイメージのままやってほしいことはいうまでもない。
その点、こんどの「犬神家の一族」に期待している。
シナリオを読んでみると、原作に非常に忠実だし、よれよれの着物によれよれの袴という石坂浩二君の金田一耕助も、いささか二枚目すぎるのを難として、原作者のイメージにわりと近いようである。私はいちど石坂金田一とロケをともにしたが、気取らないその飄々たる人柄も金田一耕助である。
「少し名探偵ぶり過ぎると、しょっちゅう監督さんに叱られてるんですよ」
と、いう石坂耕助君のことばからしても、市川崑監督の金田一耕助観がうかがわれ、その意味でもこんどの映画を楽しみにしていると、ここでちょっと提灯を持たせていただくしだいである。
そして、この石坂金田一シリーズ(1976年(昭和51年)10月「犬神家の一族」公開)は、超大ヒット作品になりました。
角川春樹さんが仕掛けた「出版と映画のコラボレーション」は、当時の社会現象として強烈なインパクトを残しましたね。