本を読むことが「とりわけ大好き」というわけではありません。日々の通勤時間、何もしないのはあまりにももったいないので「本でも読んでいる」という程度です。
特に頭が動かないとき用に、最近読んだ本で「言葉の花束」「言葉の贈物」という2冊があります。これらの本は、岩波文庫の著作の中から格言や名文を抜粋した目録のようなものです。
その中にある読書についての格言で、私としても自戒すべきと教えられたものをいくつかご紹介します。
「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。」(「読書について」(ショウペンハウエル)より引用)
確かに、読書そのものは、読んでいる人としては創造的・生産的な営みではありません。
「読書で生涯をすごし、さまざまな本から知恵をくみとった人は、旅行案内書をいく冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。」(「読書について」(ショウペンハウエル)
「わたしは書物はきらいだ。書物は知りもしないことについて語ることを教えるだけだ。」(「エミール」(ルソー)より引用)
「尽く書を信ずれば、則ち書なきに如かず。(「孟子」より引用)
「疑似体験」と「実体験」とは本質的に別物です。それを混同してしまうとまずいのですが、「疑似体験」といえども確実に視野を拡げてくれます。
「反論し論破するために読むな。信じて丸呑みするためにも読むな。話題や論題を見つけるためにも読むな。しかし、熟考し熟慮するために読むがよい。」(「ベーコン随想集」より引用)
ともかく、本を読まないと、こういう戒めにも気づかなかったのは確かです。
ただ、他方、以前にもこのBlogでご紹介しましたが、本田宗一郎氏は、読書について次のように語っています。
(「夢を力に」p234より引用) 僕は本を読むのが嫌いだ。極端な言い方をすると、本というものには過去のものしか書かれていない。僕は、本を読むとそれらにとらわれてしまって、何だか退歩するような気がして仕方がない。大体、僕の人生は、いわゆる見たり聞いたり試したりで、それを総合して、こうあるべきだということで進んできた。もし分からないことがあって、そのために本を読むんだったら、そのヒマに人に聞くことにしている。五百ページの本を読んでも、必要なのは一ページくらいだ。それを探しだすような非効率なことはしない。(1959年)