OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

読書の戒め

2005-09-30 00:03:50 | 本と雑誌

 本を読むことが「とりわけ大好き」というわけではありません。日々の通勤時間、何もしないのはあまりにももったいないので「本でも読んでいる」という程度です。

 特に頭が動かないとき用に、最近読んだ本で「言葉の花束」「言葉の贈物」という2冊があります。これらの本は、岩波文庫の著作の中から格言や名文を抜粋した目録のようなものです。

 その中にある読書についての格言で、私としても自戒すべきと教えられたものをいくつかご紹介します。

「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。」(「読書について」(ショウペンハウエル)より引用)

 確かに、読書そのものは、読んでいる人としては創造的・生産的な営みではありません。

「読書で生涯をすごし、さまざまな本から知恵をくみとった人は、旅行案内書をいく冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。」(「読書について」(ショウペンハウエル)

「わたしは書物はきらいだ。書物は知りもしないことについて語ることを教えるだけだ。」(「エミール」(ルソー)より引用)

「尽く書を信ずれば、則ち書なきに如かず。(「孟子」より引用)

  「疑似体験」と「実体験」とは本質的に別物です。それを混同してしまうとまずいのですが、「疑似体験」といえども確実に視野を拡げてくれます。

「反論し論破するために読むな。信じて丸呑みするためにも読むな。話題や論題を見つけるためにも読むな。しかし、熟考し熟慮するために読むがよい。」(「ベーコン随想集」より引用)

 ともかく、本を読まないと、こういう戒めにも気づかなかったのは確かです。

 ただ、他方、以前にもこのBlogでご紹介しましたが、本田宗一郎氏は、読書について次のように語っています。

(「夢を力に」p234より引用) 僕は本を読むのが嫌いだ。極端な言い方をすると、本というものには過去のものしか書かれていない。僕は、本を読むとそれらにとらわれてしまって、何だか退歩するような気がして仕方がない。大体、僕の人生は、いわゆる見たり聞いたり試したりで、それを総合して、こうあるべきだということで進んできた。もし分からないことがあって、そのために本を読むんだったら、そのヒマに人に聞くことにしている。五百ページの本を読んでも、必要なのは一ページくらいだ。それを探しだすような非効率なことはしない。(1959年)

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晩年に想う (2) (アインシュタイン)

2005-09-27 23:45:26 | 本と雑誌

(p302より引用) 現代は、人間の知的発展における進歩を、誇りとしています。・・・知性は、いうまでもなく強力な筋肉はもってはいますが、人格をもってはおりません。それは指導することはできず、奉仕することができるだけなのです。また知性は、指導者を選択するに当たって、けっしてより好みはしません。・・・知性は、鋭い鑑識眼をもってはいますが、目的や価値にかんしては盲目です。

 偉大な科学者は、自らの反省も込めているのでしょうか、自虐的です。「知性は人格をもっていない」ということは、知性には「良心がない」ということになってしまいます。果たしてそうでしょうか。知性(科学)の危うさです。

 知性は「人間」に宿るのですから、科学「者」には、科学の罪について、責任の一端はあるはずです。

 もちろん、強制や脅迫で自由意思が抑制されていたのであれば、残念ながら心神喪失・心神耗弱状態に等しいと言わざるを得ないのでしょう。

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試行錯誤と説明能力 (数学的思考法(芳沢 光雄))

2005-09-26 00:25:50 | 本と雑誌

(p58より引用) 数学の証明問題の前段階では試行錯誤することを学び、後段階では論理的に正確な文を書くことを学んでいる

 私は、特に高校時代は証明問題が大好きでした。文系だったので高等数学のレベルでは全然ありませんが。

 試行錯誤のフェーズが特におもしろく、
  ・過去の類似の問題からの類推(経験)や
  ・発想を変えた思いつき(気づき)
等をああでもないこうでもないと操りながら、何とか筋道を立てていくのです。

 証明問題を考えるコツは、「挟み撃ち」です。
 前提条件から結論に向けて一歩一歩先に進めるのと同時に、結果(証明すべきこと)から逆に手繰っていくのです。「こうなるためには、ここがこうなっていればいい、そのためには、これとこれの相似が言えれば・・・」という感じです。

 この「順行」と「逆行」を同時並行的にあれこれ試行錯誤しながら考えていくと結構道は開けます。

 証明を記述する場合は、まず、そうやって繋がった筋道を説明の材料ごとにブツブツと切って「モジュール化」します。
 そして、それを論理(理由)の流れに沿って、「同様にして」とか「一方」とか「したがって」とかといった証明問題ならではのつなぎ言葉を用いて、素直に並べればいいのです。

 さびしいことに、最近では、そんなテクニカルなことよりもずっと大切な「柔軟な発想」や「目から鱗の気づき」ができなくなりつつあります・・・

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プレゼンテーションとしての「君主論」

2005-09-24 01:18:51 | 本と雑誌

 「君主論」は、1515もしくは1516年、マキアヴェリが政治生活への復職の期待をこめて、フィレンツェの最高指揮官職に昇ったロレンツォ・デ・メディチに献呈したものと言われています。

 いわば、彼自身の売込み企画のプレゼンテーションツールでもあったわけです。

 そういう観点からこの「君主論」を見てみると、プレゼンテーションとして非常によくできた分かりやすい構成になっていることに気づきます。

 まずは、章ごとにテーマを分けて興味を引く簡潔な見出しをつけています。また、それぞれの章のボリュームは、読みやすいコンパクトなサイズにまとめられています。

 記述の構成は、全体構成も各章内の構成も同じく、非常に単純明快なロジカルなつくりです。

 まずは、第1章で「支配権の種類とその獲得方法」としてMECEを意識した「場合分け」がなされています。この基本的な場合分けが全編を通して貫かれています。
 そして、それに続く各章は、それぞれの場合分けのケースごとに丁寧に各論を重ねています。
 章の中の構成は、基本的には、

  • さらに細分された場合分け
  • 各場合ごとの論旨
  • 複数の具体的根拠
  • 想定される反問とその回答
  • まとめ・結論

となっています。

 具体的根拠は、現代および過去の実際の支配者たちの実証された事実をもとに示されているので、(読み手である支配者層の立場からみると)極めて納得性が得やすいものが選択されています。
 また、その列挙にあたっては、「第一に・・・」「第二に・・・」というように体系的に順序だてて整理された形で記されています。

 特に、「想定される反問とその回答」の部分は、マキアヴェリの検討があらゆる側面からなされていることの証となり、彼の主張の説得力を増すことに大きく貢献しています。

 そして、最後の章(第26章「イタリアを蛮族から解放すべし」)は、それまでの章の冷徹な分析的・論理的な書きぶりとはうって変わって、極めて扇動的・情熱的な筆致になっています。そのメリハリの利いたコントラストは非常に効果的です。献呈したロレンツォ・デ・メディチに対して熱く訴えかけ、プレゼンテーションを劇的に締めくくっています。

 「君主論」は、プレゼンテーションという視点でみても極めて面白い優れたパフォーマンスだと思います。

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プロダクトアウトの復権 -顧客ニーズが見えない時代-

2005-09-23 00:28:57 | ブログ

 物質的に充足し、しかも消費意欲が鈍っている時代に、消費者に新しいことを聞いても何も解らない。消費者は自分の頭で想像できるものには反応できるが、いままでまったくないものに関してユーザ調査しても何も得られない。
 それなら、独りよがりでもいいから「俺達が提供したい商品やサービスはこれだ!」というものを創って提示したほうが、よほど世の中に訴求することができるのではないか。

 最近、こういう提供者側からの動きが少なからず出てきたようです。
 私は結構この考え方に賛同しています。

 「顧客ニーズ」を中核に据えたマーケティングの教科書的には逆行した考え方です。が、理屈はともかく、結果的に「お客様に受け入れられる、よろこんでもらえるもの」を提供できれば、それが、「マーケット・イン」的アプローチであろうと「プロダクト・アウト」的アプローチであろうと別に構わないでしょう。

 「お客様は神様です」というのはそのとおりでしょうが、「神様」にも「いい神様」もいれば「いたずらな神様」もいるし、「悪い神様」もいます。(アフラ・マズダもいればアンラ・マンユもいるのです) 「神様」の言うことはすべて正しいというのは、あまりにも純朴すぎます。

 顧客ニーズを重視した顧客志向的な優良企業としては、花王や資生堂とかが有名ではありますが、「現実的な成果は、顧客のクレームを真摯に受け入れて商品の改良や改善につなげるといったものが大半」との話も聞こえてきます。

 どうも、「顧客の声の尊重」は、改良や改善、既存顧客の維持という点ではそれなりの効果が得られているのかもしれませんが、全く新たなマーケットを創出するような画期的なイノベーションは、(通り一遍の顧客ニーズといわれているものからは、)なかなか生まれてきていないのが現実のようです。

 このあたり、一昔前?のホンダやSONYはいい意味での「メーカとしてのプライドや自負」を持っていたように思います。

 とはいえ、顧客を無視・軽視するのは絶対に正しいアプローチではありません。
 最近は、「マーケット・イン」をさらに進めて、ひとり一人の顧客を識別し、その個々の顧客にフォーカスした「カスタマ・イン」というコンセプトが出てきています。
 このあたりについては、また別のときに触れたいと思います。

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晩年に想う (1) (アインシュタイン)

2005-09-19 00:11:41 | 本と雑誌

(p37より引用) あらゆる個人が、自らの内に潜んでいるかもしれない天与の才能を、発展させる機会をもたねばならない、ということです。このようにしてこそ初めて、個人は正当に享受すべき権利のある満足を得ることができます。またそのようにすることによってのみ、共同社会はもっとも豊かな繁栄を達成することができるのです。・・・
 我々が個人や諸集団のあいだの差異に寛大であるばかりでなく、まさにその差異を歓迎し、それを我々の生存を豊かならしめるものと見なすべきだ、・・・それが、真の寛容すべてに通じる本質です。このもっとも広い意味における寛容がなければ、真の道徳性という問題はありえません。

 差異のあることはむしろ喜ぶべきことで、積極的な意味で人間社会を豊かにするとの主張です。アインシュタインは、そういう自由・多様性への寛容を何にも増して重要だと考えていました。

 この本から私が感じたのは、アインシュタインは大きく異なる2つの生涯を過ごしたのではないかということです。
 「相対性理論の提唱に代表される科学者としての壮年期」と「世界政府設立を訴え続けた政治行動家としての晩年期」です。

 この大いなる変身の分水嶺になったのが、第二次世界大戦であり、とりわけ広島・長崎への原子爆弾の使用でした。「O weh!(ああ悲しい!)」広島に原爆が投下されたことを知ったとき、彼はそう叫んだと伝えられています。

 1945年12月「戦争には勝ったが平和はこない」と語り、「最新の原子爆弾は、広島の都市以上のものを破壊してしまった。われわれに、こびりついた時代遅れの政治観念をも、吹き飛ばしたのである。」として、終戦直後から「世界政府」設立に精力を注ぎ始めたのでした。

 「世界政府」による平和の実現というアインシュタインの主張は、当時の国際政治の現状から見るとあまりに直線的で理想的なものでした。また、「世界政府」による平和実現の具体的方策は、核保有を前提とした核抑止理論を基礎においていました。その点においては、私は彼の主張に100%同意をするものではありませんが、彼の平和を望む想いは、この上なく純粋で堅固なものであったことは間違いありません。

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必然の「ひらめき」 (数学的思考法(芳沢 光雄))

2005-09-17 23:29:26 | 本と雑誌

 以前大変お世話になった(今でもお世話になっている)方が紹介されている本なので読んでみました。

 実は、私も従来からこの手のテーマに関心をもっていたので、森毅氏の「数学的思考」という本を読もうと思っていたところだったのですが、こちらの本の方がいつも行く図書館にあったので・・・

(p58より引用)・・・「運がよかっただけです」というコメントになるのだが、実際には日頃から特段の試行錯誤をして考え抜いているからこそ、単純なミスや人との出会いという形で、小さいけれども決定的な刺激が与えられ、それが大きな発見や発明を引き起こすのであろう。何も考えずにひたすら偶然の出来事を待っていても、それが発見や発明を引き起こすことはないのは、考えてみれば当たり前のことである。

 「偶然は必然」ということです。

 自分の周りの出来事はほとんどが外発的な事象ですし、その意味では「無数の偶発事象の集合体」です。
 その無限大の刺激の中の「何に」感じるか? 感じるためには適切な「感覚器官」が無くてはなりませんし、その「機能がon」になっていなくてはなりません。

 何かの課題を抱えていてその課題の解決のために常に頭を回転させていると、指向性のある感覚機能が備わってきます。そして、その鋭敏な感覚機能が常にactiveの状態になっているので、他の人にとっては何でもない事象であっても、それを見逃さず「解決の糸口」として取り込めるのでしょう。

 さらに、そういうふうに何かの課題を考え抜いている人は、仮にそのことを考えていないときであっても、「きっかけ」を見逃さないのです。
 無意識のうちに常にアンテナが3本立っていて「感覚機能がホットスタンバイ状態になっている」のです。

 それが「ひらめき」と感じられるものの正体だと思います。

 考え抜いていないと、折角の「啓示」は声もかけず通り過ぎて行きます。

(マックス・ウェーバー「職業としての学問」より) 一般に思いつきというものは、人が精出して仕事をしているときにかぎってあらわれる。

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福翁自伝 (福沢 諭吉)

2005-09-14 23:38:51 | 本と雑誌

 福沢諭吉と言えば、100人のうち100人、人間の自由・平等・権利の尊さを説いた「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」という超有名フレーズを思い浮かべると思います。
 このフレーズで始まる「学問のすゝめ」は、諭吉が壮年期に著した十数分冊からなる著作で、一説によると340万部以上売れた当時の大ベストセラーだったようです。

 今回読んだ「福翁自伝」はその諭吉の晩年の著作(明治三十二年刊)です。日本人の自伝文学の最高峰として定評があるとのことで手にとってみました。

 私には文学的は評価は分かりませんが、確かに非常に面白い読み物でした。
 特に、末尾近くの、諭吉が度重なる官界への誘いに頑として応じなかった理由を語っているくだりは、まさに、権力の威を借り大樹に寄る者たちに対する諭吉の「独立自尊」の気概の礎が記されています。

 諭吉は、幕末から明治にかけての変動期において、その活劇中の登場人物とはならず、別の土俵に居て新しい時代を見据えるべく俯瞰的視座を保った稀有の人物でもありました。

 また、本書に書かれている挿話ですが、このブログでも紹介した勝海舟について、

(p140より引用) 勝麟太郎という人は、・・・至極船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることはできなかった・・・

との咸臨丸での渡米の際の逸話を紹介しており、当時からどうもよい印象はもっていなかったようです。(事実、後年、諭吉は「痩我慢の説」にて勝海舟と榎本武揚を厳しく批判しています)

 その他、この自伝では、長崎・大阪・渡米・渡欧時のエピソードに加え、(慶応)義塾にて日本で始めて授業料を取って教授したとか、簿記関係の用語は多くは諭吉の翻訳によるものだとか、はたまた、二本差しは早くからやめたが実は居合い抜きはかなりの腕前だった等々紹介されており、いろいろな姿の興味深い諭吉像が楽しめます。

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北風と太陽

2005-09-11 22:57:41 | ブログ

(イソップ物語) 北風と太陽が、どちらが強いか争いました。そのとき、一人の旅人が街道を下って来るのを目にして、太陽が「この問題に決着をつけよう。あの旅人の上着を取り上げた方が強いと言えるのじゃないかね。先ず、君からだ。」
 そう言って、太陽が雲の後ろに隠れると、北風は旅人に向かって力の限り風を吹き付けました。しかし、北風が強く吹けば吹くほど、旅人は上着をしっかりと身に押さえつけ飛ばされないようにしました。最後には北風はやむなくあきらめるしかありませんでした。
 そこで、太陽が顔を出し、旅人の上に燦々と陽を浴びせました。旅人はあまりの暑さに上着をつけては歩けなくなりました。

 小さいころ読んだ有名なイソップ物語のひとつですが、この話を久しぶりに耳にしたのは10年以上も前のことです。
 当時の上司が「自分が仕事に取り組むスタイル」のたとえ話として語っていました。その印象は今でも強く残っています。

 最近でも、この寓話はリーダシップやコーチングを説く際の分かりやすい例示として登場します。

 多くの組織人は、自分は「太陽型」だと思っている、あるいは「太陽型」になりたいと思っているのが実態でしょう。私もそうありたいと思っているひとりですが、「太陽」なのか「北風」なのかは、そのときの相手が感じることです。
 また、個々の相手によってまたそのときの状況によって、「太陽」がいい場合もあれば、敢えて「北風」を吹かした方がいいこともあるでしょう。

 自分を「太陽型」「北風型」かという「型」にはめるのではなく、様々なケースに応じて、「太陽」になったり「北風」になったりすべきだと思います。相手に「自発」を促すのか、相手を「強制」で動かすのか、対象や環境等の諸条件を勘案して、そのたびごとに適切なスタイルを選択し演じるのです。

 もちろん、その場合の「北風」は、その後に春を呼ぶ先駆けでなくてはなりません。太陽熱による地表の温度差が「風を生む源」ですから、「北風」も「太陽の所作のひとつ」です。

 もうひとつ、最近改めて気付いたことです。
 イソップ(ギリシア語ではアイソポス)は、紀元前6世紀の人です。孔子もほぼこのころに活躍していました。
 ギリシアでイソップが寓話を語り、中国で孔子が仁を説いていたころ、日本では縄文晩期でした。

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不平不足も進歩の一助 (氷川清話(勝 海舟))

2005-09-10 20:15:09 | 本と雑誌

(p332より引用) 世の中に不足といふものや、不平といふものが始終絶えぬのは、一概にわるくもないヨ。定見深睡といふ諺がある。これは西洋の翻訳語だが、人間は、とにかく今日の是は、明日の非、明日の非は明後日の是といふ風に、一時も休まず進歩すべきものだ。いやしくもこれで沢山といふ考へでも起こつたらそれはいはゆる深睡で、進歩といふことは、忽ち止まると戒めたのだ。

 「これで満足」という達成感は、モチベーションを高める上では目指すべき目標だと思います。が、それがすべてのゴールだとすると、要はそれまでということです。

 不平・不満は、ただそれだけでは何も積極的な意味は持ちませんが、「何とかしよう」という改善・進歩のトリガーとなるのであれば、積極志向の有益なスタートラインになります。

 また、不平・不満の存在は、価値観の多様性の表れでもあります。
 すべての人が何一つ不満もなく満足している状況の方がよほど気味悪いものです。不平・不満の存在を認めることは、「多様性の容認」でもあります。

(ちなみに、私はカレーが大好きです。いくつものスパイスを混ぜ、リンゴをいれたりキャツネをいれたり、また、コーヒーをいれたりチョコレートをいれたり、さらには、ヨーグルトやサワークリームも・・・という二度と再現できない超ハイブリッドなカレーです。)

 さらに言えば、「不平・不満」を素直に言える状況も重要です。
 「不平・不満を言ってもどうにもならないんだから・・・」といった諦めムードや、「不平・不満を口にできない」抑圧された環境はあってはなりません。

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あらすじで読む日本の名著 (小川 義男)

2005-09-08 23:42:35 | 本と雑誌

 買ってまでして読もうとは思わなかったのですが、図書館の書架でたまたま見つけたので手に取りました。賛否両論(否の方が圧倒的に多いのですが、)ある「あらすじもの」です。
(私にとっては、先に「世界の名著」という本を読んでほとんどついていけなかったリベンジでもあります)

 論説文とかであれば、その論旨をコンパクトに理解するという目的での「ダイジェスト版」はそれなりの意味があると思います。が、「小説の『あらすじ』を知ることが何の意味があるか」というのが、この本に対する基本的な疑念でしょう。

 とはいえ、たとえば、

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。・・・」という超有名な書き出しを知っているのと、
 「雪国(川端康成)」を実際読んだのと、
 その「あらすじ」だけでも知っているのと、

 さて、どのレベルがどれだけの意味があるかとなると、人それぞれの本(読書)に対する姿勢(目的)にも拠りますね。

 もちろん、優れた著作はその作者の筆力が命ですから、他の人の筆による「あらすじ」はその分身とすら言えないものです。
 が、他方、優れた著作はその「プロット」だけ取り出しても得るところがあるかもしれません。そういう点を目的とするのであれば、「あらすじ」もそれなりに意味があるとも言えます。

 映画の予告編は「原作」の「切り張り」ですが、この本に載っている「あらすじ」はその部分の筆者のサマライズ力とある程度の文章力の発現でもあります。

 「あらすじを知って何の意味があるのか」という本質的な命題をちょっと脇におくと、優れた文芸作品は、そのあらすじだけでもそれなりに面白いかも・・・というのが、正直、私の実感でした。

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海舟の懐 (氷川清話(勝 海舟))

2005-09-06 23:53:17 | 本と雑誌

(p328より引用) 主義といひ、道といつて、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といつても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、おれの取らないところだ。

 安易な断定の排斥は、主義主張の多様性の容認であり、また、様々な人格の尊重でもあります。

(p330より引用) 人はどんなものでも決して捨つべきものではない。いかに役に立たぬといつても、必ず何か一得はあるものだ。おれはこれまで何十年間の経験によつて、この事のいよいよ間違ひないのを悟つたヨ。

 知らず知らずのうちに、人は独りよがりな頭に固まっていきます。また、経験を積むにつれまた世の中の道理を悟るにつれ、物事をステレオタイプに決め付けてしまいがちです。

 自分の頭の中だけでいくら考えても、お決まりの材料では月並みの料理しかできません。自分と異なるタイプの人の話をきくことは、自分の発想の限界を超える貴重な機会です。どんな人の話でもともかく「謙虚に聞く」ことです。
 自分自身も折にふれ心掛けようとしていますが、なかなかできません。話を聞き始めて20秒くらいで、何らかの過去の型にはめてしまいがちです。意識して自戒しなくてはなりません。

 過去の経験と古い知識は今の時代には返ってお荷物だと思うくらいでちょうどいいのです。

 もうひとつ大事なことは、この多様性の容認の姿勢は人を活かすことに繋がるという点です。こちらの効用の方がずっと大きいかもしれません。

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ケインズも当時は先駆的

2005-09-04 22:20:05 | ブログ

 今日では守旧的な机上の理論と考えられているケインズ理論も、その登場した時代背景と役割から見ると、当時は現状打破的な先駆的理論だったようです。(今頃になって、こういうことを改めて教えられていること自体、少々情けないのですが)

「著者がここに苦心して表現した思想は、きわめて単純であって、容易に理解されるはずである。困難は、新しい思想にあるのではなく、・・・われわれの心のすみずみにまで拡がっているふるい思想からの脱出にある」(雇用・利子および貨幣の一般理論(ケインズ))より引用)

 ここでの「ふるい思想」とは、アダム・スミスから始まる自由放任主義であり、ケインズはそこからの脱出に苦闘したのです。

 経済恐慌下の生産過剰・失業増大の状況においては、自由放任主義は一部金利生活者への海外投資の自由を正当化する理論に過ぎなくなっていました。
 これに対しケインズは、政府主導の公共投資による雇用創出という「『夜警国家』を否定する政策」を主導したのでした。

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談判 (氷川清話(勝 海舟))

2005-09-03 23:46:16 | 本と雑誌

(p316より引用) 「敵に味方あり味方に敵あり」といつて、互に腹を知りあつた日には、敵味方の区別はないので、いはゆる肝胆相照らすとはつまりここのことだ。

 「氷川清話」に登場する当時の人物の海舟の評価ははっきりしています。

 特に、西郷隆盛・李鴻章は、海舟にとって信頼に足る肝胆相照らす仲です。

 李鴻章については、重要な外交交渉に係る豊富な経験を有する「信」を重んじる人物と見て、日清戦争の戦後処理の清国側代表として交渉にあたった際も、伊藤博文や陸奥宗光では相手として全くの役不足と評しています。

 西郷については、自分自身(海舟)とは別次元のとてつもない人物とみていたようです。述懐の端々に(タイプは違うものの)「こいつにはかなわない」といった感じが表れています。

 江戸城無血開城は、単なる城明け渡しには止まらず、市民生活の場である江戸の戦場化を回避するという意味がありました。海舟と西郷は、(おそらく交渉に臨む前から、)江戸150万市民を救うという一点で想いが一致していたのでしょう。

(p260より引用) おれはその時西郷が来るといふから、それなら安心だと言つて寝て居た。・・・ナニ対手が西郷だから無茶の事はする気遣ひないと思つて、談判の時もおれは慾は言はなかつた。ただ、幕臣らが餓ゑるのは気の毒だから、それだけは頼むぜと言つたばかりだ。それに西郷は七十万石くれると向こふから言つたよ。

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