OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

マッキンゼー流 入社1年目問題解決の教科書 (大嶋 祥誉)

2014-01-28 21:48:33 | 本と雑誌

History_photo_james_2  よくありがちな初心者向けビジネスHow To系のタイトルです。
 むしろ、その「いかにも」というタイトルに惹かれて読んでみました。

 紹介されている「基本的思考スタイル」や「具体的フレームワーク」等については、過去に読んだ幾多の類似本の域を出ません。ただ、復習も兼ねて、いくつかの著者のアドバイスを書きとめておきます。

 まずは、そもそも「問題解決とは何か?」というスタートラインの基本認識について。
 それは、問題に対する単なる条件反射的な「対処」とは全く異質なものです。

(p55より引用) 本来の「問題解決」とは、起こった事象に対処することではなく、「なぜ、その事象が起こったのか?本当は、どうであればその事象が起きないのか?」という問題の本質まで掘り下げて解決することです。

 したがって、結果としての「具体的解決策」は、問題を提起した人間にとっては思っても見なかった内容でありうるのです。これは「問い」の立て方の見直しに起因します。「問い(=問題)の核心」に迫るという思考プロセスを経由させるのです。

 「問題」はしばしば「願望」という形をとります。この「願望」に対する解決策を検討するにあたっても、たとえば、「欲しいから買う」といった短絡的な思考をしてはならないのです。まず、「願望」を正しい「問い」のスタイルに変換させなくてはなりません。「問いから始める」というわけです。

(p138より引用) 「タブレット型PCが欲しい」→「タブレット型PCを買うべきか?」という問いを働かせ、その問いから思考や検証を始めることで正しい判断に近づくことができます。
 これはイシュー・ドリブン(Issue Driven)とも呼ばれます・・・

 「問い」という形になると、その思考はワンステップ前からスタートすることになります。これにより、“そもそも論”に戻りNoの選択肢も含めたより俯瞰的・客観的な判断が可能になるのです。

 本書では、当然、「ロジックツリー」「3C」や「7S」といった問題解決のための基本的なフレームワークも紹介されています。しかしながら、著者も短絡的な「フレームワーク絶対論者」ではありません。

(p110より引用) マッキンゼーの仕事というと、問題解決のためのフレームワークを使いこなして行うイメージがあるみたいですが、フレームワークだけではバリューは出せません。フレームワークもたしかにツールとして使うのですが、そこから出てきた情報や知見をどのように扱うか、あるいは、フレームワークの切り口そのものをどう「創造」するかというのは個人のセンス。

 ただ、こう説かれると「おいおい」という印象を受けてしまいますね。
 本書はマッキンゼー式思考法の入門書だからという割り切りなのかもしれませんが、最終的なKFSが「個人のセンス」だと断言されると、ちょっと期待はずれ。確かに章立てでは、「第4講義 マッキンゼー流 問題解決力を高める思考術」「第5講義 マッキンゼー流 自分力の高め方」等と続くのですが、そこでのアドバイスは、それこそ「具体的一般論」といった感じのものに止まっています。

(p149より引用) 物事はビッグピクチャー(大きな絵)で見ろ、視点を高くしてブロードビュー(広い視野)を持て

と言われても、私も含め多くの人は、「そんなことは頭では分かっている、にもかかわらず、そういった思考・行動ができないんだ」というレベルに止まっているのです。
 

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価格:¥ 1,365(税込)
発売日:2013-04-27


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同時代のこと―ヴェトナム戦争を忘れるな (吉野 源三郎)

2014-01-21 22:49:53 | 本と雑誌

Napalm  毎週行っている図書館の「リサイクル図書」のコーナーを覗いた時、目についたので手に取ってみた本です。

 著者の吉野源三郎氏は、雑誌「世界」の初代編集長で、名著「君たちはどう生きるか」の著者として有名ですね。

 本書のタイトルは「同時代のこと」。
 巻頭の「序にかえて」の章が圧巻です。その章では、同時進行している「現代史の捕捉・評価」に関するジョン・リードの「世界をゆるがした十日間」という著作を示しつつ、とても内容の濃い主張が綴られています。

(p11より引用) 歴史的な事件を同時代の出来事として迎え、まだ流動している状況の中で、その帰趨を洞察するということは、けっして容易なことではない。

 この吉野氏の問題意識とその立ち位置の誕生は、吉野氏の青年期の忸怩たる思いに発しています。

(p17より引用) 今日では、第一次大戦が帝国主義戦争であったということは、高校生でも知っている。それを、日々この大戦の経過を同時代の人間として追って来た私が、戦争が終わってから十年近く経つまで知らなかったのである。・・・何億という人々の運命にかかわる大きな事件が進行し、人類の将来に重大な影響をもつ事態が生まれて来ていたのに、自分がそれを知らずにのんきに生きて来たということ、知らないままに生きて来られたということが、若い私には、気がつくとやりきれない思いのすることであった。

 その思いをもって、まだ、研究の対象として熟成されていない「眼前の現代史」を捉えるにあたって、著者は「主体」の重要性を指摘しています。

(p47より引用) 今日においても、なお、私たちは、人生を知り尽くした上で人生を歩みはじめるということはできないのである。私たちは、誰も彼も、生きてゆきながら、生きてゆくことによって人生を知ってゆく。こうして人間は、何千年の昔から、自己の現実性を知ると共に現実を問題として受取り、それと格闘しつつ環境を変え、その秘密を開き、自分をも変えながら自分を知って来た。このような人間の行動の集積として歴史が展開して来、展開してゆく以上、歴史的現実に対する私たちの接近も、特に同時代の現実に関する場合、私たち自身の行動や生き方を離れてはありえないであろう。問題は、どんな生きてゆく態度、どんな行動の立場が、最も深く現実に喰い入ることを可能にするか、ということにかかる。

 眼前に広がる現実を捉えることは、それが、同じ瞬間に存在するがゆえに、そこに立つ「主体」の姿勢がクリティカルになるのです。

 序に続く本編は、同時代の歴史的事象としての「ヴェトナム戦争」を材料にした吉野氏の講演や寄稿文等を採録したものです。
 当時の吉野氏の強烈な信念に裏打ちされたエネルギッシュな姿が眼前に広がるようです。

 まずは、吉野氏の現代史認識における「ヴェトナム戦争」の“意味づけ”はこうです。

(p104より引用) 私たちは、ヴェトナム戦争に関して、以下のことを確認しておかねばならない。それは、ヴェトナム戦争こそ、今日私たちの前に姿をあらわして来た大規模な歴史的転換の最大の契機であったから、というだけではない。大きな歴史的転換期において、私たち自身がいかに洞察というものを必要としているか、また、その洞察のためにどのような知性を必要とするかを、ヴェトナム戦争が、歴史の現実を通じて痛切に教えてくれているからである。

 このくだりに続いて、吉野氏の官僚および官僚出身の政治家批判が展開されます。

(p110より引用) 敗戦による打撃を痛感することなく、戦後の冷戦の展開によって恩恵を受け、アメリカの冷戦政策に対しては最も無批判であり、やすやすとそれに協力して来た官僚出身者や、官僚の上層部が、日本の政治を導いているということである。

 見識と洞察をこれほど必要としている時機に、「もともと、そのようなものを欠いていればこそ有能であった人々」が日本の舵取りを行っていることへの強い危機感の表明です。

 そして、最後に、本書の中で最も印象に残ったフレーズを書きとめておきます。
 1930年代、ヒトラーがオーストリア・チェコ等に続きフランスをも屈服させてほぼ全ヨーロッパに覇を唱えたとき、三木清が語ったと紹介された言葉です。

(p189より引用) 「これでヒットラーもおしまいだ。彼のナショナリズムは、ヴェルサイユ体制に不満をもつドイツ人に訴えて、ドイツだけは、なんとか引きずって来られたが、ヨーロッパの諸民族を相手にこれを統治しなければならなくなった。いま、それだけの哲学は彼にはない。力だけは国境を越えて伸びたけれど、国境を越えるだけの原理や思想は、ナチズムにはない。こうなれば、ヒットラーはきっとしくじる」

 同時進行の時間軸の中に居ながら、歴史的・社会的・思想的全体観を意識したこういう言葉を発することができる感覚は素晴らしいと思います。
 

同時代のこと―ヴェトナム戦争を忘れるな (岩波新書 青版) 同時代のこと―ヴェトナム戦争を忘れるな (岩波新書 青版)
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発売日:2002-06-12


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置かれた場所で咲きなさい (渡辺 和子)

2014-01-15 21:53:26 | 本と雑誌

Notre_dame_seishin_university  著者渡辺和子氏が学長を勤めた「ノートルダム清心女子大学」は、私の出身地岡山にあります。
 そういった親近感とともに、いくつかの書評でも薦められていたので手にとってみました。

 ストーリーがあるわけではないので、気になったフレーズをいくつか書き留めておきます。

 まずは、著者が紹介している他の方々の言葉から、「美しく生きる」の章。

(p45より引用) 「うばい合えば足らぬ。わけ合えばあまる」 相田みつをさんの言葉です。

 もうひとつ、こちらは「あなたが大切」の章で語られているノートルダム清心女子大学に来たマザー・テレサにまつわるエピソードです

(p70より引用) マザーの話に感激した学生数人が、奉仕団を結成して、カルカッタに行きたい、と願い出たことがあります。それに対してマザーは、「ありがとう」と感謝しつつも、「大切なのは、カルカッタに行くことより、あなたたちの周辺にあるカルカッタに気付いて、そこで喜んで働くことなのですよ」と優しく諭されたのです。

 そして、以下は著者自身の経験から発せられた言葉。
 著者の人生にもいくつもの悩みや苦しみがありました。50歳のころには「うつ病」にも苦しんだとのこと。そういった「人生の穴」に落ち込んだ時、著者が得たのはとても大切な新たな気付きでした。

(p73より引用) 人生の穴からのみ、見えてくるものがあります。そこから吹いてくる風の冷たさで、その時まで気付かなかった他人の愛や優しさに、目を開かされることがあるのです。

 穴の底から上を見上げたとき云々・・・、これに似た話を歌手の加藤登紀子さんから伺ったことがあります。
 加藤さんは身長が低く、大抵の場合、人と話をするときには見上げることになるとのこと。そうするといつも「空」を見ることになる。背の高い人の場合は人と話すとき「地面」しか見えない。背が低いことが良いこともあるんだとのお話でした。

 さて、本書からの引用の最後は、著者が大学での講義で学生たちに伝えているという「2%の余地」の勧め。

(p137より引用) どれほど相手を信頼していても、「100%信頼しちゃだめよ。98%にしなさい。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておきなさい」といっています。

 ひとりひとりの人格を尊重することは、自分と他者との違いを認めることでもあります。異なる人格ですから考え方も変わっていて当然です。したがって、付き合っていく中で、相手から自分の想定と異なる態度・反応が返ってくることもあるのです。
 人を信じると同時に、それでも生じうるコミュニケーションの齟齬を埋め合わせる「心のゆとり」を持っておくべきとの教えです。
 

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発売日:2012-04-25


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黒田官兵衛 作られた軍師像 (渡邊 大門)

2014-01-09 22:10:12 | 本と雑誌

Yoshitaka_kuroda  「黒田官兵衛」、今度のNHK大河ドラマの主人公ですね。

 戦国時代から江戸初期の武将、豊臣秀吉の側近として仕え、築城や城攻め、巧みな調略でその才覚を発揮したと伝えられている傑物。「黒田官兵衛」といえば、竹中半兵衛と並んで卓抜した異能の“軍師”としての強烈なイメージを抱かせるヒーローのひとりです。

 本書では、官兵衛を知るための編纂史料である「黒田家譜」を中心にしつつも、官兵衛による書状等数少ない一次資料による検証も踏まえ、官兵衛の実像を明らかにしていきます。

 その検証・立論における著者の基本的な姿勢は、以下のような記述に表れています。

(p13より引用) 『黒田家譜』は福岡藩の儒者・貝原益軒の手になるもので、寛文11年(1971)に福岡藩主・黒田忠之の命を受けて編纂を開始し、元禄元年(1688)に完成した。執筆には「黒田家文書」なども駆使しているが、古い時代になると根拠になる史料が乏しいため、叙述に信頼性の欠ける面がある。また、地の文における官兵衛などの評価に関しては、儒教の影響を受け、官兵衛を実際以上に理想化している感が否めない。

 確かに時代が下って編纂された自家の「家譜」ですから、かなりの脚色が施されている可能性は否定できないでしょう。

 官兵衛の活躍は、豊臣秀吉の天下取りのプロセスがその頂点ですが、「官兵衛に智謀」として有名なこの時期の逸話についても、著者は冷静な検証を加えています。

(p113より引用) 官兵衛が中国大返しから山崎合戦にかけて、秀吉のもとで十分な活躍をしたことは認めてよいであろう。しかし、『黒田家譜』では、さまざまな逸話を持ち出して、その軍功をあまりに強調しているといわざるを得ない。

 一般には、備中高松城攻略での「水攻め」や、明智光秀による本能の変を知った「中国大返し」等を献策し見事に成功させたと言われています。しかしながら著者によると、官兵衛がそれらの軍略に関わったことは確かだとしても、そのオリジナルな提唱者であったかという点については大いに疑問があるようです。

 さらに、官兵衛の軍師像の形成には、上述の「黒田家譜」に加えて長子黒田長政の「遺言」も大きな役割を果たしています。この遺言は、黒田家において無作法があった場合、幕府からの寛大な措置を求める縁とすべきものとして残されました。

(p257より引用) つまり、長政は将来の黒田家の子孫が危機に瀕したとき、「家康が天下を獲り、江戸幕府があるのは黒田家のおかげ」ということを拠り所として、家の取り潰しを逃れようとしたのであった。そして、長政は黒田家の優越性を誇示するため、数多くの「架空の話」を列挙しているのである。

 この「話」が、後日語られるようになった官兵衛の逸話の原型のひとつとなったとの考えです。

 さて、本書で展開されている種々の考察を通してみたとき、官兵衛が超人的な“軍師”といえるかどうかは、その「軍師」の定義にもよりますが、それが「戦上手」というのであればちょっと違うような印象を持ちました。寧ろ、戦の前裁きや後処理で活躍した「仕事師(タフ・ネゴシエーター)」という方が近いように思います。

 ただ、そのイメージがどうであったとしても、激動の戦国時代を生き抜き、長政とともに明治維新まで続く大藩福岡(筑前)藩の礎を築いたその官兵衛の才覚は尋常ではなかったのでしょう。

 NHKの大河ドラマが契機となり、今、様々な「官兵衛本」が出版されているようです。今回の著作で描かれた「官兵衛」像と対比させる意味でも、もう一冊ぐらい、今度は「逸話」部分を重視したタイプの本も読んでみましょう。
 

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書) 黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)
価格:¥ 840(税込)
発売日:2013-09-18


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大人のいない国 (鷲田 清一・内田 樹)

2014-01-03 21:22:49 | 本と雑誌

Jose_ortega_y_gasset  気になる論客お二人が揃い踏みした著作です。
 現代日本の諸相をご両人流の視点で縦横無尽に切り込んでいきます。

 まずは、本書のタイトルにもなった「大人のいない国」を、お二人はどんなふうにイメージしているのかですが、冒頭、こんなやり取りでスタートしています。

(p15より引用) 鷲田 最近、政治家が幼稚になったとか、経営者が記者会見に出てきたときの応対が幼稚だ、などと言いますが、皮肉な見方をしたら幼稚な人でも政治や経済を担うことができて、それでも社会が成り立っているなら、それは成熟した社会です。・・・
内田 官僚や政治家やメディアに出てくる人たちがこれほど幼稚なのに、致命的な破綻もなく動いている日本社会というのは、改めて見ると、きわめて練れたシステムになっているなって、いつも感心するんですよ。
鷲田 幼稚な人が幼稚なままでちゃんと生きていける。

 日本には「大人」がいない、それでも(今は)やっていけているというわけです。とてもシニカルな表現ですが、納得感がありますね。
 しかし、その社会は、安定を損なうような想定外の事象が発生した際、それを制御できる「大人不在の社会」でもあります。

 この冒頭のお二人の対談のあと、以降、「第2章 大人の「愛国論」(内田樹)」 「第3章 「弱い者」に従う自由(鷲田清一)」 「第4章 呪いと言論(内田樹)」「第5章 大人の作法(鷲田清一)」 「第6章 もっと矛盾と無秩序を(内田樹)」と交互に、お二人の考え・主張が開陳されていきます。

 その中で、特に私の印象に残ったのは、「大人の『愛国論』」での内田氏の指摘です。
 この章で内田氏は、「不快な隣人たち」を国民国家のフルメンバーとして受け入れることが「現代における愛国心のかたち」だと語っています。

(p58より引用) かつてオルテガ・イ・ガセーは民主社会を成り立たせるぎりぎりの最後の条件を「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことだと書いた。オルテガがそう書いてからすでに八十年の歳月が流れた。彼の言葉はいまだに私たちの世界では「常識」に登録されていない。だが、それが常識になる日まで私たちは忍耐づよく同じ言葉を繰り返し告げねばならない。

 しばしば「愛国」は自己の思想・心情と異なる人々を排除・抑圧する形で声高に説かれます。この「反対者の主張や存在も包含した国」を「愛する」という考え方は、まさに「大人」の姿勢でもあります。

 そして、本書の最後の章もお二人の対談。
 その中での「輿論と世論」について取り上げたくだりです。

(p171より引用) 鷲田 ・・・輿論はパブリック・オピニオンです。いまの世論調査は、パブリック・オピニオンの調査じゃなしに、ポピュラー・センチメントの調査なんです。感情なんです。
・・・
内田 これはね、世界中がそうなのかもしれません。みんなが感情的であることを競っている。内政だって外交だって、どう考えても、感情的な人間のほうがそうでない人間より正しい政策判断をする確率が高いなんてことはあり得ないのに。

 久しぶりに「輿論」という単語を見ました。このあたり、昨今のソーシャル・ネットワークの拡大とその中で発現している特異なコミュニケーションスタイルの実態を思うと、改めて、真っ当で重要な指摘だと感じます。

 さて、本書を読み通しての感想です。
 「大人」というキーワードを発想のトリガーにして、魅力的な個性を持つ論客が縦横に「現代日本社会の幼児性」を評した、とても刺激的な著作だと思いますね。
 

大人のいない国 (文春文庫) 大人のいない国 (文春文庫)
価格:¥ 588(税込)
発売日:2013-08-06


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