かなり以前に読んだ内田康夫さんの“浅見光彦シリーズ”ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
今回は “長野” です。
とはいえ、主に南信、飯田あたりがメインの舞台なので馴染みの場所は登場しませんでした。残念です。(昔、在職していた部門では、飯田にお客様がいらしたので1・2回ご挨拶に伺ったことはありましたが、今では行くとしても長野市だけですね)
あと、ネタバレになるとまずいので詳細な内容には触れませんが、この作品では内田康夫さんの別のシリーズ“信濃のコロンボシリーズ”の主人公長野県警竹村岩男警部が脇役として登場し、浅見光彦と絡みつつ事件に対峙していきます。
長野オリンピック開催にかかる裏事情がモチーフになっているのは、奇しくも今と微妙に重ねります。当時も今も、オリンピックと利権との不即不離の関係は変わらないようです。
さて、この作品、ストーリーとしては比較的オーソドックスで、犯人の意外性もなし、“浅見光彦シリーズ”としては“可もなく不可のなし”といった印象でした。
まあ、あれだけの冊数を重ねたシリーズですから、玉石混交。そこそこのレベルを維持しているだけでもよしとしましょう。
いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。
本川達雄さんの著作は、以前も「ゾウの時間ネズミの時間」「生物多様性」 などを読んだことがあります。親しみやすい語り口で紹介される生物の世界はとても興味深いですね。
本書は、NHK「ラジオ深夜便」の人気コーナーを書籍化したものとのこと。「生物」をテーマにしたバラエティに富んだエッセイという体で、こういったネタが紹介されています。
まずは、私たち「恒温動物」について解説している章から。
(p166より引用) 体温が高ければ、化学反応が速く進むから、何でも素早くできる。素早く情報を集め、素早く判断し、素早く駆けていって、のそのそしている変温動物を捕まえることができます。これは大きな利点です。
恒温動物とは体温の高い動物、つまり「高温動物」でもあり、それは時間の早い「高速動物」でもあるんです。・・・
気温変化の激しい地上に棲みながらもこの利点を得るために、莫大なエネルギーを使っているのがわれわれ恒温動物なのです。
エネルギーの大量消費癖は、“恒温動物”たる人間の持って生まれた性質なのですね。
現代人は、このように、エネルギーを大量消費して高密度空間で高速生活をおくるようになりました。そして、新型コロナ禍。本川さんは今をこう捉えています。
(p242より引用) 今後ウィズコロナで生きて行かなければならないと言われています。コロナがあっても問題にならない空間の広さと時間の早さとを備えた社会、そしてそれに基づく生き方・価値観に変えていくべき時が来たのですね。
巣ごもり生活の時間は、これまであちらこちらとせわしなく駆け回っていた生活の時間とは大いに異なります。確かに不便・不自由なのですが、それをかこつだけではなく、あまりに自由に何でもすぐにできてしまう時間を批判的に見直す良い機会なのだと、肯定的に捉えようと僕は思っていますね。
さて、本書を読み通して、そのほかに興味を惹いたところをもうひとつ。
本川さんお得意の“時間”をテーマにした項「子供の時間 老人の時間」ではこんな話をされています。
(p93-94より引用) 幸い寿命が大きく延びました。延びた部分はビジネスとはもう関係ない部分です。「人間五十年」の時代にはなかった部分であり、人生にいわば「おまけ」の時間が付いたんですね。・・・それに対しておまけの部分は、奴隷奉公の年季の明けた部分。そしてここは医療という技術が作りだしたもの、まさに人類の叡智の結晶の時間です。だからもっと自由にそれまでとは違った価値観で大いに楽しもうではありませんか
私もいい歳、易きに流れるタイプなので、こういった指摘は自分に都合よく解釈してしまうんですね。
ただ、ともかく全く趣味をもたない私なので、これから何か“楽しみ”を見つけるのにも、あくせくとエネルギー費やさなくてはならないようです。
まあ、ストーリーは二の次ですね。役者さんたちもこれからの期待株といったタイプですね。
ともかく私のように、最初のシリーズ、本郷猛が藤岡弘さんのころをリアルタイムで知っている世代からいえば、本郷猛 と一文字隼人が揃って登場するだけで気になってしまいます。
仮面ライダーの魅力のひとつは、文字どおり「オートバイ」を使ったスタントですが、そのあたりもしっかり織り込んでくれていました。
ただ大いに気になったのは「ショッカー」。やはり、あの「イーッ」という掛け声と上下黒色の「情けないコスチュームで登場して欲しかったですね。これは致命的に残念でした。
いつも聴いている大竹まことさんのpodcastの番組に著者の奥田祥子さんがゲスト出演していて、本書の紹介をしていました。
奥田さんは現在近畿大学教授。以前は大手新聞社の勤務経験もあるとのこと。本書は、そのころから取材を続けている“男性の生きづらさをテーマにした社会学的考察”をまとめた著作です。
20年以上にもわたる継続的インタビューを中心に、地道なフィールドワークから導かれた多面的な考察にはなかなかに面白いものがあります。
「男らしさ」という旧来の固定観念を保持し続けようとあくせく勤める姿。「イクメン」「ケアメン」といった新たな“男性像”を無条件によしとしてそうあろうと無理をする姿。それらの背景には、「世間の目」という“社会的圧力”があり、それに抗いつつも拘ろうとする心情があると奥田さんは指摘しているようです。
たとえば、介護の場面ではこういった具合です。
(p166より引用) 「他人を頼る弱々しい男と思われたくない」「家内の面倒も自分で見られない、頼りない惨めな男と思われたくない」などの語りからも、男たちが古い「男らしさ」の固定観念に囚われていることがわかる。
確かに、奥田さんの長期にわたる継続的インタビューではそういった男性像が実存しているのですが、どうにも私には理解できないところです。
“男はこうでなければ” と思うことは否定しないにしても、そう思い込みそう振る舞おうとする要因が“他人の評価”だというのでは、どうにも主体性がありません。ましてや、それで自分を苦しめ家庭を崩壊させてしまうとなると、何とも本末転倒で救いがありません。
第三者の無責任な“目”にどうしてそこまで拘泥するのか、そうならざるを得なかった当事者の精神性の背景が大いに気になります。「世間の目」は、“閉鎖的村社会”の特徴として従来からの“日本人論”の中でも挙げられる要素ですが、近隣との付き合いが希薄になりつつある現代、それも都市部においてなお、ここまで意識されているのですね。
一般化した言い方は正しくないのだと思いますが、その精神的呪縛の強さには驚かざるを得ません。
その呪縛から逃れる方策について。
(p238より引用) 「男」の呪いを解き、誰一人取り残さない多様性と包摂性のある社会を実現するのは、男女・多様な性や年齢、職業などにかかわらず、あなた自身なのである。
奥田さんは本書の最後にこう語りますが、簡単に一言で「あなた自身です」で結論付けられるとちょっと辛いですね。
本人の思考にも課題はありますが、取り巻く社会(世間)のあり方にも問題はあるでしょう。具体的な原因は何か、その原因を取り除く方策は何か、これに対する分析的・具体的な論考がないのはとても残念です。