かなり以前に読んだ内田康夫さんの“浅見光彦シリーズ”ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
今回は、今月久しぶりに出張で訪れた “金沢” です。
時期的には “かに” の解禁前でしたが、近江町市場やひがし茶屋街あたりの人出を見ると観光客もかなり戻ってきましたね。
ネタバレになるとまずいので、内容には触れませんが、この作品は“浅見光彦シリーズ”の中でも比較的オーソドックスな作品のように感じました。
ただ、最後の15ページほどになって急加速で謎解きに向かって糸が解れていくのは、ちょっと唐突感が大きかったですね。
ちなみに、この作品には私の馴染みの場所はあまり登場しませんでした。
せいぜい兼六園付近の美術館があるあたりぐらいでしょうか。それも、私の金沢での行動範囲が極く狭いからですが。
今の時代では、こういったテイストの映画は作り得ないでしょう。
太平洋戦争後のアメリカ社会を舞台にした良質の作品です。
まったく相異なるキャラクターの3人の主人公を、自然な流れでひとつの物語の中に溶け込ませているのは見事ですね。そのプロットやストーリー自体も秀逸ですが、登場した女優陣、特にマーナ・ロイ、テレサ・ライトの二人はとても魅力的でした。
古き良き時代の映画といった感で、久しぶりに観終わって心穏やかになれました。
会社帰り、国立駅内のモールにある書店にちょっと寄ってみた折に、店頭に平積みされていたので目につきました。
私はまさに中央線沿線の住人で、もう20数年間通勤で利用しているので、このタイトルが気にならないわけがありません。
内容は、中央線沿線を舞台にした短編小説を11編採録したものです。馴染みのある作家もいれば、いままでその作品を読んだことのない作家もいます。
いずれにしても小説なので、内容に入らない程度に印象に残ったところを書き留めておきます。
まずは、太宰治の「犯人」。
じとっとした湿気を含んだ “太宰流サスペンス作品” といった印象です。
太宰の作品は、ご他聞に漏れず高校・大学のころお決まりの有名な小説をいくつか読んだ以外、最近はほとんど手に取っていませんが、この作品はちょっと意外なテイストで、なかなかに興味深いものでしたね。予想外に楽しめました。
もうひとつは、黒井千次の「たまらん坂」。
(p210より引用) 「駅は国立で降りるんだ。でもそれがおかしな坂でさ、五百メートルもあるかないかなのに、登っているうちに国立市から国分寺市に変って、あっという間に今度は府中市になる。」
この作品のピンポイントの舞台が私が通勤で使っている「国立駅」の近辺なので、風景描写のディーテイルが無暗に気になりました。タイトルになっている「多摩蘭坂」をはじめとして、「旭通り」「大学寮前」「坂の途中の鉄塔」・・・、鮮明に風景が浮かびます。地元のヒーロー「忌野清志郎」さんのアルバムも登場して、一味違う楽しみ方ができましたね。
そして最後は、五木寛之さんの「こがね虫たちの夜」。
これは時代を感じさせる小品ですね。まさに若いころの “五木さんの得意技” 炸裂といった出来栄えでした。
さて、このアンソロジー、幅広いジャンルのさまざまな作品が採録されていて、普段なら決して手に取らないような作品にも出会うことができました。予想外に面白いものもありましたが、とはいえ、やはり “合わないもの” は受け付けませんでしたねぇ・・・。
いつも利用している図書館の新着本リストで目に付いた本です。
著者の成田悠輔さんは、最近活躍が特に目立つ研究者&実業家です。
私自身、いままでは時流に乗った著作にはあまり関心がなかったのですが、やはり“食わず嫌い”は良くないと思い手に取りました。読んでみると、流石になかなか興味深いコメントが満載で、その中から2・3、覚えとして書き留めて置くことにします。
まずは、「第一章 故障」の章から。
成田さんは「21世紀に入ってからの経済を見ると、民主主義的な国ほど、経済成長が低迷しつづけている」と指摘し、その原因についてこう語っています。
(p61より引用) 21世紀の最初の21年間の一体何が、民主国家を失速させたのだろうか? ・・・ インターネットやSNSの浸透に伴って民主主義の「劣化」が起きた。閉鎖的で近視眼的になった民主国家では資本投資や輸出入などの未来と他者に開かれた経済の主電源が弱ったという構造だ。
“劣化” というのが、重要な傾向ですね。政治家、官僚、マスコミ、そして、私たち国民の“劣化” です。
その国民の劣化をもたらしている要因のひとつとして、成田さんは「情報流通やコミュニケーションの過激化・極端化」を挙げています。そして、それを防ぐ対策はこうです。
(p102より引用) まず考えられるのはSNSなど公開ウェブでの同期コミュニケーションの速度規模への制約である。Twitterのように誰でも参加できる双方向多人数のリアルタイム公開コミュニケーションを、災害・テロなどの一部の領域を除いて、課税したり、禁止したり、規模・人数制限を入れたりする方向が考えられる。双方向の大規模リアルタイムコミュニケーションが熱狂や同調・過激化、つまり前章で見た民主主義の劣化 の触媒になっているからだ。
なかなか大胆な提案ですが、確かにTwitter空間でのやり取り、特に匿名でのものは、実名ではとても言えないような悪意に満ちた過激なものが目につくのも事実です。それが少なからず「知的劣化」に結びついている点は首肯できます。“反知性主義”が頭を擡げているともいえるでしょう。
そういった現状にあって、成田さんは、「民主主義」の再生に向け今の社会水準を基点に“0ベース”で民主主義を構成し直しました。
(p164より引用) 民主主義とはデータの変換である。・・・民主主義とはつまるところ、みんなの民意を表す何らかのデータを入力し、何らかの社会的意思決定を出力する何らかのルール・装置であるという視点だ。民主主義のデザインとは、したがって、(1) 入力される民意データ、(2) 出力される社会的意思決定、(3) データから意思決定を計算するルール・アルゴリズム(計算手続き)をデザインする ことに行き着く。
これは、とても面白い考え方です。民主主義といえば、多数決とか選挙とかが不動の前提のように考えていた“思い込み”が見事に覆されましたね。
成田さんの提案する“民主主義の再構成案”が「無意識データ民主主義」です。
(p204より引用) 無意識データ民主主義は、投票(だけ)に依存せず、自動化・無意識化されている。その結果、多数のイシュー・論点に同時並行対処できる。意識的な投票・選挙が作り出す同調やハック、分断も緩和することができる。
とのことですが、この新たな民主主義的方法の成否のポイントのひとつは、「いかにして、人々の意思を反映したイシュー・論点を提示できるか」という点にあると思います。間接代議制民主主義は否定しているのですから「代議士(立法府・政治家)」がその提示役になれないとすると、「行政府(官僚?)」の役目になるのでしょうか。
本書が提示した「民主主義再生議論」は、近未来的なソリューションの提示として、とても面白いものです。
もちろん、実施までの道程は一筋縄ではいかないでしょう。
(p133より引用) 選挙の勝者は今の民主主義の既得権者である。既得権者がなぜ自らの既得権の源を壊そうという気になれるだろう?
まさに、成田さん自身もこう指摘しています。
とはいえ、今の“非知性主義的社会状況”を鑑みるにチャレンジする意義は十分ありますね。
こういったアイデアを “自分の頭で考えてみる” だけでも大きな進展です。