実話に基づく映画です。
ストーリーは地味で、正直私には退屈でした。
ただ、ジャック・レモンとシシー・スペイセク、お二人の円熟の演技は見事です。物語の進展にともなって、疎遠な間柄がだんだんと理解し合う関係に変わっていく、そういう微妙な様をしっかりと表現していましたね。
いつも聞いている大竹まことさんのpodcastの番組に著者の岡田晴恵さんがゲスト出演していて、本書も話題として取り上げられていました。
ご存じのとおり岡田さんは現在は白鷗大学教授ですが、元国立感染症研究所で感染症パンデミック対策に従事した経歴を持っています。新型コロナウィルス感染症発生当初からテレビのワイドショーや報道番組を中心にマスコミに登場する機会も多く、その露出の多さ故か、様々なプレッシャーも受けて来られました。それらの中には、学術的な観点からの正当な批判・反論もあれば、謂れのない中傷も含まれていたことだと思います。
本書は、その岡田さん自身が著したものなので、本人のみが知る真実もあれば、少々バイアスのかかった表現も含まれていることでしょう。
その点を踏まえつつ、本書で紹介されている新型コロナウィルス感染症対策における検討や実行にあたっての実態をいくつか書き留めておきます。
まずはイントロ的なコメントから。
中国武漢で感染症の発生が発覚した当初、厚労省から政治家への説明役は岡部信彦氏(川崎市健康安全研究所・所長)が担っていたと伝えられていました。
(p41より引用) 田代氏はウイルス学で最悪のシナリオまで想定して、健康被害をいかに小さくするかという対策を提言していたのに対し、岡部氏は「まあまあまあ、そういうこともあるかもしれないが、パンデミックはめったに起こりませんから」と、ウイルス学やサイエンスの論拠はないけれど、行政上の落としどころを心得て、田代氏の発言の火消しをしていた。結果、対策は行われないままになる。
ここに登場する田代氏とは、元国立感染症研究所インフルエンザウイルス研究センター長の田代眞人氏です。ちなみに、岡部氏は、新型コロナウィルス感染症拡大を機に、厚生労働省新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボード・構成員、内閣官房参与等にも就任しています。
そして、この新型コロナウィルス感染症対策の検討にあたって、いわゆる「専門家」が続々と登場してきます。
2020年2月、まず組織されたのは「新型コロナウィルス感染症対策専門家会議」でした。
(p89より引用) 座長は国立感染症研究所所長の脇田隆字氏、副座長は尾身茂氏であった。私は、厚労省にいた尾身氏とは長い付き合いだし、脇田所長も感染研の所長であるから知っている。彼の業績は肝炎ウイルスだ。C型肝炎の細胞上での培養の成功はノーベル賞に匹敵するものだと思う。
ただ、尾身氏の専門であるポリオも脇田氏の肝炎も、呼吸器感染症ではない。ウイルス屋といっても肝炎と呼吸器感染症では、ウイルス学の中では全くの分野違いである。SARSもパンデミック・インフルエンザもやったことがない人がそんなポジションに座るというのは、先生たち自身も不安極まりないだろう、と思った。この人事のしっぺ返しを一番くらうのは国民なのだから、同情ばかりしていられないが。
さらに他のメンバーを見ると、やはり岡部信彦氏も名を連ねていた。また、彼にお得意の楽観論と火消しを繰り返されると危険だな、という不安がよぎる。
そして、予想どおり“専門家”の方々は、自らの専門外の“忖度” をし始めました。
大阪健康安全基盤研究所の奥野良信理事長は、ワクチン接種に関する議論の様子をこう語ったそうです。
(p246より引用) 「はあ、そうですね。ワクチンの専門家の挙動が政治的なんです。だから、リスクについては言わないんでしょう。 壮大な博打を打っている訳ですから、怖いのはわかってるんですが、 そこは言わない。私、ワクチン学会の理事会でこの新型コロナワクチンのADEについて言うたんですわ。でも、理事の誰も反応しない。無視です。 これはひどかった。 ワクチン学会の理事ですら政治的だと思いました」
こういった状況の中、的外れ?な施策を進める分科会・専門家会議のメンバーに対して発せられた田代氏(元国立感染症研究所)の火を噴くような激烈な言葉です。
(p260より引用) 「サイエンスもポリシーもないからだ!だから怖くも何ともないんだ!そうだろう?普通の神経して、論文読んで、ウイルス学が出来ていたら、こんな対策、やっていられるか!専門家会議でも分科会でもアドバイザリーボードでも、誰か一人くらいマトモな奴がいて、尻まくって、正論言って辞めるかと思ったら、誰も辞めない、言わない。無責任極まりない」
第4波、2021年のゴールデンウィークのころ、岡田さんの言葉は、コロナ禍への対応スタンスの相違を越えて響きます。
(p274より引用) もう、みんな東京アラートなんて忘れている。だから、どうしてこうなったかも検証されない。忘却の果てに、同じ間違いを繰り返すのだ。繰り返される緊急事態宣言の度に、流行規模も感染者数も大きくなる。それを変異ウイルスの出現のせいだけにしてはいけない。
さて、本書を読み終えての感想です。
とても興味深い様々なエピソードが紹介されていましたが、どうにも気になったところ。今回の新型コロナウィルス対策の責任者たる厚労大臣との関わりの部分です。
これだけ専門性も高く国民生活に極めて大きな影響を与える課題の検討において、この本で語られているような個人レベルの情報交換が実質的に相当のウェイトをもっているのだとしたら、やはりそれは検討の「仕組み」や「方法」が間違っているのだろうと思います。
本書にあるように「公式の検討機関」がその人選の不具合で正しく機能していないのなら、リーダーたる人間が決断すべきことは、メンバー変更等の人事も含む検討体制の抜本改革です。「あの人たちの言うことは・・・」と内輪で言い合っているようでは全くダメでしょう。機能不全の愚痴をこぼす時ですか? 今、私たちが直面しているのは、そういった程度の危機ではありません。
以前から気になっていた本です。
戦後の教育に大きな影響を与えた著作だと評されていますし、当時の生活を知る民俗学的観点からも貴重な資料とも位置づけられているようです。
本書に収録された詩や作文を書いたのは1950年ごろの中学生とのことですから、1935年ごろの生まれ、私の父母とほぼ同年代ですね。
自分の親や兄弟が出征し、自分たち自身も戦中・戦後の厳しい生活環境を生きている最中、彼らが綴った飾らない文章は心に響きます。その中からいくつか、特に印象に強く残ったところを書き留めておきましょう。
まずは、「母の死とその後」という江口江一くんの作文から。
(p37より引用) 僕は、こんな級友と、こんな先生にめぐまれて、今安心して学校にかよい、今日などは、みんなとわんわんさわぎながら、社会科『私たちの学校』 のまとめをやることができたのです。
明日はお母さんの三十五日です。お母さんにこのことを報告します。そして、お母さんのように貧乏のために苦しんで生きていかなければならないのはなぜか、お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています。私が田を買えば、売った人が、僕のお母さんのような不幸な目にあわなければならないのじゃないか、という考え方がまちがっているかどうかも勉強したいと思います。
とりわけ貧乏な暮らしをしている江一くんですが、この真摯で前向きな向学心と他人を思いやる優しい気持ちは素晴らしいですね。
そして、次は、江口俊一くんの「父の思い出」。
(p51より引用) そのころ「天皇陛下からきたんだ。」といって、役場で盃を持って来て仏壇にあげた。そのとき、弟が「とうちゃんばころして、さかずきなのよこしたてだめだ。」といって泣いた。・・・
ほんとうのところ、お母さんも、私も、家の人はみんな、こんな、こんなさかずきもらうよりも、生きているお父さんをかえしてもらいたかったのだ。・・・
ほんとうは、お父さんは、戦争になんか行きたくなかったんだと思う。自分の生活や、家のことをほんきで考える人は、だれも戦争に行くのなんかいやなことはあたりまえだと思っている。
俊一くんと俊一くんの家族にとっての辛い「戦争の記憶」であり、正直な「戦争への想い」です。
その他、門間きみ江さん、門間きり子さんが書いた学級日記「なんでも聞く子供」にはこういうくだりがありました。
(p117より引用) 「先生が『なんでもハイハイということを聞く子供は、封建的な子供でわるい子供だ。』とおしえていたべ。・・・」
「それから、『百姓は、本なんかよむひまがないのはあたりまえだ。』というのにも○つけているぜ。」といった。
このことでみながやがやになり、「ほんてん、ンだべか。(ほんとに、そうだろうか)」などと議論して、次のようなことが、黒板にかかれた。
⑴ ラジオなんか聞いていたり、本なんか読んでいたりすると「わらじでもつくれ」とごしゃかれる。
・・・
⑸ ハイハイとなんでもきく子供は封建的な子供だというけれども、ハイハイときかねば生活がますます苦しくなるから、ぜひともきかんなねんだ。
この五つだった。先生はだまって黒板を見ていた。
日々の生活の辛さという現実とこうあるべきという理想との衝突を示す一面です。
とはいえ、何か気になることがあると、みんなで議論し自分たちとしての考えをまとめていく、この時期、こういう思考様式や行動形式が当たり前のこととして身についているのは素晴らしいことだと思います。
さらに、川合義憲くんの「くぼ」という作文にはこんなことが紹介されています。
村の田畑の広さを実際に調べようとして、義憲くんはお父さんから強く止められました。
(p236より引用) 私たちの先生が、はじめてきたとき、
「勉強とは、ハテ?と考えることであって、おぼえることではない。そして、正しいことは正しいといい、ごまかしをごまかしであるという目と、耳と、いや、身体全体をつくることである。そして、実行出来る、つよいたましいを作ることである。」
と壇の上で、さけんでから、もう一年たった。
そのあいだ、どんなときでも、先生は、このことを忘れさせなかった。自治会はもちろん、どんなちっぽけなことでも、充分ロンギさせ、考えさせることを忘れなかった。
そして、先生からそう教わった義憲くんは、お父さんの言葉と対比させて頭を悩ませます。
(p237より引用) はて?
私は一体何を考えればよいのだろう。
私は一体どうすればよいというのだろう。
先生は、
「ぜったいごまかしがあってはならない。」というし、
おっつぁは、
「ごまかしや、ヤミがなければ、今の世の中ではくらしてゆけない。」というし、いったい、何がわるいんだ。
こういった自律を育む教育環境が大きく影響しているのだと思いますが、佐藤藤三郎くんの「ぼくはこう考える」という作文には、しっかりとした思考と主張が記されています。
(p155より引用) ほんとに今三十代四十代の人が子供のときとはくらべることができないほど、農村のくらしがよくなっているのだ。だからこそ、いまのうち本をよんで勉強しておこうと思うのだ。だがそんなによくなったにもかかわらず、たった1冊の本を読む時間すら持っていないのだ。これでは私たちがどうがんばってみたところで、本を沢山よみ、上の学校にはいった人から政治をとられるだろう。そうすれば、そういう人は金持に都合のよい政治をとるだろう。そうすれば、どう考えてみたところで私たちがよくなりっこないだろう。
あらゆる少年雑誌を見よ!
あらゆる少年新聞を見よ!
あらゆる本を見よ!
それがどうであるというのだ!
そこにはまったく日を自由に使える子供たちのために、「五日制の土曜日は、こんな計画を立てて」とか、「日曜日はこんな計画でたのしくすごそう」等々、遊びと勉強の計画があるだけで、私たちのような山の子供たち、年中労働にかりたてられている子供たちがどんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか、ちっとも書いていないじゃないか!
本書の最後に収録されている藤三郎くんの「答辞」に、山元中学校での彼ら彼女らの成長の証しが高らかに謳われています。
(p300より引用) 私たちはもっと大きなもの、つまり人間のねうちというものは、「人間のために」という一つの目的のため、もっとわかりやすくいえば、「山元村のために」という一つの目的をもって仕事をしているかどうかによってきまってくるものだということを教えられたのです。
ああ、いよいよ卒業です。ここまでわかって卒業です。本日からは、これも先生がしょっ中いっている言葉どおり、「自分の脳味噌」を信じ、「自分の脳味噌」で判断しなければならなくなります。さびしいことです。先生たちと別れることはさびしいことです。しかし私たちはやります。今まで教えられて来た一つの方向に向ってなんとかかんとかやっていきます。
私たちはやっぱり人間を信じ、村を信じ、しっかりやっていく以外に、先生方に御恩返しする方法がないのです。先生方、それから在校生の皆さん、どうかどうか私たちの前途を見守って行ってください。
山形の裕福とは縁遠い山村の中学校です。
日々暮らしに苦労が絶えないような生活環境の中、ここまで自分たちの考えを見事に自信をもって宣言できる生徒たち。素晴らしい、これは本当に“驚き”以外の何物でもありません。
8本の短編作品によるオムニバス映画です。
身近な人と人のふれあい、関わり合いをモチーフに芸人さんと俳優さんが渡り合った「企画モノ」ですが、どうでしょう、好みは分かれるように思います。
玉石混交、正直なところ “意味不明” な作品もあって・・・、やっぱり「短編」は難しいですね。
とはいえ面白いチャレンジなので、その心意気は大いに称えましょう!
いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。
「梅津美治郎」、名前は聞いたことがあるですが、それ以上の知識はありませんでした。太平洋戦争の継続に懐疑的であった“最後の参謀総長”のこと、ちょっと気になったので手に取ってみました。
梅津美治郎の人となりについては様々紹介されていますが、当時の軍人としては珍しく “親分肌” ではなく、頭脳明晰で一見親しみ難い印象を与えていたようです。
梅津が関東軍司令官だったころのエピソードです。
(p131より引用) 梅津は親分子分の関係を作ることはしなかったが、前線将兵への心遣いは忘れなかった。何より将兵をねぎらい、時には酒を酌み交わして信頼感を醸成することで、その統率にも益することが多かっただろう。そして梅津は五年におよぶ軍司令官在任中、ついに一度も国境紛争を起こさせなかった。歴史において「何かを行なった(起こした)」功績(あるいは失敗)は記録されやすいが、「何かを起こさせなかった」ことは目立たず、忘れられてしまうことが多い。しかし、それも大きな功績であろう。
そして、この「何かを起こさせなかった」という梅津参謀総長の功績として、戦争最末期における「細菌戦の中止」が紹介されています。
1945年3月、帝国陸海軍では「細菌に感染させたネズミや蚊を潜水艦で運び、アメリカ本土もしくは米軍に占領された島に放つ」という細菌戦(PX作戦)が決行に移されるところでした。
(p233より引用) 米内光政海軍大臣もこれを承認し、あとは決行されるのを待つだけ、という段階になっていた作戦を中止させたのが、他ならぬ梅津だったのである。
「細菌を戦争に使えば、それは日米戦という次元のものから、人類対細菌といった果てしない戦いになる。人道的にも世界の冷笑を受けるだけだ」
というのが反対の理由であった。
(p234より引用) 太平洋戦争では、勝者アメリカが無差別爆撃や原子爆弾によって非戦闘員を大量に殺傷した。しかし、日本はギリギリの段階でこれを踏みとどまったのである。戦局不利な状況で「何が何でも」「どのような手段に訴えても」挽回を期そうとするなか一人、理性を失わず、「人類に対する戦争」を阻止した梅津の功績は、けっして小さくはない。
この最後の最後、軍部を中心に戦争に勝利するためには手段を選ばないという風潮のなか、この決断を下す英哲な判断力は並大抵のものではありません。
やはり、最後は「人」です。大きな歴史の節目に「人」がいるかどうかで、その後の世界は大きく変わります。