井上真央さん、永作博美さんは言うに及ばず、森口瑤子さん、余貴美子さんも見事な演技でしたね。特に、
いつも利用している図書館の「新着本」のリストで目に付いた本です。
「ホンモノの偽物」という気になるタイトルは、私の注意を惹くには十分でした。
“偽物”をテーマにした著作ですが、対象にしている範囲はいわゆる“贋作”に止まらずかなり広く取り上げているので、その対象ごとに興味深い切り口がいくつも提示されています。
最初に取り上げているのは、「ウォーホルなしでつくられたウォーホル作品は本物か?」という問いかけ。
当初から分業制で制作されている版画作品の場合、原版の作者の死後であっても「ホンモノの原版」から刷り上げられたものは「ホンモノ」と言えるのではないかとの指摘はある程度の納得感があります。
また、「天然ダイヤモンドと人工ダイヤモンド」に関していえば、生成過程は異なるといえども生成物の化学的組成は全く同一であれば、両者とも“モノ”としては真正な“ダイヤモンド”でしょう。
むしろ論点のひとつは、生成過程が“天然”、すなわち人の作為を伴わず自然の偶然の条件下において(奇跡的に)生成されたという“プロセス”に「価値」を置くか否かという点だと思います。「ホンモノの人工ダイヤモンドを“天然ダイヤモンド”と偽ると、それは『偽物』」ということです。
本書の最後に著者は、こう結んでいます。
(p303より引用) 「ホンモノの偽物」は、いかに、なぜ、どのような状況で、わたしたちは物事を真正だと受け入れられるのか、そして受け入れるべきなのかということを探る機会を与えてくれる。何かを真正だと決めつける前に、あるいは偽物だと否定する前に、そのモノの目的や意図、コンテクストと、わたしたちが何をホンモノとして受け入れるのかについて考えるべきだ。それが重要なのは、つまり、モノのステータスはつねに変化し、つねに進化しているからだ。
ローマの哲学者ペトロニウスが言ったように、偽物は世界を欺くだろうが、だからといって、わたしたちの「ホンモノの偽物」に重要な文化的歴史や意味がないということではない。
悪意をもった「捏造」は明確な概念ですが、「ホンモノ」というのは人により抱くイメージ(定義)にかなりの差があるように思います。そこに「ホンモノの偽物」が現出するのでしょう。
こういった著作を読むと、改めて“多様な視点”を意識し、そこから“新たな気づき”を得ることができます。欲を言えば、もう少し写真や図版があればより分かりやすかったと思いますが、私にとっては普段あまり意識することのないテーマを取り上げてくれた興味をそそる内容の本でした。
出版当時は非常に話題になった本ですが、数年経った今でもまだ図書館の貸し出しでは待ち行列が続いています。
私もユヴァル・ノア・ハラリ氏の著作は以前「21Lessons:21世紀の人類のための21の思考」を読んだことはあるのですが、遅ればせながらこちらの本も読んでみることにしました。(私が聞いているpodcastの番組でPeter Barakanも推奨されていました)
内容はとても濃密なので気になったところを書き出していると際限なくなります。
まずは、著者が歴史の大きな節目として示した“3つの革命”を押さえておきます。
(上p14より引用) 歴史の道筋は、三つの重要な革命が決めた。約七万年前に歴史を始動させた認知革命、約一万二〇〇〇年前に歴史の流れを加速させた農業革命、そしてわずか五〇〇年前に始まった科学革命だ。
まず最初の「認知革命」ですが、著者は、ホモ・サピエンスに及ぼしたそのインパクトを次のように指摘しています。
(上p50より引用) 言葉を使って想像上の現実を生み出す能力のおかげで、大勢の見知らぬ人どうしが効果的に協力できるようになった。だが、その恩恵はそれにとどまらなかった。人間どうしの大規模な協力は神話に基づいているので、人々の協力の仕方は、その神話を変えること、つまり別の物語を語ることによって、変更可能なのだ。適切な条件下では、神話はあっという間に現実を変えることができる。たとえば、一七八九年にフランスの人々は、ほぼ一夜にして、王権神授説の神話を信じるのをやめ、国民主権の神話を信じ始めた。このように、認知革命以降、ホモ・サピエンスは必要性の変化に応じて迅速に振る舞いを改めることが可能になった。これにより、文化の進化に追い越し車線ができ、遺伝進化の交通渋滞を迂回する道が開けた。ホモ・サピエンスは、この追い越し車線をひた走り、協力するという能力に関して、他のあらゆる人類種や動物種を大きく引き離した。
神話にもとづく「見知らぬ人どうしの協力」が、ホモ・サピエンス独特の進化のドライブとなったのです。
そして、次は「農業革命」。著者によるこのイベントの評価はかなり刺激的でした。
(上P107より引用) 農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。
過去より現在、現在より未来は“より幸福になる”といった無思慮でリニアな歴史観の否定です。この記述に続く「小麦の栽培」にかかる記述はさらにショッキングですね。
(上P109より引用) 新しい農業労働にはあまりにも時間がかかるので、人々は小麦畑のそばに定住せざるをえなくなった。そのせいで、彼らの生活様式が完全に変わった。このように、私たちが小麦を栽培化したのではなく、小麦が私たちを家畜化したのだ。
完全に今までの理解を覆されました。著者は、この“農業革命の意義”は「以前より劣悪な条件下であってもより多くの人を生かしておく能力」だと看破しています。
3番目は「科学革命」。
(下p59より引用) 科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった。
進んで「無知」を認める意思をスタートに、人類は新しい知識の獲得を目指しました。
そのために近代科学は「観察結果」を収集します。そういう科学の成果は数学により「包括的な説」にまとめられ、それを活用した新しい力の獲得・テクノロジーの開発につながっていくのです。
これら「3つの革命」を経て、著者は、“未来のサピエンス像”についてこう語っています。
(下p260より引用) 私たちは、将来まさに自分と同じような人々が、高速の宇宙船で星から恒星へと旅すると考えたがる。将来、私たちのような感情とアイデンティティを持った生き物がもはや存在しなくなり、私たちのものの影が薄くなるほど優れた能力を備えた、馴染みのない生命体に取って代わられる可能性など、考える気がしないのだ。
(下p265より引用) 私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽 しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。
自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?
さて、本書を読み通して、私の関心を惹いた著者の「思考スタイル」に関するコメントを最後に書き留めておきます。
“歴史を考える”ことの意味についての指摘です。
(下 p47より引用) 歴史は決定論では説明できないし、混沌としているから予想できない。あまりに多くの力が働いており、その相互作用はあまりに複雑なので、それらの力の強さや相互作用の仕方がほんのわずかに変化しても、結果に大きな違いが出る。
(下 p48より引用) それでは私たちはなぜ歴史を研究するのか?物理学や経済学とは違い、歴史は正確な予想をするための手段ではない。歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を拡げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。たとえば、ヨーロッパ人がどのようにアフリカ人を支配するに至ったかを研究すれば、人種的なヒエラルキーは自然なものでも必然的なものでもなく、世の中は違う形で構成しうると、気づくことができる。
今の世界は、“成るべくして成った”わけではなく、“偶然の産物”に過ぎないということを意識すると、“価値観を相対化”することができます。これはとても大切な視点ですね。
SNSのお薦めで表示されていたので気になった本です。
石橋湛山はジャーナリスト出身の政治家。戦後、第55代内閣総理大臣の任に就きましたが、その在任期間は65日間という短さでした。総理大臣としては自らの健康問題による全く想定外の退任でしたが、ジャーナリストとして、経営者として、政治家・主要閣僚として、教育者としての石橋氏の思想や言動には興味深いものがありました。
特に印象に残ったのは、石橋氏が立正大学学長として学生に対して語った言葉です。
(p258より引用) 諸君に大切なことは次のような理解だと明かすのである。
「何らかの前提や思想感情に支配される事なく、心をやわらかにして、世の中の物を見、事に当るという事であります」
心をやわらかにしなさい、そうすれば真理を求める熱意は必ず実るであろう、というのが石橋の説いた哲学であった。心をやわらかにするとの意味を盲従と考えてはいけない、やわらかにする事で真の批判精神が生まれるとくり返すのである。
そして、首相を辞した翌年の卒業生には、こう手向けました。
(p260より引用) 君たちはまだ若いから甘やかされている、と言ったあとに、「(しかし)甘さには、いつでも、夢がともなっている。夢には、未来がある。現代の日本人に欠けているものは、未来をつくりだす夢ではあるまいか」と励ましている。
本書の帯には、「首相の格は任期にあらず!」と大書されています。
(p299より引用) 歴代首相の中で、石橋と対峙する言い伝えは「最長の在任、最小の事績」と言えようか。
首相というポストには、石橋のように政治家になる前の言論人時代の信念がそのまま刻まれたケースと、政治家になる前の信念が屈折した形で刻まれているケースがある。そこに石橋と岸の違いがあるということになろう。さらに最長の首相がさしたる事績を残さなかったとするならば、そこには首相の格の違いが浮きぼりになるだけではないだろうか。
石橋氏を継いだ政権、そして最近長期在任を終えて退陣した政権を強く念頭において、保阪氏は本書の「おわりに」でこう記しました。