OMOI-KOMI - 我流の作法 -

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エッセンシャル思考 (グレッグ・マキューン)

2015-06-28 18:40:48 | 本と雑誌

 久しぶりにこの手の本を手に取ってみました。何か新しい気づきがあるでしょうか?

 著者の最初のメッセージは、「エッセンシャル思考は、より多くの仕事をこなすためのものではない」というものでした。


(p14より引用) エッセンシャル思考になるためには、3つの思い込みを克服しなくてはならない。
 「やらなくては」「どれも大事」「全部できる」-この3つのセリフが、まるで伝説の妖女のように、人を非エッセンシャル思考の罠へと巧みに誘う。


 “本質”は何かというメルクマールで物事を見、真に大事なこと(やるべきことを)自らの判断で決め「それだけに」集中して大きな成果をあげる、「より少なく、しかしより良く」というのがエッセンシャル思考のエッセンスです。


(p236より引用) エッセンシャル思考の人は、仕事を減らすことによって、より多くを生み出す。


 ポイントは「真に大事なものだけをやる」という点。この点を追求する「強烈なこだわり」が、他の類似本と一線を画す本書の特徴です。

 真に大事なことだけをやるということは、そのほかのものを切り捨てることでもあります。この「捨てる」というが結構難しいのです。著者は一つの章を割いて「捨てる技術」を紹介しています。

 “多数の瑣末なことを容赦なく切り捨てる”
 その具体的な方法として、「断る」ことも一つですし、「止める」こともそうです。採算の合わないプロジェクトがずるずると継続されているという姿は多くの企業でも見られるものですね。その理由のひとつとして、著者は行動経済学の概念である「サンクコスト(埋没費用)に対する心理的バイアス」をあげています。


(p180より引用) 「サンクコストバイアス」とは、すでにお金や時間を支払ってしまったという理由だけで、損な取引に手を出しつづける心理的傾向のことだ。


 以前お金を払って買ったもの、そうではなく貰ったものですら、今持っているものを手放すということに抵抗感を感じる人は多いでしょう。御多分に洩れず、私もかなり捨てるのが下手なほうです。
 その対抗策として、著者は、心理学者トム・スタッフォードのアドバイスを紹介しています。


(p185より引用) 「どれくらいの価値があるか?」と考えるかわりに、「まだこれを持っていないとしたら、手に入れるのにいくら払うか?」と考えるのだ。
 仕事やその他の活動でも、同じテクニックが使える。たとえば思わぬチャンスが舞い込んできたとき、「このチャンスを逃したらどう感じるか?」と考えるかわりに、「もしもまだこのチャンスが手に入っていなかったら、手に入れるためにどれだけのコストを払うか?」と考えるのだ。


 この、今から始めるとしたらという「0(ゼロ)ベース」からの思考法は、P.ドラッカーが、その著書『未来への決断』の中で、「あらゆる機関、政策、計画、活動について、使命は何か、それは今も正しいか、価値はあるか、すでに行なっていなかったとして、今始めるかを問わなければならない」と語っているところにも見られます。

 さて、本書を読んでの感想ですが、予想以上に参考になりましたね。著者の主張が極めてシンプルかつ明確であり、その説明も、考え方のポイントを常に「エッセンシャル思考」と「非エッセンシャル思考」との比較という形で提示してくれているのでとても分かりやすいものでした。

 最後に、私が本書の記述の中で特に印象に残ったくだりを2つ、書き留めておきます。

 まず一つ目は「失敗を認める」ということの“意味づけ”です。


(p187より引用) 自分の失敗を認めたとき、初めて失敗は過去のものになる。・・・
 失敗を認めるのは恥ずかしいことではない。失敗を認めるということは、自分が以前よりも賢くなったことを意味するのだから。


 こういう「失敗」の捉え方は、とてもユニークです。このフレーズは、かなり効きましたね。
 そして、もう一つ。


(p301より引用) 非エッセンシャル思考のリーダーは仕事の振り方があいまいで、役割と責任を明確にしない。フレキシブルやアジャイルという言葉を使って正当化する人もいるが、そんなのは言葉の濫用だ。


 各々のメンバの役割が明確であってはじめて、他のメンバの役割を知ることができ、具体的に何をサポートすればいいのかが分かるというのです。
 「フレキシブル」とか「アジャイル」とか、ついつい私もしたり顔で口に出したりしてしまいますが、この著者の鋭い指摘には「耳痛い」ところがありました。大いに反省です。
 

エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする
グレッグ・マキューン
かんき出版
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忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎 (辰野 隆)

2015-06-21 15:13:35 | 本と雑誌

 新聞の書評欄で紹介されていたので、興味をもって読んでみた本です。

 著者の辰野隆氏は、東京駅・日本銀行本店等を設計した辰野金吾氏の息子で、三好達治・小林秀雄らを教え子にもつフランス文学者。本書は、そういった辰野氏が交流した作家・文学者・友人たちとの思い出を、氏一流の筆致で著した随想集です。


(p66より引用) いささか大雑把な物の言いようではあるが、私見に拠れば、露伴、鴎外、漱石、潤一郎が近代日本の文芸苑における四天王だと思う。


 そう語る著者ですが、「露伴先生の印象」という小品の中で、日本評論の座談会にて初めて幸田露伴を直接目前に見た、その時の思い出を語ったくだりをご紹介します。


(p38より引用) もの静かに談笑する先生の微醺を帯びた温顔を眺めながら、僕は床しき翁の物語に聞き惚れる児童の楽しさを味到したのである。


 こういった滋味に溢れた表現は、最近全く目にすることはありませんね。

 さて、本書では、数多くの文化人が登場しますが、その中で、名前は知っているものの、その思想等については私として不勉強の人物が何人かいました。
 その中のひとり「長谷川如是閑」氏について語った章で、ちょっと気になった著者の記述を覚えに書き留めておきます。


(p127より引用) 考えて見ると、我が邦の感情史は二千年来の伝統を有しているにも拘らず、思想史は近々五十年来の薄化粧にすぎない。一風呂浴びれば消え失せる白粉にすぎない。明治中期までの民権も自由も竟に思想とはなり得なかった旗じるしの単語であった。現代政治家の目もあてられぬ思想の貧困が遺憾なくそれを証明している。・・・長い前途を照らす健全自由な思想さえ国歩の指針となり得そうもない事を考えると、耿々たる好学の徒も腕を拱いて、岐路に佇む他はなかろう。


 この状況は、日本の思想社会において、まさに今日も含めいつまで続くのか、「思想の貧困」という言葉が重く覆い被さります。

 さて、本書の後半部には「谷崎潤一郎」と著者との交友を著した小文がいくつか載せられています。著者と谷崎とは、府立一中以来の友人とのこと、当時から谷崎の詩作に見られる文学的素養は傑出していたものだったようです。
 そういった若き日の谷崎を著者はこう評しています。


(p231より引用) 谷崎は思想の分析や、論理を徹底せしむる方面は寧ろ不得意でもあり、あまり興味も持っていなかったらしい事である。読む者も亦、思想を論究する批評家と云わんよりも寧ろ思想の壁画を描くが如き彼の叙事詩作者的手腕に惹かれるのである。


 確かに、本書で紹介されている学生時代の谷崎の詩は素晴らしいと思います。が、それも本当に見るべきところを見て感じているのか、私自身、とても覚束ないところがあります。

 随筆といえども、本書を楽しむには、著者が言う近代日本の文芸苑における四天王、露伴・鴎外・漱石・潤一郎の作品は一通り読破しておく位の準備がなくてはだめなようです。ちなみに谷崎潤一郎の著作は「陰翳礼讃」ぐらいしか読んでいない私には・・・、到底無理です・・・。

 

忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎 (中公文庫)
辰野 隆
中央公論新社
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ファーマゲドン 安い肉の本当のコスト (P・リンベリー/I・オークショット)

2015-06-14 09:46:43 | 本と雑誌

 レイチェル・カーソンの『沈黙の春』は、以前から読んでおこうと思っていた本なのですが、そちらより先に本書を手にとってみました。

 今、世界的に拡大している「農業・畜産・漁業の工業化」がもたらす地球規模の影響について、著者たちのリアリティ溢れる警鐘が興味を惹きます。

 著者が特に注目して取り上げているのは「第一次産業の工業化」ですが、この急速な拡大による環境破壊は、様々な局面で私たちの身近な生活に悪しき影響を与えています。大気汚染や水質汚濁といった直接的なものもあれば、「ハチの減少」による農業への大打撃といった“風が吹けば桶屋が儲かる”的なケースもあります。


(p93より引用) 自然受粉に不可欠な野生のハチは、農薬まみれの単一栽培を行う工業的農業のせいで、生息地を奪われ、駆逐された。


 多くの穀物や果実は、ミツバチ等昆虫による受粉がなければ収穫すべき果実を得られないのです。


(p94より引用) 毎年、晩冬や早春には3000台ほどのトラックが米国を横断し、カリフォルニアのセントラル・ヴァレーまで約400億匹のハチを運ぶ。南北が400マイルに及ぶその広く平らな谷間には、約60万エーカーのアーモンド畑があり、世界のアーモンドの80パーセントが生産されている。その受粉は、まさに史上最大規模の受粉イベントである。その費用は高額で、現在、カリフォルニアの栽培者は、年に2億5000万ドルをハチに費やしている。これは、農業の持続不可能なやり方のせいで、自然のサポートシステムが壊れていくもう一つの事例である。


 「畜産業の工業化」も様々な環境負荷を増大させています。著者は、様々な例を紹介していますが、たとえば「水資源」に対しても深刻な影響を与えています。


(p314より引用) 戸外で放牧するシステムは、工業型システムよりも使用する真水がはるかに少ない。中でも、濃厚飼料を与えず、放牧して牧草だけで育てる場合はそうだ。水利用のバランスを崩すのは、大量の肥料と灌漑によって育てた作物を濃厚飼料にするシステムで、現在ではそれが一般的になっている。農薬や肥料、家畜の汚物による汚染を含め、穀物や大豆を主とする濃厚飼料が水資源にかける負荷は、純粋な放牧に比べて、60倍も高くなる可能性がある。


 このあたりの指摘は、先に読んだ「里山資本主義」で著者の藻谷浩介氏が抱いている問題意識と完全に重なります。

 工場飼育は、環境汚染の元凶として、人々の健康の毀損や動植物の生存にかかる自然環境の破壊をもたらすものです。それ故、工場飼育の廃止は、それらを回復に導くとともに、現在地球規模で問題となりつつある食糧難への解決策にもなるのです。


(p448より引用) 現在の食料システムは水漏れのするバケツのようなもので、生産物の半分を無駄にしている。・・・廃棄される食料や腐らせる食料を半分にするだけで、10億人を養うことができる。加えて、工業飼育される家畜に与える穀類を半減させれば、さらに10億人以上を養うことができる。それだけで、環境にほとんど負担をかけずに、将来の人口を養えるようになる。


 食糧調達のための「工場飼育」が、地球規模の食糧難の一因となっている現状は、ある意味、ちょっと古いスキームではありますが「南北問題」の側面も有しています。さらに言えば、「南」が被っている食糧難の状況は、このまま放置しておくと「北」も含めた全地球的課題に拡大するのは不可避ですから、まさに、これは地球規模の“持続的成長に対する危機”そのものなのです。


(p421より引用) 国連は、2050年までに食料供給量を現状からさらに70から100パーセント増やす必要があると予測する。それを工業型農業なしで達成するには、三つの原則に基づく常識的な取り組みが必要となる。三つの原則とは、人間の食を第一とする、食品の廃棄を減らす、未来を見据えた農業を行う、である。


 「人間の食を第一とする」に関していえば、


(p422より引用) 工業型畜産のせいで、家畜は人間と食べ物を取り合うようになった。・・・穀物など、家畜に与えられる植物性タンパク質のうち、肉やそのほかの畜産物として人間に還元される動物性タンパク質は、わずか6分の1だ。工業型農業は、食料を作る工場とは呼べない。むしろその逆で、食べ物を作るのではなく捨てており、貴重な農地を無駄にしている。


 「家畜は牧草で育てる」「魚は家畜にではなく人間に食べさせる」「豚と家禽には残飯を与える」「土壌の持続可能性を高めるために、作物と家畜を一緒に育てる混合農業に戻る」・・・、“具体的”かつ“常識的”な打ち手ですね。実行するかどうかは、やる気の問題とも言えますが、やる気を起こすには「今起こっている現実の認識」が出発点になります。

 本書は、そういった取り組みに関わる人の“バイブル”です。

 

ファーマゲドン 安い肉の本当のコスト
野中香方子
日経BP社
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プレップ 法学を学ぶ前に (道垣内 弘人)

2015-06-07 18:33:16 | 本と雑誌

 小学校からの友人の薦めで、中学校からの友人が書いた本を読んでみました。(こういうことでなければ、手に取らないジャンルの本です)

 薄ぼんやりと思い出す今から35年以上前、当時大教室で星野英一教授から教わった法学の入り口に改めて立ち戻ったような感覚ですね。ただ、私の場合は、情けないことに、それ以降、「入り口」から半歩ぐらい中に入ったところで立ち止まってしまいましたが・・・。

 さて、本書の目次はこうなっています。

  • 第1章 法学における議論の特徴
  • 第2章 法解釈の諸方法
  • 第3章 法の体系と形式
  • 第4章 法の適用
  • 第5章 法の担い手
  • 第6章 判決の読み方
  • 第7章 必要なツールと参考になる本

 どの章もコンパクトで、初学者を強く意識した分かりやすい語り口で著されています。

 たとえば「第6章 判決の読み方」。
 実学としての法律の学習においては「判例」の学習が不可欠ですが、著者はこの「判例の重要性」についてこう解説しています。
 まずは、「事件(紛争)の解決」以外の「裁判」の意味の説明です。


(p90より引用) それは、抽象的な制定法の条文が実際の事件に当てはめられることによって、その具体的な意味内容がだんだんと定まってくるということです。


 この裁判所による解釈が「判例」として尊重されるのですが、特に最高裁判所で示された法解釈は、裁判の世界では制定法の条文そのものと同程度の価値と示すことになるのです。
 この点を、著者は、「民法416条」の条文を実例として丁寧に解説していきます。

(損害賠償の範囲)
 第416条 債務の不履行に対する損害賠償の請求は・・・
 2 特別の事情によって生じた損害であっても、当事者がその事情を予見し、又は予見することができたときは、債権者は、その賠償を請求することができる。

 この第2項の解釈において、「当事者」は誰か、「・・・とき」とはいつかといった点を明確にしたのが「大正7年8月27日大審院の判決」であり、それ以降、下級裁判所も戦後の最高裁判所もこの判決にしたがって民法416条を運用しているとのこと。したがって、「民法416条2項」も法解釈の実体は、以下のように解されると説明は続きます。


(p92より引用) 裁判で適用される民法416条2項は、あたかも次のような条文となっているのです。
2 特別の事情によって生じた損害であっても、当事者〔のうち債務者〕がその事情を〔契約履行時までに〕予見し、又は予見することができたときは、債権者は、その賠償を請求することができる。


 こういう、補足説明を条文に直接記述するような具体的な説明手法は、著者ならではの工夫であり秀逸ですね。

 あとがきによると、本書は、東京大学法科大学院の入学予定者に対する授業資料がその元となっているということです。
 その点で、分かりやすさが格別なのは十分に理解できるところです。ただ、“法科大学院”の入り口でこういったレベルの知識付与が必要だとすると(自分のことを棚に上げてではありますが、)正直なところちょっと寂しい気がしますね。

 とはいえ、確かにここまで法学学習の最初の入り口にまで遡った“超入門書”は珍しいです。
 今春、法学部を卒業した上の娘には完全に手遅れですが、法学部2年生の下の娘に勧めてみましょう。さてさて、どんな感想を持つでしょうか・・・。

 

プレップ法学を学ぶ前に (プレップシリーズ)
道垣内 弘人
弘文堂
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