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反省させると犯罪者になります (岡本 茂樹)

2014-10-19 09:31:19 | 本と雑誌


 かなりショッキングなタイトルの本です。

 著者の岡本茂樹氏は立命館大学産業社会学部教授ですが、刑務所での累犯受刑者の更生支援活動にも従事しています。
 本書は、その岡本氏の実現場での豊富な経験を踏まえ、犯罪者を更生に導く心のケアについて熱く説いたものです。

 まずは、「裁判と反省」についての著者の見解です。


(p36より引用) 私は裁判において被告人が「反省していること」を考慮することに疑問を感じないではいられません。
 誤解がないように言っておきますが、私は何も被告人に対して「反省しなくてもいい」と言っているわけではありません。言いたいのは、裁判という、まだ何の矯正教育も施されていない段階では、ほとんどの被告人は反省できるものではないということです。・・・なぜなら、裁判という場でどんなに反省の弁を述べたとしても、被告人は自分の犯した罪と向き合っていないからです。自分の罪と向き合うのは、長い時間をかけて手厚いケアをするなかではじめて芽生えてくるものなのです。


 犯罪者は、刑務所や少年院等で矯正教育を受けることになっています。そのなかで定番の矯正手法として行われているのが「反省文」の提出です。しかし、これについて著者は「百害あって一利なし」と断じています。


(p63より引用) 反省文は書かされた人の「本音を抑圧させている」ということです。そして、抑圧はさらなる抑圧へとつながり、最後に爆発する(犯罪を起こす)のです。


 ここで著者がイメージしている「反省」は、人に強制された反省です。あるいは、真の要因に行きあたる前の教科書的表現に止まっている「反省」です。
 それゆえに「反省文」は本質的な解決に導く手段にはなり得ていない、むしろ逆効果だというのです。


(p76より引用) 反省は、自分の内面と向き合う機会(チャンス)を奪っているのです。問題を起こすに至るには、必ずその人なりの「理由」があります。その理由にじっくり耳を傾けることによって、その人は次第に自分の内面の問題に気づくことになるのです。


 続けて、著者はさらに重要な点を指摘しています。


(p76より引用) この場合の「内面の問題に気づく」ための方法は、「相手のことを考えること」ではありません。・・・最初の段階では「なぜそんなことをしたのか、自分の内面を考えてみよう」と促すべきです。問題行動を起こしたときこそ、自分のことを考えるチャンスを与えるべきです。周囲の迷惑を考えさせて反省させる方法は、そのチャンスを奪います。


 この途上では、加害者であるにもかかわらず、被害者や周囲の人々に対する反発の気持ちも吐露されます。しかし、そういった否定的感情が外に吐き出されないと、かえって孤独感やストレスが溜まり、再び犯罪という形で爆発する恐れが消えないのだというのが、著者の主張です。
 そういった否定的感情を出し尽くし、それを他人に受け止められて初めて、自分のやった過ちに向き合えるのだと言います。そこからが、本当の「反省」の始まりです。

 犯罪を犯す多くの人々は、社会の中で“孤立”した存在です。周りの人とのコミュニケーションが極めて不得手です。


(p199より引用) 自分のことを受け入れてもらったり認めてもらったりしたときは、「ありがとう」「うれしい」と言葉でちゃんと相手に伝えましょう。そして、自分のことを受け入れてもらえなかったり認めてもらえなかったりしたときは「寂しい」「悲しい」といった言葉で自分の気持ちを素直に表現しましょう。


 言葉に出して素直に自分の気持ちを表すのは、決して恥ずかしことではありません。


(p200より引用) 「沈黙は金」という言葉があります。しかし、言葉で言わなくても分かり合える時代は終わりました。黙っていても、相手の気持ちを察することは美徳と考えられてきましたが、今はちゃんと自分の気持ちを言葉で伝えていかないと、良い人間関係はつくれません。


 社会における最後のセイフティネットは、自分の「理解者」の存在だと思います。自分の気持ちを吐露でき、それを澱むことなく受け入れてくれる相手がいることが、犯罪の発生を防ぎ、また再犯を防ぐ鍵なのです。

 「更生」は「更正」ではありません。「更に生きる」、“生まれ変わり、よりよく生きる”ということです。

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ウルトラマン

2014-10-13 21:08:17 | 日記・エッセイ・コラム

 少しずつ見続けていた「ウルトラマン」全39話を見終わりました。
 私は、この作品を小学生のころ毎週熱中して見ていた世代です。

 改めて見直してみると、こどもの工作のような貧弱な仕掛けもあれば、よくもまあこれほどの物を手作業で作り上げたなと感嘆するようなセットもあって、この落差がとても楽しいですね。

 脚本や演出にも、今では許されないような個性と遊び心が溢れていて、テレビ黎明期のマグマを感じます。

 その中でもやはり“実相寺昭雄”監督のインパクトは別格です。
 実相寺監督といえば「ウルトラセブン」で、モロボシ・ダンとメトロン星人が畳敷きの部屋で卓袱台を挟んで語り合うシーンが有名ですが、この「ウルトラマン」シリーズでも、ジャミラやシーボーズといった強いメッセージ性をもった怪獣を産み出しています。

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逸楽と飽食の古代ローマ―『トリマルキオの饗宴』を読む (青柳 正規)

2014-10-08 23:47:08 | 本と雑誌


 上の娘が、大学の講義で使うとのことで図書館で借りてきた本です。ちょっと面白そうだったので読んでみました。

 案内によると、本書が扱っている「トリマルキオの饗宴」は、古代ローマ時代の風刺小説「サテュリコン」の最も有名な場面とのこと。
 主人公のトリマルキオは、成功して財を成した大富豪の解放奴隷です。

 本書において、著者の青柳氏は、そのトリマルキオが催した饗宴の様子の描写を取り上げて、その背景や意味するところを克明に解説していきます。その内容は、饗宴に供された料理の細かな解説もあれば、トリマルキオの振る舞いから読み解くことのできる当時のローマの世情の説明もあり、とても興味深いものです。

 「饗宴」の様子から当時の人々の生活を垣間見ることができるのは、ローマ人にとっての饗宴の意味づけが、まさに社会的なものであったからです。


(p259より引用) ローマ市民の日常生活において夕食は一日のクライマックスであり、目的でさえあった。家族、一族郎党、友人、同業者、信仰を同じくする者などさまざまなレヴェルと規模の共同体の結束を確認し強めるための、いわば儀式の性格をもっていた。それゆえに、ローマ人の夕食は、貧富によって内容に大きな違いがあったとはいえ、宴もしくは饗宴という言葉におきかえるほうが適しているのである。


  本書が扱った「トリマルキオの饗宴」は、「解放奴隷」という立場を同じくしたメンバの集まりでした。


(p204より引用) ローマの平和が実現したことにより、幸運に恵まれた者であれば、物質的欲望をかなえてくれるだけの経済的、社会的条件が整っていた。その物質的な欲望と恩恵を象徴する具体例の一つが饗宴であり、饗宴に参じることのできる者すべてがそのことを実感した。


 解放奴隷が台頭していった社会的背景について、著者はこう解説しています。


(p36より引用) 騎士身分から元老院身分への出世が可能な騎士たちは、その上昇志向のゆえに政治志向という、皇帝から見ればやっかいは問題を抱えていた。ところが、解放奴隷は、少なくとも当人自身にとってそのような可能性は閉ざされており、職務専念による権限とそれに付随する経済利得の増大にしか関心がなかった。


 社会的な名誉が伴わない解放奴隷の財力は「拝金主義」を助長するものとみなされ、しばしば当時の風刺小説の格好の材料になったのです。
 「サテュリコン」の作者であるペトロニウスが描いた「饗宴」の中のトリマルキオが成功者としての尊敬というより成金趣味の嘲笑の対象として描かれているのは、そういった当時すなわちローマ帝政繁栄期の世情がもたらした故のようです。

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