OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

ドラッカー365の金言 (P・F.ドラッカー)

2006-06-30 01:11:35 | 本と雑誌

 ドラッカー氏が昨年亡くなられて以来、読んでみようと思っていた本です。

 昨今は、マネジメントスタイルが従来型企業とは全く異なる新たなサイバー系企業が脚光を浴びています。その中で、過去のエクセレントカンパニーに大きな影響を与えてきたドラッカー氏の数々の箴言は、どのような位置づけ・意味づけがなされるのでしょうか?

 やはり、氏の拠って立つ本質的な視点ゆえに、企業像が様変わりしつつある?現代においても、むしろ、そういう変革の潮目である時期であるがこそ、反芻すべき貴重な示唆が数多くあるように思います。

 たとえば、「自由の責任」についてです。

(p49より引用) 自由とは、行なうことと行なわないこと、ある方法で行なうことと他の方法で行なうこと、ある信条をもつことと逆の信条をもつことからの選択である。楽しいどころか重荷である。それは、自らの行動と社会の行動にかかわる選択の責任である。

 また、「シェア」については「最大ではなく最適」を目指すべきと言います。

(p223より引用) 市場を支配すると居眠りに襲われる。独占的な地位ともなれば自己満足に陥る。市場を支配すると、内部にイノベーションへの抵抗が生まれる。変化に対応することが難しくなる。・・・
 市場シェアとして狙うべきは、上限ではなく最適である。

 ドラッカー氏お得意のマネジメントの要諦については、次のようにまとめ、

(p346 より引用) マネジメントには基本的な仕事が五つある。
第一に、目標を設定する。・・・
第二に、組織する。・・・
第三に、チームをつくる。・・・
第四に、評価する。・・・
第五に、自らを含めて人材を育成する。

 組織については、以下のような感じです。

(p350 より引用) 組織構造にはいくつかの守るべき原則がある。
第一に、組織は透明でなければならない。・・・
第二に、最終的な決定権をもつ者がいなければならない。
第三に、権限には責任がともなわなければならない。
第四に、誰にとっても上司は一人でなければならない。

 さて、そもそも不可能なことですが、数あるドラッカー氏の箴言のうちで最高のフレーズをひとつあげるとすれば、私にとってはこれです。

(p69より引用) 変化をコントロールする最善の方法は自ら変化をつくりだすことである。
 チェンジ・リーダーとなるためには、変化を脅威ではなくチャンスとして捉えなければならない。・・・
 自ら未来をつくることにはリスクがともなう。しかし、自ら未来をつくろうとしないことのほうがリスクは大きい。成功するとはかぎらない。だが、自ら未来をつくろうとせずに成功することはない。

 本書は、オリジナルではなく、今までの氏の著作からの抜粋の集合体です。
 もちろん、氏の示唆するところの真髄を理解するには原書にあたるべきであることは言うまでもありません。が、抜粋だけでもやはり十分刺激になります。

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学問の達成 (職業としての学問(M.ウェーバー))

2006-06-29 01:15:48 | 本と雑誌

 ウェーバーは芸術と学問とを比較してこう論じます。
 彼は、芸術には「進歩」がないと言います。「達成」された芸術は、時代を経ても、他に取って代わられたり時代遅れになったりしないという意味です。
 他方、学者の仕事は、「時代遅れになるが故に」常に進歩すべく運命づけられていると説きます。

(p31より引用) 学問の場合では、自分の仕事が十年経ち二十年経ちまた五十年経つうちにはやがて時代遅れになるといふことは誰でもが知つてゐるのである。これは学問上の仕事に共通の運命である。否、まさにここにこそ学問の意義は存在する。

 ひとつの学問上の業績は、それに続く学究の礎となるのです。

(p31より引用) 即ち学問上の「達成」は常に新しき「問題提出」を意味する。それは他によつて「打ち破られ」時代遅れとなることをむしろみづから欲するのである。

 そういった学問について、ウェーバーはどう意味づけしているのでしょうか。

(p60より引用) さて最後に諸君は問ふであらう、然らば一体学問は実践的また人格的なる生活に対して如何なる積極的寄与をなすか、と。かくて我々は再び学問の「職分」に関する問題に立帰るのである。まづ第一に当然考へられてよいのは、技術、つまり実生活において如何にすれば外界の事物や他人の行為を予測によつて支配できるか、といふことの知識である。・・・では第二の点を挙げよう。・・・即ち物事の考へ方、及びそのための道具並びに訓練がそれである。・・・然し幸なことには学問の仕事はこれでお仕舞になつた訳ではない。我々は更に第三のものに、即ち明晰といふことに、諸君を導くことができる。

 学問の寄与は、実生活に「明晰」を与えることだと言います。学問の求める論理的整合性や演繹的必然性に重きをおく姿勢を伝えます。

(p62より引用) ここにおいてか我々は、明晰といふことのために為しうる学問の最後の仕事に当面する、そして同時にこれがまた学問の為しうることの限界ともなるのである。即ち、これこれの実際上の立場はこれこれの究極の世界観上の根本態度-それは唯一のものでも、また種々の態度でもありうる-から内的整合を以つて、従つてまた自己欺瞞なしに、その本来の意味を辿つて導き出されるのであつて、決して他のこれこれの根本態度からは導き出されないといふこと、これを我々は諸君に言明しうるし、また言明しなくてはならない。

 この「明晰」さが、学問を学んだ者をして、「自己の行為に対する責任」を負わしめるのです。

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学問への「情熱」 (職業としての学問(M.ウェーバー))

2006-06-28 01:28:35 | 本と雑誌

 先の「職業としての政治」に続いて、ウェーバーです。

 この本は、ミュンヘンの学生集会における講演が元で、その後、単行本として出版されたものです。当時のドイツ国内は第一次世界大戦直後の動揺期にあり、学生達は既存秩序に対する不信感を抱いていました。
 そういった学生を前にして、ウェーバーは熱弁を振います。

 まずは、学問を志す上での一途な姿勢、すなわち「情熱」についてです。

(p24より引用) 学問に生きる者は、独り自己の専門に閉ぢ籠もることによつてのみ、自分はここに後々にまで残るやうな仕事を成し遂げた、といふ恐らく生涯に二度とは味はれぬであらうやうな深い喜びを感ずることができる。・・・だからして、謂はばみづから遮眼革を着けることのできない人や、また自己の全心を打込んで例へば或る写本の或る箇処の正しい解釈をうることに夢中になるといつたことのできない人は、先づ学問には縁遠い人々である。

 ウェーバーは、重箱の隅をつつくに似たぐらいの専心を求めます。学問に生きる者には、このような一途な「情熱」が不可欠だと言います。そして、その情熱が学問上の「霊感」いわゆるインスピレーションを生み出します。

(p25より引用) 勿論情熱は所謂「霊感」を生み出す地盤であつて、この「霊感」といふものは学者にとつて決定的なものなのである。

 「霊感」は、何もせずして得られるものでもなく、また、得ようと思ったときに自在に得られるものでもありません。
 常日頃から全力で学問に取り組んでいる人のみが、それを得る資格を手にします。

(p25より引用) 実験室でもまた工場でも、何かしら有意義な結果を出すためにいつも或る-然もその場に適した-思ひ付きを必要とするのである。とは言へ、この思ひ付きといふものは無理にえようとしても駄目なものである。勿論それは単に機械的な計算などとは凡そ縁遠い。・・・
一般に思ひ付きといふものは精出して仕事をしてゐるやうなときに限つてあらはれる。

 ただ、この「霊感」も努力をしている人全てが得られるものではないようです。

 教師として大学に職を得ることも、「運」が大きく左右するのと同じく、「霊感」を得て偉大な業績を残すか否かも、かなりの部分「運」によると言います。この心情の昇華ができないと・・・ちょっと学問に生きるのも辛いです。

(p27より引用) 作業と情熱とが-そして特にこの両者が合体することによつて-思ひ付きを誘ひ出すのである。・・・然しそれは兎も角、かういつた「霊感」が与へられるか否かは謂はば運次第の事柄である。学問に生きる者はこの点でもかの僥倖の支配に甘んじねばならぬ。優れた学者でありながらよい思ひ付きをもちことができない人もあるのである。

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園長の信念 (〈旭山動物園〉革命(小菅 正夫))

2006-06-27 00:14:16 | 本と雑誌

Seal  この「〈旭山動物園〉革命」という本、裏表紙には、「旭山動物園、驚異の復活には、ビジネスモデルの原点がある!」と書かれています。
 先のBlogでもご紹介したとおり、マーケティングやマネジメント的な面からみても、確かに参考になる内容が豊富に含まれています。

 が、この本は、もっと素直に「旭山動物園を舞台にした真剣な想い物語」ととらえるべきだと思います。
 この本のあちらこちらに感じられる著者の信念が、印象に残ります。

(p19より引用) 野生動物と向き合い、園長として動物園のスタッフをみていて思うのは、動物も人間も、「自分らしさ」を発揮できる環境はなにものにも替え難いということである。

(p58より引用) 自然界では、動物園のように、一種類の動物だけで生きているものはいない。何かしらほかの動物と共存している。一種類だけで固まって生きるというような、変わったことをしているのは、人間ぐらいだ。だからいろんなひずみが出る。

(p71より引用) 私がつねづね言っているのは、「地球上に生きる生物の命はみな平等だ」ということだ。サルの命はたまたまサルという入れ物に入っているだけだし、ホッキョクグマの命もたまたまホッキョクグマという入れ物の中に入っているだけ。ペンギンの命もたまたまペンギンという入れ物に入っているだけだし、私たち人間の命も、人間という入れ物の中に入っているだけ。だから、命に優劣はない。命は、等しくかけがえのないものなのである。

 「あとがき」にもこう記されています。

(p178-179より引用) 動物園という世界に入って三十年以上が過ぎた。その間、折節思い出す言葉がある。それは札幌に住んでいたとき、祖母に連れられて行った寺の住職が言った言葉である。
 住職がおもむろにこう質問してきた。
「地獄とはなんだと思う」
答えられないでいると、住職は言った。
「地獄とは、やりたいことができないことだ」と。・・・
 いまの動物園づくりの根本にあるのは、住職から言われた言葉だったかもしれない。動物も人間も、やりたいことができなければ幸せではない。だから、それぞれの動物のいちばんかっこいいところは、彼らがやりたいことをやっている瞬間である。それをお客さんに見せたかった。これからも、動物たちのイキイキとした姿に感動していただけるような動物園にしていきたい。

 あと、著者の学生時代の経験にもとづく以下のコメントも、ちょうどW杯の時期、「代表の誇りと義務」という点で考えさせられるものでした。

(p103より引用) レギュラーになれなかった控えの部員たちが、イキイキとしているか否かがそのチームを判断する重要なバロメーターであると考えているのだ。彼らが、レギュラー選手を支えるために、自分にしかできない努力をどれだけやったか。それがいちばん大事だと思う。もしそれができていれば、選手には稽古台になってくれた部員の思いが肩にかかっているはずだ。その思いが強いほど、土壇場で信じられない力が出る。あいつらのために頑張らなければという思いが力になるのだ。チームが勝ったら、実は控えの部員が偉い。そう私は思っている。

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コンセプトワークとしての「旭山動物園」 (〈旭山動物園〉革命(小菅 正夫))

2006-06-26 00:13:38 | 本と雑誌

Polar_bear  複数のメンバでものごとを考えたり、プロジェクトを進めたりする場合に、コンセプトワーク(意味づけ作業)が重要であることは、以前、このブログでも「刑務所建替プロジェクト」を例にコメントしたことがあります。

 旭山動物園でも、スタッフの勉強会で「動物園の意味づけ」の議論がなされたそうです。

(p22より引用) まず、「動物園とは何をするところなのか」といった動物園の存在意義の確認から始めた。・・・
 整理すれば、「レクリエーションの場」「教育の場」「自然保護の場」「調査・研究の場」の四つの役割がある。・・・その基本に関して、飼育係が共通認識を持っていれば、あとはそれぞれの飼育係に考えさせる。それをうまく動物園づくりに生かしていけばいいのだ。

 個々のスタッフが動物園の「コンセプト(意味)」を明確に共有化していれば、スタッフの自発性に委ねた自律的な運営が可能になります。スタッフの誰もが、ただ誰かに言われたことをするのではなく、自らの中の判断軸に基づいて能動的なアクション・創意工夫にチャレンジするようになるのです。

 ちなみに、旭山動物園の英語名に「WILDLIFE CONSERVATION CENTER(野生生物保護センター)という言葉をつけているのは、「自然保護の場」としての「種の保存の場」をコンセプトのひとつに掲げている証左だと言えます。

 さて、こういったコンセプトを考えたり、そのコンセプトを具現化するアクションの知恵だしをしたりするためには、それなりの検討する時間が必要です。
 幸か不幸か、旭山動物園にはその時間があったようです。

(p47より引用) いま振り返って、不遇の時期に意味があるとしたら、お金はなかったけれど、動物園についてじっくりと考える時間が与えられていたということだと思う。市から、「予算がついたから、つくりたいものを何でもつくってくれ」と言われて、思いつきでつくったとしても、いまのようにはなっていないだろうなという気がする。
 アイデアも熟成させる時間が必要だ。一度考えたアイデアを土台にして、そこに新しい考えを各自が持ち寄って再度練り直す。そういう作業をできたのは、意味のあることだった。

 もうひとつ、コンセプトワークから具体的アクション実施という一連のプロセスにおける旭山動物園のKSFです。
 それは、外部の知恵に頼らなかったことです。

(p92より引用) 私たちの施設が比較的安く仕上げているのは、コンサルタント会社に相談せずに、自前でやっている側面もある。多くの動物園は、コンサルタント会社に依頼をして、造ってもらうことが多いのだ。しかし、彼らは野生動物の専門家ではないので、行動展示をしようとしても、思い通りにいかないこともある。

 コンセプトワークが本職のコンサルタント会社が機能しないのは当然でしょう。
 コンサルティング会社には、経営のスペシャリストは大勢いても、ペンギンやホッキョクグマの気持がわかるスペシャリストがいるとは思えませんから。

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マーケティングケースとしての「旭山動物園」 (〈旭山動物園〉革命(小菅 正夫))

2006-06-25 02:09:49 | 本と雑誌

 北海道旭川市にある旭山動物園は、その不利な立地条件にもかかわらず月間入園者数で上野動物園を凌駕したことから一躍脚光を浴びました。

 もちろん何の努力もせずして、お客様が増えるはずはありません。地道で真っ当な努力の積み重ねが、今の姿の礎です。

(p14より引用) 「旭山動物園には、上野動物園のように、パンダなどの珍獣がいるわけでもないのに、どうしてこれだけの人気が集まったのでしょう。」
 よくそんな質問を受ける。・・・
 質問に対する答えを一言でいえば、「見せ方を工夫したから」である。それまでの動物園は、動物の姿形を中心に見せてきたが、その方法を根底から変えたのだ。・・・
 私たちが何よりも優先して考えたのは、その動物にとってもっとも特徴的な能力を発揮できる環境を整えることである。

 「その動物にとってもっとも特徴的な能力を発揮できる環境を整えること」、これは、まさに「動物の立場」をすべての考えの出発点に据えるということです。
 イトーヨーカドーグループの鈴木敏文氏が常に言われている「お客の立場で」と相通じるものがあります。

(p53より引用) 動物園の展示方法を考える場合、私たちがいつも念頭に置いているのは、動物の側に立って考えることである。

Penguin  具体的なケースは、有名な「ペンギンの散歩」です。

(p50より引用) いまや冬期の動物園の風物詩になった観のある「ペンギンの散歩」。・・・
 これは冬期の動物園の人気企画となったが、飼育係が「冬の大イベントにしてやろう」とか、「奇をてらった企画を考えよう」とかして始まったものではない。日頃のちょっとした観察と知識、そして何よりもペンギンのために始めたものなのだ。
 もともとキングペンギンは歩くことが好きなペンギンだ。・・・
 だから、ペンギンの散歩というのは、ショーのために、ペンギンを無理やり外におびき出したわけではない。あくまでもペンギンが歩きたいという態度を示したから力を貸し、楽しそうだから歩かせている。

 簡単に「動物の立場」でと言いますが、誰でもができるわけではありません。
 「動物の立場」に立てるだけの感性と情報を身につけるためには、日々の飼育作業での地道な観察の積み重ねが不可欠です。

 もうひとつのマーケティング視点からの実例は「シーズとニーズ」に関するものです。

(p31より引用) ワンポイントガイドは、次のステップに進む貴重な財産を残してくれた。・・・
 飼育だけをするのではなく、入園者に語りかけてみる。それが、いわば市場調査のようなものになった。動物のことをよく知っていいる飼育係が、入園者は何を知りたいと思っているかということもつかめた。あとはそれをマッチングさせればよかった。その成果が、いまの施設に十二分に生かされている。

 飼育係の人がもっている専門家としての知識をベースにした発想(シーズ)と入園者への語りかけから得られた生の声(ニーズ)との止揚が、旭山動物園のパワーのひとつの源泉です。
 ここでのポイントは、飼育係と入園者という最もベーシックなステークホルダによる営みが重視され、かつ実際のアクションとして結実しているという点です。

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本 vs 読者 (本を読む本(M・アドラー他))

2006-06-24 01:20:09 | 本と雑誌

 この本は読書技術を高め、積極的なすぐれた読者になるための具体的方法を説いています。
 もちろん、その方法は頭の中だけで理解しただけでは無意味です。実際の読書の中で活用・実践しなくてはなりません。

 とはいえ、どんな本でも読めばいいということではないようです。

(p247より引用) すぐれた読者になるためには、本にせよ、論文にせよ、無差別に読んでいたのではいけない。楽に読める本ばかり読んでいたのでは、読者としては成長しないだろう。自分の力以上の難解な本に取り組まねばならない。

 それでは、積極的読書に値する本とはどんな本でしょう?

(p250より引用) 西欧に限っても、これまでに出版された本の数は数百万冊に達する。だが、その大部分が、読書の技術を磨くのにふさわしい本とは言えない。誇張に聞こえるかもしれないが、実際、九十九パーセントまではそういう本だと言っても過言ではない。・・・
 だが、本当に読書法や人間の生きかたを教えてくれるような本もたしかにある。100冊に1冊、いや1万冊に1冊しかないかもしれないが、著者が精魂こめて書いたすぐれた本である。・・・

 (これほど、世の中に「良書」が少ないのであれば、良い本を増やすための「本を書く本」が必要です・・・)
 また、こうも言っています。

(p251より引用) 読むに値する数千冊のうち、本当に分析読書に値する正真正銘の良書となると、100冊にも満たないだろう。・・・
 二流の本は、再読したとき、奇妙に色あせてみえるものである。それは、読者の方がいつの間にか成長し、本の背丈を追いこしてしまったのである。
 もっとすぐれた本の場合は、再会したとき、本もまた読者とともに成長したようにみえるものだ。

 優れた本というのは、本当に稀にしか出会えない、でも一度そういった本に出会えば、その後も何度も読み返し、そして、そのたびごとに読み手も成長し続けることができるのです。

 とはいえ、そういう本にめぐり合うためには、それなりの技量が必要です。最後まで読んでみないと分からないというのでは、あまりに非効率です。

(p248より引用) こういうわけで、単によく読む能力だけでなく、読書能力を向上させてくれるような本を見きわめる目を養うことが、とくに大事になってくる。

 まずは、本を手に取った際には、じっくり読むべき本か否かを見分けなくてはなりません。
 その方法として、著者が示した第二段階の読書技術「点検読書」が有益になるのです。

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本を読む本 (M・アドラー他)

2006-06-23 00:49:15 | 本と雑誌

 著者は、普通の読者を「積極的読者」に高める具体的方法を示しています。
 それは、読書を4つの段階に分け、初級読書・点検読書・分析読書・シントピカル読書とステップアップさせるものです。

 こういった読書技術を高めるにあたって、アドラー氏(著者)は、読者にひとつの単純な約束事を求めます。それは、「読んでいる間、質問をし続け、また、自らも回答を考えつづけること」という約束です。

(p53より引用) どんな本を読む場合でも、読者がしなくてはならない質問は、次の四つである。
1.全体として何に関する本か。・・・
2.何がどのように詳しく述べられているか。・・・
3.その本は全体として真実か、あるいはどの部分が真実か。・・・
4.それにはどんな意義があるのか。・・・
 四つの質問を心得ているだけでなく、読みながら問いかけをすることを忘れてはならない。読みながら質問をする「習慣」は、意欲的な読者のしるしである。

 本書が薦める読書法のゴールは、同一主題について複数の本を読む「シントピカル読書」ですが、読書技術としての肝になるのは「分析読書」です。

 アドラー氏は分析読書のための「規則」を4つあげます。

第一の規則(p69より引用) 「読者は、いま読んでいるのがどんな種類の本かを知らねばならない。これを知るのは早いほどよい。できれば読みはじめる前に知る方がよい」

第二の規則(p88より引用) 「その本全体の統一を、二、三行か、せいぜい数行の文にあらわしてみること」

第三の規則(p89より引用) 「その本の主な部分を述べ、それらの部分がどのように順序よく統一性をもって配列されて全体を構成しているかを示すこと」

第四の規則(p105より引用) 「著者の問題としている点は何であるかを知る」

 だだ、これはまだ分析読書の「第一段階」です。
 このあと「著者の言葉の使い方を理解」し、「著者の伝えたいことを把握」し、「著書を正しく批評」することへと続いていきます。

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事物を疑って取捨を断ずる事・・・(学問のすゝめ(福沢 諭吉))

2006-06-22 00:40:15 | 本と雑誌

 福沢氏は一般の民衆への啓蒙に取り組むとともに、当時の学者に対しても自らが文明の進展、独立の維持に向けた姿勢を示すべきと強く訴えていました。

(p133より引用) 信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し。

 新たな発見・進歩を生む基本的な発想は「疑う」ということです。

(p134より引用) 文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、その働きの趣きを詮索して真実を発明するに在り西洋諸国の人民が今日の文明に達したるその源を尋ぬれば、疑の一点より出でざるものなし。ガリレヲが天文の旧説を疑って地動を発明し、ガルハニが蟆の脚の搐搦するを疑って動物のエレキを発明し、ニウトンが林檎の落つるを見て重力の理に疑いを起し、ワットが鉄瓶の湯気を弄んで蒸気の働きに疑いを生じたるが如く、何れも皆疑いの路に由って真理の奥に達したるものと言うべし。格物窮理の域を去って、顧みて人事進歩の有様を見るもまたかくの如し。

 とはいえ、何でもかんでものべつ幕なし「疑ってかかる」のかといえば、そうではありません。

(p135より引用) 然りと雖ども、事物の軽々信ずべからざること果して是ならば、またこれを軽々疑うべからず。この信疑の際につき必ず取捨の明なかるべからず。蓋し学問の要は、この明智を明らかにするに在るものならん。

 福沢氏が学者に求めているのは、「真(信)」と「偽(疑)」を判断するにあたっての基本的基準(メルクマール)を明らかにすることだと思います。

(p142より引用) されば今の日本に行わるるところの事物は、果して今の如くにしてその当を得たるものか、商売会社の法今の如くにして可ならんか、政府の体裁今の如くにして可ならんか、教育の制今の如くにして可ならんか、著書の風今の如くにして可ならんか、加之現に余輩学問の法も今日の路に従って可ならんか、これを思えば百疑並び生じて殆ど暗中に物を探るが如し。この雑沓混乱の最中に居て、よく東西の事物を比較し、信ずべきを信じ、疑うべきを疑い、取るべきを取り、捨つべきを捨て、信疑取捨その宜しきを得んとするはまた難きに非ずや。然り而して今この責に任ずる者は、他なし、ただ一種我党の学者あるのみ。学者勉めざるべからず。

 福沢氏から当代の学者への叱咤です。そして当時の全ての人々への叱咤です。

(p97より引用) 学問に入らば大いに学問すべし。農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。学者小安に安んずるなかれ。粗衣粗食、寒暑を憚らず、米も搗くべし、薪も割るべし。学問は米を搗きながるも出来るものなり。人間の食物は西洋料理に限らず、麦飯を喰い味噌汁を啜り、もって文明の事を学ぶべきなり。

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人民の恩 (学問のすゝめ(福沢 諭吉))

2006-06-21 00:36:23 | 本と雑誌

 福沢氏は、「政府」と「人民」との関係は一種の「契約関係」だと説きます。

(p23より引用) そもそも政府と人民との間柄は、前にも言える如く、ただ強弱の有様を異にするのみにて権理の異同あるの理なし。百姓は米を作って人を養い、町人は物を売買して世の便利を達す。これ即ち百姓町人の商売なり。政府は法令を設けて悪人を制し善人を保護す。これ即ち政府の商売なり。この商売をなすには莫大の費なれども、政府には米もなく金もなきゆえ、百姓町人より年貢運上を出して政府の勝手方を賄わんと、双方一致の上、相談を取極めたり。これ即ち政府と人民との約束なり。

 人民は政府の庇護のもとにあるのでなく、政府が人民を保護するのは「政府の職分」だと言います。人民としては、やるべきことをきちんとやっている以上、なんら政府からとやかく言われるものではありません。

(p23より引用) 故に百姓町人は年貢運上を出して固く国法を守れば、その職分を尽したりと言うべし。政府は年貢運上を取りて正しくその使い払いを立て人民を保護すれば、その職分を尽したりと言うべし。双方既にその職分を尽して約束を違うることなき上は、更に何らの申分もあるべからず、各々その権利通義を逞しうして少しも妨げをなすの理なし。

 人民は政府に対して卑屈になる必要は全くありません。堂々とその地位を主張すべしと訴えます。お互い様ということです。

(p24より引用) 固よりかく安隠に渡世するは政府の法あるがためなれども、法を設けて人民を保護するは、もと政府の商売柄にて当然の職分なり。これを御恩と言うべからず。政府もし人民に対しその保護をもって御恩とせば、百姓町人は政府に対してその年貢運上をもって御恩と言わん。

 このあたりの福沢氏の筆は、普通の人々の頭にすっと入り、トンと腹に落ちる見事な言い回しです。
 まさに、啓蒙家です。

 氏は、厳とした権利意識に覚醒した人民が、日本の対外的な独立を全うする礎であると考えているのです。そして一般の人々に、早く目覚めて欲しいと心底願っていたのだと思います。

(p26より引用) されば一国の暴政は、必ずしも暴君暴吏の所為のみに非ず、その実は人民の無智をもって自ら招く禍なり。・・・故に云く、人民もし暴政を避けんと欲せば、速やかに学問に志し自ら才徳を高くして、政府と相対し同位同等の地位に登らざるべからず。これ即ち余輩の勧むる学問の趣意なり。

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自由と平等 (学問のすゝめ(福沢 諭吉))

2006-06-20 01:25:12 | 本と雑誌

 「学問」に勤しむにあたっての留意点です。

 福沢氏は「分限を知る」ことを挙げています。

(p13より引用) 学問するには分限を知ること肝要なり。人の天然生まれ附は、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。

 同様のことは、第八編でも「我心をもって他人の身を制すべからず」として採り上げています。そこでは「心身(=身体・智恵・情欲・至誠の本心・意思)の自由」が論じられています。

(p74より引用) 以上五つの者は人に欠くべからざる性質にして、この性質の力を自由自在に取扱い、もって一身の独立をなすものなり。・・・ただこの五つの力を用いるに当り、天より定めたる法に従って、分限を越えざること緊要なるのみ。即ちその分限とは、我もこの力を用い他人もこの力を用いて相互にその働きを妨げざるを言うなり。かくの如く人たる者の分限を誤らずして世を渡るときは、人に咎めらるることもなく、天に罪せらるることもなかるべし。これを人間の権義と言うなり。

 分限を知るか否かが、「自由」と「我儘」との分水嶺になります。「他人を妨げない」という至極当たり前のことです。
 しかし、実社会の中では、知らず知らずのうちに妨げてしまっていることもあります。謙虚にならなくてはと思います。

 さて、「自由」に続いては「平等」です。福沢氏にとっては、「平等」の啓蒙が非常に大きなテーマでした。

(p25より引用) かかる悪風俗の起りし由縁を尋ねるに、その本は人間同等の大趣意を誤りて、貧富強弱の有様を悪しき道具に用い、政府富強の勢いをもって貧弱なる人民の権理通義を妨ぐるの場合に至りたるなり。故に人たる者は、常に同位同等の趣意を忘るべからず。人間世界に最も大切なることなり。西洋の言葉にてこれを「レシプロシチ」または「エクウヲリチ」と言う。即ち、初編の首に言える万人同じ位とはこの事なり。

 「自由」であり「平等」であるということが前提で、「学問」による「権利意識の確立」「人民として国としての不羈独立」が果たされるとの考えです。
 権利意識が不十分だと、政治による統制が強化されてしまいます。

(p17より引用) 西洋の諺に愚民の上に苛き政府ありとはこの事なり。こは政府の苛きにあらず、愚民の自ら招く災いなり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。故に今、我日本国においてもこの人民ありてこの政府あるなり。仮に人民の徳義今日よりも衰えてなお無学文盲に沈むことあらば、政府の法も今一段厳重になるべく、もしまた人民皆学問に志して物事の理を知り文明の風に赴くことあらば、政府の法もなおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。法の苛きと寛やかなるとは、ただ人民の徳不徳に由って自ずから加減あるのみ。

 また、独立の精神が希薄だと、形ばかりの近代化に止まってしまいます。

(p48より引用) 国の文明は形をもって評すべからず。学校といい、工業といい、陸軍といい、海軍というも、皆これ文明の形のみ。この形を作るは難きに非ず、ただ銭をもって買うべしと雖ども、ここにまた無形の一物あり、この物たるや、目見るべからず、耳聞くべからず、売買すべからず、貸借すべからず、普く国人の間に位してその作用甚だ強く、この物あらざればかの学校以下の諸件も実の用をなさず、真にこれを文明の精神と言うべき至大至重のものなり。蓋しその物とは何ぞや。云く、人民独立の気力、即ちこれなり。・・・畢竟人民に独立の気力あらざれば、かの文明の形も遂に無用の長物に属するなり。

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学問のすゝめ (福沢 諭吉)

2006-06-19 00:49:09 | 本と雑誌

Fukuzawa  福沢諭吉の本は、先に「福翁自伝」を読んだのですが、今回ようやく「学問のすゝめ」に辿りつきました。

 「学問のすゝめ」は1872年(明治5)2月の初編から、1876年11月まで断続的に17編が刊行されました。発行部数は、初編は20万部、当時盛んにおこなわれていた海賊版を合わせると22万部だったと言います。これは「合本学問之勧序」で「日本の人口三千五百万に比例して、国民百六十名のうち一名は必ずこの書を読みたる者なり」と述べているように、当時としては大ベストセラーだったようです。

 さて、内容ですが、これは皆さんの方がよくご存知かも知れません。何しろ私は、今頃になってやっと全編読んだのですから。

 まずは、「天は人の上に人を造らず・・・」です。

(p11より引用) 天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。・・・されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第甚だ明らかなり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。

 福沢氏はこう切り出します。
 「人は、そもそも上下なく同等である。しかしながら、現実社会ではさまざまな格差が生じている。何故か。それは、『学んだ』か否かの差である」と。

 では、何を学べばいいのか。福沢氏は「実学」を勧めます。

(p12より引用) 学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。・・・されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。

 具体的には、読み書き算盤はもちろんですが、広く自然科学・社会科学をイメージしているようです。

(p12より引用) 譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し。地理学とは日本国中は勿論世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見てその働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行いを修め人に交わりこの世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。

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ザ・プロフィット (スライウォツキー)

2006-06-18 00:14:24 | 本と雑誌

 この本は、非常に合理的な(淡白な)作りとなっています。各章ごとにひとつの利益モデルを採り上げて、その利益モデルの基本スキームの説明、勘所についてのディスカッション、当該モデルの具体適用例の紹介等がサクッと書かれています。

 その点では、内容的に少々物足りない感じを受けるかもしれません。が、本書は、ひとつひとつのモデルの深掘りよりも、まずは、一口に「利益」といってもその源にはさまざまなバリエーションがあることを示し、読者自身による今後の探究の「先導役」を果たすことを目的としているように思いました。
 各章ごとの「宿題」や「課題図書」の提示は、「あとは自分の頭で考えなさい」という著者の想いの現われです。
 ちなみに、ここで紹介されている課題図書は、必ずしも経営学やマーケティング関係に限定されておらず、他の人文科学系や数学・天文学関係等の書籍も含まれていて、思索を広げるヒントになりそうです。

 あと、この本で気になったコンセプトです。

 ひとつは、「早期積み込み方式(フロント・エンド・ローディング)」

(p95より引用) 最初に詰め込むということだ。最後ではなく、最初の48時間で読めるだけ読む。・・・できるだけたくさん、できるだけ速く読む。・・・プロジェクトの一番初めの段階でこれをやるんだ。
 すると、どうなるか。不十分ながら非常に力強い知識の骨格を作ることができる。なぜか。のちに実際のビジネスで遭遇するアイディア、あるいは仮説が、その骨格に組み込まれて時間とともに進化していくからだ。

 もうひとつは、「シェア・デターミング・セグメント」です。

(p160より引用) 市場シェアを決定するほどの影響を持つ重要なセグメントのことだ。そこで大きなシェアを獲得できれば、それがそのまま市場全体での大きなシェアへとつながるセグメントだよ」

 たとえば、医薬品分野の専門家(専門医)・建築資材分野の建築士等がこのセグメントの代表例です。

(p161より引用) 平均的な顧客に5ドルの宣伝費を使うより、シェア・デターミング・セグメントに1ドル使う方が効き目がある

 最近のWebマーケティングの世界では、広い意味でインフルエンサの一類型とも言えます。

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問いの嵐 (ザ・プロフィット(スライウォツキー))

2006-06-17 00:33:04 | 本と雑誌

 会社の方が勉強会のテキストにしているとのことで読んでみました。

 1章でひとつ、合計23の利益モデルが紹介されているのですが、構成としては、経営のプロフェッショナルである教師役が、有能な若手ビジネスマンに1パターンずつレクチャーしてゆくというストーリー仕立てになっています。

 この本で紹介された「顧客ソリューション利益モデル」「製品ピラミッド利益モデル」「マルチコンポーネント利益モデル」「スイッチボード利益モデル」「時間利益モデル」「ブロックバスター利益モデル」「利益増殖モデル」「起業家利益モデル」「スペシャリスト利益モデル」「インストール・ベース利益モデル」・・・等々の23もの利益モデルは、網羅性と相似と相違を意識したパターン化という観点から、非常にいい頭の整理になります。

 また、ストーリーが教師と生徒との会話という形で構成されているので、メンターとしての指導方法の訓練という点でも興味深いところがありました。

 本書のメンター(教師役)は、生徒に自分の頭で考えさせるためにたたみかけるような質問を発し、生徒の答えを次々と促していきます。

(p124より引用) 彼は急ピッチで思考モードに入った。・・・

「クワント?」 (答え)
「もっと高くできるかな?」 (答え)
「クワント?」 (答え)
「それ以上は?」 (答え)
「よろしい。他には?」 (答え)
「かなりの?」 (答え)
「クワント?」 (答え)
「他には?」 (答え)
「するとどうなる?それはどんな意味を持つかな?」 (答え)
「つまり?」 (答え)
「他にも何かあるかね?」 (答え)
「その結果?」 (答え)
「それでどうなるかね?」 (答え)
「いいだろう」ここでチャオは質問の手を少し緩めたが、これで十分だと思ったわけではなさそうだった。「いままで挙げた要因で、15%の差が生じた理由を説明できると思うかね?」

 考えの具体性を追求し、発想範囲の拡張を求め、思考内容の意味づけを明確にさせて行きます。

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宇宙の進化 (デカルト(野田 又夫))

2006-06-16 01:32:38 | 本と雑誌

 先にデカルトは、哲学のみならず数学の世界にも大きな功績を残したと紹介をしました。
 彼の思索の広がりは物理学・天文学・生理学にも至ります。

 科学の分野での彼の思考の機軸は、「機械論」であったと言います。 
 機械論の原型は、古代ギリシャのデモクリトスが提唱した原子論です。この思想が17世紀初め再びデカルトらにより表舞台に復活しました。近世の機械論によると、主にぜんまい時計が基本モデルとされ、自然は、機械的な運動法則に従って動く集合体だとみなされました。

 この機械論をベースに、デカルトは、宇宙はさまざまな状態の物質で完全にみたされ、その物質が太陽の周りをまわっているという渦動説を考案したのでした。

(p144より引用) ニュートンにおいてはかえって捨てられ、ニュートン以後人々が復活したデカルトの考えがあります。それは、太陽系が、現在あるような形になったのは永い進化の過程を経た結果であると考えることであります。この見地からは、デカルトの渦動論は、後にカントやラプラスの考えた太陽系発生論につながる仮説であったとみとめられます。ニュートンの方は、聖書の説くところに従って、この世界が六千年くらい前に神の手で現在あるような秩序においてつくられ、諸遊星は創造の日からいまのように運行していたと考えているのであります。

 このデカルトの渦動説は、結果的には誤った考えではありましたが、18世紀以降の「宇宙進化論」の先駆けとなるものでした。

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