以前、「ソクラテスの弁明」や「ソクラテス以前以後」といった本を読んで見ました。しかしながら、哲学に疎い私にはほとんど理解できなかったので、今回は、その手の哲学の入門書だという本書を手に取りました。
ご存知のとおりプラトン(Platon 前428頃~前347頃)は、西洋哲学に極めて大きな影響を残した古代ギリシャの哲学者です。
本書は、そのプラトンの哲学を、現存する彼の著作を辿ることにより歪みなく明らかにしようとした解説書です。
まずは、プラトンの師であるソクラテスの有名な「無知の知」のおさらいです。
プラトンにとって、ソクラテスの「無知の知」は彼の哲学にとっての原点でした。
(p43より引用) プラトンは、ソクラテスによるこの知のとらえ方こそ、「哲学」(philo-sophia=知の愛求)の確かな出発点であり、立脚点であると見てとったにちがいない。なぜなら「無知の知」とは、還元すれば、
-自分が何事かを知っていると思いこむ以前の状態に、つねに自分を置くことへのたえざる習熟
ということである。自分がすでに知っていると思いこんでいる状態からは、知への欲求は発動しようがなく、知らないことを痛感してこそ、知りたいと希求することになるという平明な意味において、これは哲学つまり求知の不可欠の出発点にほかならない。
それだけに、「知」を追求する姿勢は極めて厳しいものでした。
「知」に反する「行動」はなく、「知」は「行動」に先立つものでした。
(p44より引用) プラトンが理解したソクラテスの「知」のとらえ方のきびしさとは何よりも、「知」(知る)とはその人の行為の隅々まで支配する力をもつはずだ、そうでなければほんとうの「知」とはいえない、という「知」への要求のきびしさである。
例えば、あることがよいことだと「知って」いながら行わない、というようなことは、ソクラテスにとってはそもそもありえないことであった。それは要するに、ほんとうに「知って」いないのである。同様に、悪いことと「知って」(わかって)はいるがやめられない、という言い方には、「知る」(わかる)ということのルーズはとらえ方に寄りかかった甘えがある。やめられないのは、ほんとうに「知って」(わかって)いないからだとソクラテスは指摘して、その甘えを禁止する。
ソクラテスは「無知の知」を究極の瞬間まで堅持し続けました。
「知らない」ことに対しては何の評価もできません。「知らない」ことには、何の感情も湧かない、湧くはずもないのです。
刑死を前にしたソクラテスの態度表明です。
(p53より引用) 「死を恐れるということは、諸君、知がないのに知をもっていると思うこと以外の何ものでもありません。それは、知らないということを知っていると思うことなのですから。・・・」
よいものか悪いものかわからないからこそ、不気味で怖いというのがふつうの人の反応であろう。逆に、よいか悪いかわからないがゆえに、それに対する感情の発動が自然に停止されるというのは、ソクラテスの「無知の知」の構えが並大抵のものでないことを告げている。
このように藤原氏は、プラトン(ソクラテス)の哲学を丁寧に解説していきます。(いくら丁寧であっても、残念ながら私の理解力では1割もついていけないのですが・・・)
本書のあとがきで、藤原氏は、この道の専門家ならではの悩みを吐露しています。
(p226より引用) 多岐にわたるプラトン哲学のすべての面を書くのは、はじめからできない相談だから、全体を貫く中心的な哲学思想の発展の動きを、前期から後期に至る著作に残されたその軌跡にもとづいて、できるだけ明晰な姿で再現することに努めるという方針を取った。
“専門家”の哀しい性ゆえのいちばんの不安は、すでにその「軌跡」のとらえ方が研究者の間で千差万別といってよい状況にあるのに、自分が再現したプラトン哲学の動きが事実オリジナルのそれであることを裏づけるための証拠提出の手続き-ギリシア原文の読みの確定、古代から累積され近来はとみに量産される諸解釈の入念な吟味検討など-を、一切省かなければならないことであった。
一流の研究者としての正直で謙虚な姿勢は敬服に値します。
プラトンの哲学 価格:¥ 777(税込) 発売日:1998-01 |