大仰さはありません。
佐々木俊尚さんがtwitterで著者の田島木綿子さんを紹介していたので興味を持ちました。
田島さんは、国立科学博物館動物研究部研究員。海の哺乳類のストランディング(本来、海にいるべき生物が岸に打ち上がること)の実態調査や病理解剖に携わっています。
本書は、そういった田島さんの研究活動でのエピソードを材料にしたエッセイです。
本書を通じて、今まで見ることがなかった海の哺乳類の実態研究のリアルな姿とともに、日々それに携わる田島さんの溢れんばかりの情熱を伺い知ることができました。
そして、本書のメッセージを通じて改めて意識すべきこと、それは「地球環境問題」です。
(p312より引用) じつは近年、海洋汚染がストランディングに関係しているのではないかという説が注目されている。中でも、世界的に問題視されているのは、プラスチックごみの影響だ。
この「海洋プラスチック」に加えて「残留性有機汚染物質(POPs:Persistent Organic Pollutants)」がさらに深刻な問題を生じさせています。
(p316より引用) 一般に、POPsは食物連鎖を介して、小さな生物から大きな生物へと移行し、そのたびにどんどん濃縮されていく。したがって、海の食物連鎖の頂点に位置するクジラやイルカなどの哺乳類は、高濃度にPOPsを含んだ餌を日常的に口にしているこ とになる。
(p319より引用) POPsの影響は、人間にとっても他人事ではない。陸上でも食物連鎖を介して、POPsは生物の体内に蓄積されていく。つまり、陸上の食物連鎖の頂点にいる人間も、クジラやイルカと同じように、高濃度にPOPsを含んだ食品を日々食べていることになる。
POPsが体内に高濃度で蓄積されると、免疫力の低下を引き起こします。その結果、感染症、がん、内分泌機能異常等に繋がる可能性が高まるといいます。
(p322より引用) 現在、私たちは生活のあらゆる場面で、プラスチック製品を使用している。それにより、生活の利便性が高まり、快適な暮らしを送ることができているのは間違いない。そんな人間社会の営みが、他の生物や環境を脅かす結果になっているとしたら、極論として、
「もう私たち人類が絶滅するしか解決法はないねえ」
と、周囲の研究者たちとよく話す。正直、そのくらい地球全体にとって大問題なのである。
地球をひとつの “生態系” だと捉えた場合、その持続性の確保を優先するとしたら、「原因となっている構成パートの部分的組み替え」もひとつの手段となるでしょう。
加害者たる私たちは、そうならないためにも、そうさせないためのあらゆるアクションを我が事として取り組まなくてはなりません。
もう「海のカナリア」の鳴き声ははっきりと聞こえてきているのです。
いつも利用している図書館の新着書リストの中で見つけて手に取った本です。
著者の武田砂鉄さんは以前から気になっていたライターさんなのですが、彼の著作を読むのは初めてです。
テーマは「マチズモ」。恥ずかしながら、私は初見の言葉でした。“男性優位主義”の意とのことで、武田さんはジェンダー平等意識後進国である日本における「マチズモ」の実態を次々に顕わにしていきます。
確かに、今でも様々なシチュエーションで理不尽な扱いを受けている人がいます。
それは「ジェンダー」に係るものに限らず、本書で紹介されているような組織内や運動部内での指導者や先輩/OBの態度としても残っています。理不尽な環境が「当たり前のもの」とされている“場”も数々あります。政治の場、経済団体、寿司屋、高校野球・・・。
武田さんは、本書の中でこうコメントしています。
(p253より引用) 今、男性が、男性であるという理由だけで獲得してきた権威がようやくグラつきつつある。男同士の契りで動かしてきた護送船団社会に、もうそういう社会ではないのではないでしょうか、と疑いの目が向けられ始めている。既存の権威を撥ね除けようとする力に対して、男たちは一丁前の能書きを用意して抵抗する。だが、ただそこにいるだけで自分の立場が保証される場所、というものを、新しい社会システムはどんどん切り崩していく。これでいいのだ。
そう、当然のことです。先に読んだ中島岳志さんの「思いがけず利他」でも感じたことですが、ともかく、今の男性中心の社会には、「自分の立場は偶然によるものだ」と考える“謙虚さ”と「他人の立場を慮る」“想像力” が決定的に欠けているのでしょう。
かく言う私も、まだまだ意識の底には旧来からの滓が残っています。
かなり意識して「逆に振ったところ」を立ち位置にしなくてはならないと折に触れて自省しているところです。
「ハリー・ポッター」シリーズのスピンオフ作品である「ファンタスティック・ビースト」シリーズの第2作目です。
「ハリー・ポッター」シリーズは、ファンタジーとしての娯楽的要素に加え主人公たちが成長していく様を楽しめる物語性がありましたが、こちらのシリーズは今ひとつよくわかりません。
プロットも複雑ですし、幹となるストーリーもはっきりしませんね。そのために、この世界観に詳しくないと楽しめないような作りになってしまっている気がします。
あとは、主人公の魅力。ジョニー・デップやジュード・ロウといった超ビッグネームが脇をかためているのですが、如何せんエディ・レッドメインではインパクトが弱いんですね・・・、残念!
土方歳三を主人公とした司馬遼太郎の歴史小説を映画化した作品です。
例のごとく「司馬作品」なので、どこまで史実に忠実なのかは私にはわかりませんが、映画の中の「沖田総司の風情」をみると、やはり世間に流布しているイメージをたどっているのだろうと思います。
もちろん娯楽作品なのですから、そうであることを否定するものではありません。要はエンターテインメントとして満足できるかということですが、その点ではどうでしょう・・・。私としては、今ひとつといった印象でした。
やはり「題材」が好みではなかったのと、「戦闘シーン」の中途半端なリアリティが合わなかったということです。ラストシーンも現実離れしていて完全に興覚めでした。
ただ、岡田准一さんや柴咲コウさんは “いい役者” でしたね。
いつも聞いているピーター・バラカンさんのpodcastの番組にゲスト出演していたいとうせいこうさんが番組内で紹介していた著作です。
タイトルも含めちょっと気になったので手に取ってみました。
著者の中島岳志さんは東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。固定化された視点に囚われない論考はいい刺激になりますね。
さっそく本書を読んで興味を抱いたくだりをいくつか書き留めておきましょう。
まずは、「第三章 受け取ること」から、認知症と診断された高齢者をホールスタッフとして雇用している「ちばる食堂」での試みを紹介している箇所です。
(p118より引用) 認知症と診断されると、周りの人や介護従事者は、認知症の人たちに「何もしないこと」を強要してしまいがちです。仕事をすることから遠ざけ、掃除や洗濯、食事など日常生活にかかわることも、何でもやってあげる。それが「ケア」だと思われてきた側面があります。これに対して「ちばる食堂」では、間違いに寛容な社会を形成することで、認知症の人たちも尊厳を持って働くことができる環境を整えようとしています。そのことで、当事者が持っているポテンシャル(潜在能力)を引き出す。その人の特質やあり方に「沿う」 ことで、「介護しない介護」が成立する場所を作ろうとしています。
よく「〇〇に“寄り添う”」といった台詞を耳にするようになりましたが、それでは具体的にどうするのかといえば、はっきりとした答えは返ってきません。この「間違いに寛容な社会を作る」ことがそのひとつの回答だと思います。
“間違いに寛容な社会”というフレーズは、情けないことに、私にはとても新鮮に聞こえました。大切な “意識の姿勢” だと思います。
そして、次は本書のタイトルにある “利他” の行為がもつ重要な特性です。
(p131より引用) 自分の行為が利他的であるかどうかは、不確かな未来によって 規定されています。 自分の行為の結果を所有することはできず、利他は事後的なものとして起動します。
なるほど、そうですね、自分の成した行為が “利他” となるかどうかは、事後的に相手が評価するものです。成した側が評価を強要できるものではありません。ただ、そうであっても、利他的な行動を意識的に取ろうとすれば、自分の行為が “利他” となる確率を高めることはできるでしょうし、そう心がける気持ちは大切だですね。
さて最後は、今の日本社会に蔓延している「自己責任論」について。
(p143より引用) 親鸞が見つめたのは「私が私であることの偶然性」であり、その「偶然の自覚」が他者への共感や寛容へとつながるという構造です。
私は、現代日本の行きすぎた「自己責任論」に最も欠如しているのは、自分が「その人であった可能性」に対する想像力だと思います。そして、それは自己の偶然性に対する認識とつながり、「自分が現在の自分ではなかった可能性」へと自己を開くことになります。
「自己責任論」を振りかざす人の “他者への過剰な非難”を諫める考え方です。
今の世の中に圧倒的に欠けているのが「他者への想像力」です。他者の悩み、他者の苦労、他者の暮らし、他者の立場・・・、そういった実態を知ろうとしない、理解しようとしない。想像する「力」がないのではなく、視野にすら入れない、想像しようとする「気」すらないように感じます。
今の自分は「偶然の産物に過ぎない」という意識、そして「偶然」が「利他」を生む。必然の利他は利己。
「思いがけず利他」というタイトルは、なるほど本書のメッセージを見事に表しているんですね。