たけしさんが演じる人物の見せ場は、
いつも利用している図書館の新着本の棚で目につきました。
“フェイクニュース” にしても “哲学(する)” にしても、とても気になるキーワードですね。
特に昨今の「選挙」では、SNSで流布された玉石混淆の情報がその結果に大きく影響したこともあり、そういった時流の背景を理解するのに大いに参考になるのではと思い手に取ってみました。
期待どおり興味深い指摘が多々ありましたが、それらの中から特に私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきます。
まずは、本書での議論に無用な混乱を生じさせないために、著者の山田圭一さんは「フェイクニュースの定義」を試みています。
(p5より引用) フェイクニュースは「情報内容の真実性が欠如しており(偽であるか、ミスリードである)、かつ、情報を正直に伝えようとする意図が欠如している(欺くことを意図しているか、でたらめである)」ものとしてひとまず定義することができる。
と整理しながら、「必ずしもその意味をひとつの定義に切り詰めて考える必要はない」とも語っています。
(p8より引用) 「フェイクニュース」という言葉は、自分と異なる相手の意見を抑圧したりその発言を無効化したりするための道具として用いられる危険性をもっている。
との指摘のとおり、現実的には、明確な言葉の定義よりも、その言葉が伝える意図や効果をしっかり認識しておくことの方が重要でしょう。
次は、「第3章 どの専門家を信じればいいのか」の中で示された “知的自律性” の論考の中での山田さんからの示唆です。
(p113より引用) つまり知的に謙虚であるためには、自分の知的な限界を広く見積もりすぎ る知的傲慢と、狭く見積もりすぎる知的隷属の中間を縫いながら、自分の知的限界を正しく見極め、その限界に対して適切な仕方で対処する必要がある (Whitcomb et al. 2017)。この点で、判断を委ねるべき場面で判断を委ねるべき相手にきちんと判断を委ねることができる人こそが知的な謙虚さという徳をもっている人であり、その判断を自律的に行える人こそが本当の意味で知的に自律している人だといえるだろう。
私たちが日々、様々な機会で接する情報の真偽を判断する際、“知的自律性に依拠した検討プロセス” を辿ることが重要ですが、その際の要諦ですね。
そして最後は「陰謀論」をテーマにした議論。
「第5章 陰謀論を信じてはいけないのか」にて山田さんが指摘している “陰謀論の社会的弊害” です。
(p174より引用) 陰謀論の脅威は、まさにこの悪循環のスパイラルにある。それは単にある特定の偽なる信念をもたらすだけでなく、陰謀論を正しい「知識」とみなす人々の認識を信頼するようになり、そうでない人の信頼度が下がり、その信頼度に基づいて新たな「知識」が獲得されていく・・・・・・という真理から遠ざかる螺旋運動をもたらすのである。
このような認識的な信頼関係の根本的な配置転換を行った人たちとそうではない人たちとの あいだには、「何を真であるとみなすのか」の分断(真理の分断)だけでなく「何を認識の基礎とみなすのか」の分断(正当化の分断)が生じる。このことは、本書でみてきたような社会のなかで知識を基礎づける構造を共有不可能なものにし、われわれの知識の土台を根こそぎ掘り崩すことになる。この意味で、やはり陰謀論はわれわれの社会にとって深刻な脅威となりうるものである。
こういったコメントのように、本書において山田さんは、昨今出現が顕著になったコミュニケーションにおける病理ともいうべき「フェイクニュース」や「陰謀論」といった現象を取り上げ、
(p179より引用) 「真理を多く、誤りを少なく」という認識目標や、「真なることを伝えるべし」「真偽を吟味すべし」といった認識的規範が機能しなくなるさまざまな状況・・・
をわかりやすく解説し、それに相対するための “知的思考プロセス” を示しています。
要は “真理への関心”を持ち、“真理を探求し続ける” こと。
そういう “知を尊ぶ姿勢(=哲学)” の大切さを伝えることを目指した著作ですが、タイトルに “哲学する” とあるように、「自律的に考えるための作法」を丁寧に紹介した良書だと思います。
ただ、本書でも言及していますが、特に昨今 “知を尊ぶ姿勢” とは次元の異なる思想に基づく現象が生じています。“真実など二の次” 、SNS上でのアクセス稼ぎを目的とした行動(投稿)です。
これは、発信者だけでなく、それに引寄せられ踊らされている受け手の存在も併せて事象を捉え論じなくてはならないのですが、考察にあたっては、そもそもの “人間の本性” という心理学的・社会学的議論にも踏み込む必要があるでしょう。
本書を嚆矢として、こういったテーマを扱った著作にもトライしてみたいですね。
かなり以前に読んでいた内田康夫さんの “浅見光彦シリーズ” ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
ただ、私の出張先も、以前勤務していた会社のころを含めるとそこそこの都道府県にわたるので、どうせなら “シリーズ全作品制覇” にトライしてみようと思い始めました。
この作品は「第29作目」です。今回の舞台は “城崎温泉(兵庫県)”。
兵庫県の瀬戸内海側は学生時代・社会人時代をあわせもう数えきれないほど行き来していますが、日本海側はトンとご無沙汰です。印象としては冬の寒々しい海の風景を思い浮かべるのですが、実際はどうなのでしょうね。
ミステリー小説ですからネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、この作品、浅見光彦シリーズとしては珍しくかなり荒々しいストーリー展開でしたね。
陽一郎の弟であることが判明する前の警察署内でのやりとりをはじめ、その後の関係者の動機にまつわる物言いなど、光彦の態度がいつになく強引でちょっと引いてしまいます。さらにはラストに至る “詰め” も乱暴で、犯人との対決のシーンも物証も乏しいその場しのぎ的な甘々の推理の開陳でした。まあミステリーとしての “伏線回収” はうまく仕上げていましたが・・・。
さて、取り掛かってみている “浅見光彦シリーズ制覇チャレンジ”、それほど強い意志をもって完遂しようとも思っていませんので、まあ、“どこまで続くことやら”です。
次は、30作目の「隅田川殺人事件」ですね。
いつも利用している図書館の新着本リストで目につきました。
橋本治さんの著作は、「「わからない」という方法」「思いつきで世界は進む」等いままでも何冊か読んでいて、そこで開陳されているとても素直な “正論” を楽しんでいました。
本書は、橋本さんが様々なジャンルの6人の方々と語り合った対談集とのこと。
興味深いやりとりが満載でしたが、それらの中から特に私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきましょう。
まずは、「日本美術史を読み直す」とタイトルされた批評家浅田彰さんとの対談の中のフレーズ。
和漢混淆文を取り上げ、漢意とやまとごころという概念の成り立ちとその後の文化面での派生の様子を “融通無碍に展開してきた日本文化史” と語る浅田さんの議論を受けて、橋本さんはこうコメントしています。
(p63より引用) そういう議論について言うと、ルーツについて、一個わかるとそのキイによって全部がわかるという考えかたは、あまりにも単純すぎないかっていうふうに私は思うんですよ。ある部分ではAというタームを持ち上げ、別のところにくるとAを否定しつつBというタームを持ち上げ、とそれでいいんじゃないか。
そして、同じ対談からもう一ヵ所、浅田さんが近現代の日本美術の “幼児性” を指摘しているところです。
(p103より引用) 浅田 まさにその通りだと思うけれど、そういう意味でいうと、やっぱり大阪万博の岡本太郎の《太陽の塔》が転換点だったのかもしれない。丹下健三・磯崎新組の「お祭り広場」のプランは、弥生的なものを暗黙のベースに、情報化社会にふさわしい「見えない建築」(当時の言葉でいう「サイバネティック・エンヴァイロンメント」)をつくろうというものだった。そこへ岡本太郎が大屋根をぶち抜いて《太陽の塔》を建ててしまった。そちらの方が「キャラ立ち」してしまって、丹下・磯崎組は敗北を喫したわけですよ。幼児化が顕著になるのは最近のことだとしても、源泉はそこにあったのかもしれませんね。とにかく、橋本さん風の大人の職人としての常識をかなぐり捨てて、「女子供」が喜べばいいだろうというポピュリズムの方向にとめどもなくすり寄っていく…。
以前、岡本太郎さんの著作で「大屋根」をぶち抜く「太陽の塔」のエピソードを読みましたが、立ち位置が異なるとこれほどまでに評価が一変してしまうのですね。
大きな二つ目は、「紫式部という小説家」という章での国文学者三田村雅子さんとの対談でのやりとりから。
(p199より引用) 橋本 平安時代の人は悲しい、寂しい、辛いとは言わずに、そこにどんな花がどう咲いているという言い方をするでしょう。
三田村 感情語は絶対使いませんね。
橋本 だからそこにどういう情景があるかということが一番重要であって、情景を語ることが実は感情を語ることなんです。
なるほど、面白い指摘ですね。
恥ずかしながらこういったことも初めて知りましたし、知っていれば、ド素人の私の平安文学の読み方もほんの少し深まっていたかもしれません。
三つ目は、コラムニスト天野祐吉さんとの対談からです。
「2009年の時評」と銘打たれた章ですが、このころに既に “メディアの劣化” が語られています。
橋本さんのコメントです。
(p296より引用) 橋本 「もっとみんなで考えよう」と呼びかける能力は、マスメディアにはもうないと思う。メディアの仕事とは、より多くの人たちに何かを考えさせるようにすることなんだと思うけど、小学校の勉強と同じで、簡単に分かる答えを与えすぎるのね。
ともかく、“自分の頭で考えなくなった” ということですし、 “考える方法” を身に着ける機会が極めて少なくなってしまった、あるいは、そもそも “考える方法” を身に着けようという動機を持つ人が少なくなってしまったのが今でしょう。自らの判断を外部からの情報に無批判に委ねる姿勢の蔓延です。
さて、最後は、「「リア家」の一時代」という章での劇作家宮沢章夫さんとの対談でのやりとりから。橋本さんが書く “小説の手法” を開陳しているくだりです。
(p314より引用) 橋本 私は考えに考えて文章を生み出す人ではないんです。・・・自分の頭で人間を造型しておくのではなくて、こういう状況に置かれた静の眼に事態がどう映っているか、だったらどうするのかを、彼女に全部決めさせたんですよ。私は小説を書くときは基本的に自分で決めるよりも登場人物に決めさせます。
とはいえ、最終的には物語をラストに向けて収斂させていくのでしょうから、そこに導く作者の意思が必須のように思います。橋本流は、最後まで登場人物の主観で進め切るのでしょうか?
本書に収録された7つの対話、それぞれのジャンルで橋本さんの作品を読み込んでいないと対話者間で交わされるやりとりを理解することはできません。
その点では、私の場合、本書をほとんど楽しむことができなかったようです。残念ですが、ベースとなる堆積物がなかったわけですから如何とも仕方ありませんね。
かなり以前に読んでいた内田康夫さんの “浅見光彦シリーズ” ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
ただ、私の出張先も以前勤務していた会社のころを含めるとそこそこの都道府県にわたるので、どうせなら “シリーズ全作品制覇” にトライしてみようと思い始ました。
この作品は「第28作目」です。今回の舞台は “隠岐(島根県)”。
隠岐はもとより島根県は仕事関係で立ち寄ったことはありません。プライベートでは、あまり定かな記憶ではないのですが、幼いころ「松江」には旅行にいったことがあるのと、社会人になってから「津和野」を訪れたぐらいです。
ミステリー小説ですからネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、シリーズの中では比較的力作といえる部類の作品でしょう。
最後の手段・方法についての謎解きはかなり強引ではありますが、“源氏物語絵巻” をモチーフにしたエピソード設定にはオリジナリティを感じました。
さて、取り掛かってみている “浅見光彦シリーズ制覇チャレンジ”、それほど強い意志をもって完遂しようとも思っていませんので、まあ、“どこまで続くことやら”です。
次は、29作目の「城崎殺人事件」ですね。