しばらく前のことですが、9年以上前に書いた記事にコメントがつきました。
ご覧の通り、閑古鳥がラインダンスをしているようなブログですから、昔の記事であってもコメントがつくことはとても嬉しいことです。
また、そのコメントは今までにない見方を示すものだったので、「ほぉ」と感心しました。
ただ、そのコメントはこんなふうにまとめてあったんですよね。
どう解釈しても自由、と。
その作品をどのように解釈するかは解釈する側の自由である、そう考える人は本当に多いです。
はっきり言っておきますが、それは間違っています。
解釈に自由なんてものはありません。
まず、感想は自由です。
なぜ感想は自由なのか。
それは生きている人生が人それぞれ違うからです。
生きている人生が違えば、当然何を面白いと思うのか、何を美しいと思うのか、何に感動するのか、そういった基準や価値観は違ってきます。
ある作品を面白いと思う人と、面白くないと思う人がいるのは当然のことなのです。
感想は自由であり、決して他者から強制されたり、否定されたりするものではありません。
感想を強制することは生き方を強制することであり、感想を否定することは生き方を否定することなのです。
薔薇を綺麗だと思う人がいる一方で、薔薇よりもタンポポに惹かれる人もいる、また花そのものに興味がない人がいる、どの感想も決して間違ってはいないのです。
今感想は自由だと述べました。
しかし間違った感想というものもあります。
例えば、薔薇の花を観て「薔薇の花って綺麗だな」と思ったとする。
けれどよくよく近づいてみたら薔薇ではなく牡丹の花だった。
この場合の「薔薇の花って綺麗だな」という感想は間違っていることになります。
感想は自由ではありますが、それは対象物を正しく認識して初めて言えることです。
牡丹の花を観て薔薇の花は綺麗だと思う自由などないのです。
対象が物であれば「認識」になりますが、作品の場合「解釈」になるのです。
続く。
ご覧の通り、閑古鳥がラインダンスをしているようなブログですから、昔の記事であってもコメントがつくことはとても嬉しいことです。
また、そのコメントは今までにない見方を示すものだったので、「ほぉ」と感心しました。
ただ、そのコメントはこんなふうにまとめてあったんですよね。
どう解釈しても自由、と。
その作品をどのように解釈するかは解釈する側の自由である、そう考える人は本当に多いです。
はっきり言っておきますが、それは間違っています。
解釈に自由なんてものはありません。
まず、感想は自由です。
なぜ感想は自由なのか。
それは生きている人生が人それぞれ違うからです。
生きている人生が違えば、当然何を面白いと思うのか、何を美しいと思うのか、何に感動するのか、そういった基準や価値観は違ってきます。
ある作品を面白いと思う人と、面白くないと思う人がいるのは当然のことなのです。
感想は自由であり、決して他者から強制されたり、否定されたりするものではありません。
感想を強制することは生き方を強制することであり、感想を否定することは生き方を否定することなのです。
薔薇を綺麗だと思う人がいる一方で、薔薇よりもタンポポに惹かれる人もいる、また花そのものに興味がない人がいる、どの感想も決して間違ってはいないのです。
今感想は自由だと述べました。
しかし間違った感想というものもあります。
例えば、薔薇の花を観て「薔薇の花って綺麗だな」と思ったとする。
けれどよくよく近づいてみたら薔薇ではなく牡丹の花だった。
この場合の「薔薇の花って綺麗だな」という感想は間違っていることになります。
感想は自由ではありますが、それは対象物を正しく認識して初めて言えることです。
牡丹の花を観て薔薇の花は綺麗だと思う自由などないのです。
対象が物であれば「認識」になりますが、作品の場合「解釈」になるのです。
続く。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます