宮脇俊三著「増補版 時刻表昭和史」
著者のあとがきによれば、この本は、もともとは、昭和8年から昭和23年まで載せる予定であったが、昭和20年8月15日という節目で、書き続けることができなくなってしまった。それから十数年、終戦後から昭和23年まで、増補版というかたちで追記されたものである。
昭和8年、著者は小学生に成り立て、渋谷に住んでいる。時刻表に興味を持ち始めるきっかけが述べられている。渋谷というと、今の風景を連想してしまうが、記述によれば、原っぱなど、遊び場が多かったようだ。この頃に、自分で切符を買って電車に乗っている。
昭和16年の夏、太平洋戦争勃発まであと数ヶ月、という時期。当時は、寝台券の入手は非常に困難。発売は3日前の正午からであった。著者が上野駅に行くと、「すでに行列ができていたが、さして長くはなかった。『行列』は戦時生活によって日本人が身につけた習慣で、統制物資を買うために並ぶようになったのがはじまりであるが、この頃には、駅の窓口や列車に乗るときも行列するしゅうかんができ上がっていた。以前のように窓口で押し合うことはなくなっていた。」。確かに、そのDNAは今でも受け継がれているような気がする。東日本大震災の時に、それは顕著であり、世界が注目したところである。
昭和17年には、北海道へ。当然、寝台列車で青森まで行き、青函連絡船で函館に渡る。青森の途中、今の三沢付近で目が覚め、「右窓に小川原沼の寒々とした眺めが展開した。」。小川原湖は、内田百閒「阿房列車」でも「寥々とした」付近の様子が述べられている。
昭和19年には、博多方面へ。関門トンネルが開通し、石炭輸送量は急増。旅客列車を削減してまで貨物列車を走らせていた時代だ。「産業戦士」用の列車は間引けない。「産業戦士」といえば、いわき市好間町の古河鉱業の敷地だと思われるが、「産業戦士の像」が立っている。これは戦前、全国に何カ所か立てられたもので、まだ残っている。当時は、古河炭鉱というのがあって、そのためと思われる。
昭和20年3月9日深夜、東京大空襲である。東京東部に焼夷弾が落とされ、江東区を中心に大打撃を受け、多くの人の命が失われた。でも「私は驚いた。」つまり、「山手線や上野からの汽車が動いている」ことに対して。「御徒町~新橋間は(3月)11日の朝までには開通していたし・・・」。以前、原子爆弾で何もなくなった広島の街で、路面電車が走っている写真を観た記憶がある。まさに、その状況と同じ光景を、著者のみならず、当時の東京人は、目に焼き付けていたのだろう。そうそう、朝の連ドラ「あまちゃん」で、「第3セクターの意地を見せてやる」という言葉を思い出した。
そして、昭和20年8月15日、著者は、米坂線に乗車していた。今泉駅に11:30に到着。正午に天皇陛下の玉音放送が流れ、人々は立ちすくみ、時が止まったようだ。しかし、「時は止まっていたが汽車は走っていた。」「予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。」
そして、増補版(戦後編)となる。
昭和23年4月、東北本線で青森に向かう。仙台に着くと、「仙台から乗る客は多かった。そして、車内の様相が変わった。通路に新聞紙を敷いて横になる客、網棚にハンモックを吊して寝る客もいた。」そこまで、と思いつつも、先般「常磐線中心主義」で小生が大学生時代に観た上野駅10番線ホームやL特急ひたちの車内を連想させる。
本書の解説は、宮脇の同級生・奥野健男が著している。「いったいこんな国が世界にあるであろうか。敗戦はもとより、戦いに勝っても、それが知らされた瞬間、全ての国民がアナーキーと化し、仕事などほっぽり投げ、汽車など止まってしまうのが当たり前なのに、しかし日本の鉄道は歴史の大転換の瞬間も時刻表通り運航されていた。」
当時の鉄道事業者の使命感なのか、意地なのか。ただ、時刻表通りに動いたことにより、戦後復興も進めることができたのだと思う。
著者のあとがきによれば、この本は、もともとは、昭和8年から昭和23年まで載せる予定であったが、昭和20年8月15日という節目で、書き続けることができなくなってしまった。それから十数年、終戦後から昭和23年まで、増補版というかたちで追記されたものである。
昭和8年、著者は小学生に成り立て、渋谷に住んでいる。時刻表に興味を持ち始めるきっかけが述べられている。渋谷というと、今の風景を連想してしまうが、記述によれば、原っぱなど、遊び場が多かったようだ。この頃に、自分で切符を買って電車に乗っている。
昭和16年の夏、太平洋戦争勃発まであと数ヶ月、という時期。当時は、寝台券の入手は非常に困難。発売は3日前の正午からであった。著者が上野駅に行くと、「すでに行列ができていたが、さして長くはなかった。『行列』は戦時生活によって日本人が身につけた習慣で、統制物資を買うために並ぶようになったのがはじまりであるが、この頃には、駅の窓口や列車に乗るときも行列するしゅうかんができ上がっていた。以前のように窓口で押し合うことはなくなっていた。」。確かに、そのDNAは今でも受け継がれているような気がする。東日本大震災の時に、それは顕著であり、世界が注目したところである。
昭和17年には、北海道へ。当然、寝台列車で青森まで行き、青函連絡船で函館に渡る。青森の途中、今の三沢付近で目が覚め、「右窓に小川原沼の寒々とした眺めが展開した。」。小川原湖は、内田百閒「阿房列車」でも「寥々とした」付近の様子が述べられている。
昭和19年には、博多方面へ。関門トンネルが開通し、石炭輸送量は急増。旅客列車を削減してまで貨物列車を走らせていた時代だ。「産業戦士」用の列車は間引けない。「産業戦士」といえば、いわき市好間町の古河鉱業の敷地だと思われるが、「産業戦士の像」が立っている。これは戦前、全国に何カ所か立てられたもので、まだ残っている。当時は、古河炭鉱というのがあって、そのためと思われる。
昭和20年3月9日深夜、東京大空襲である。東京東部に焼夷弾が落とされ、江東区を中心に大打撃を受け、多くの人の命が失われた。でも「私は驚いた。」つまり、「山手線や上野からの汽車が動いている」ことに対して。「御徒町~新橋間は(3月)11日の朝までには開通していたし・・・」。以前、原子爆弾で何もなくなった広島の街で、路面電車が走っている写真を観た記憶がある。まさに、その状況と同じ光景を、著者のみならず、当時の東京人は、目に焼き付けていたのだろう。そうそう、朝の連ドラ「あまちゃん」で、「第3セクターの意地を見せてやる」という言葉を思い出した。
そして、昭和20年8月15日、著者は、米坂線に乗車していた。今泉駅に11:30に到着。正午に天皇陛下の玉音放送が流れ、人々は立ちすくみ、時が止まったようだ。しかし、「時は止まっていたが汽車は走っていた。」「予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。」
そして、増補版(戦後編)となる。
昭和23年4月、東北本線で青森に向かう。仙台に着くと、「仙台から乗る客は多かった。そして、車内の様相が変わった。通路に新聞紙を敷いて横になる客、網棚にハンモックを吊して寝る客もいた。」そこまで、と思いつつも、先般「常磐線中心主義」で小生が大学生時代に観た上野駅10番線ホームやL特急ひたちの車内を連想させる。
本書の解説は、宮脇の同級生・奥野健男が著している。「いったいこんな国が世界にあるであろうか。敗戦はもとより、戦いに勝っても、それが知らされた瞬間、全ての国民がアナーキーと化し、仕事などほっぽり投げ、汽車など止まってしまうのが当たり前なのに、しかし日本の鉄道は歴史の大転換の瞬間も時刻表通り運航されていた。」
当時の鉄道事業者の使命感なのか、意地なのか。ただ、時刻表通りに動いたことにより、戦後復興も進めることができたのだと思う。