けんきゅうきろく(と、あともうひとつ)

レアル・マドリー、リーガエスパニョーラ関係の、なんとなく気になるニュース。

1994年

2009-06-22 23:59:10 | football
15年前のこと
MARCAで、今現在、24時間内で最も読まれているニュース。
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1994年6月22日。W杯アメリカ大会。ロサンジェルスのローズ・ボウル・スタジアムで、93000人の観衆を前にした、アメリカvsコロンビアの試合。アンドレス・エスコバルは、数日後には彼の死につながる、不幸な出来事の中心人物になろうとしていた。試合の前半13分、このコロンビアディフェンダーは、アメリカ代表のジョン・ハークスを前にボールをクリアしようとしたが、不運なことに、ボールは味方のゴールに決まってしまった。この試合は2-1でアメリカが勝利、1994年のW杯にかけたコロンビアの夢は潰えた。
この当時のコロンビア代表は、強力な選手を揃えていた。たとえばレネ・イギータ、バルデラマ、アスピリージャ、バレンシアの「Tren(電車)」と呼ばれていたフレディ・リンコン。ファンは、コロンビアがW杯の上位に到達するこの上ないチャンスだと感じていた。それにもかかわらず、コロンビア代表は、ルーマニア、スイス、アメリカの前にグループ最下位に終わった。アンドレス・エスコバルが決めたオウンゴールは、彼にとってW杯の2試合目であり、それは後に彼の死にまで至ることとなった。

W杯敗退後、コロンビアに戻ったエスコバルは、メデリンで数日間の休暇を楽しんでいた。そしてその夜、ディスコで銃撃を受けた。殺人者は、ウンベルト・ムニョス・カストロ。この男はエスコバルを見つけ、躊躇なく彼のオウンゴールを非難した。エスコバルは、メディアなどが彼とカストロとの間のいざこざに介入しないようにしていたが、この男が12発も銃撃をしてくるとは考えてもいなかったのだ。アンドレス・エスコバルは、生きて病院にたどり着くことはなかった。

このニュースが知れ渡り、世界のサッカー界はショックを受けた。証明されることはなかったにもかかわらず、多くの者が、殺人者の背後にスポーツ賭博に関わるマフィアの存在を語っていた。
翌日の新聞は、「カバジェロ(紳士)」の名を持つエスコバルの身に起きた出来事に、信じられないという思いを示し、彼を「真の英雄」であると称することをためらわなかった。ファンたちは、この痛みの日々に、まだエスコバルが生きている、ちょうど行方不明になった人のことのようだと感じていた。
それでも、多くのファンたちは、アメリカ戦でのエスコバルのゴールについてコメントをしたがっていた。「多くの人が、何が起こり得たのか、そして最終的に何が起きたのかを想像していた。コロンビアでは、こうしたことは尊敬されない。」
オウン・ゴールは、決してこんなに高い値のつくものではない。彼の葬式には、10万を越す人が集まり、今でもウンベルト・ムニョス・カストロが、エスコバルの人生に交わってしまった日のことを思い出している。

殺人者に対し、コロンビアの司法は43年間の収監を言い渡した…しかし11年後、ウンベルト・ムニョス・カストロは、不正義なことに、再び自由を楽しみ味わうことになる。彼の刑は23年にまで軽減されたのだが、司法は2005年に、エスコバルの殺人者を「収監中の態度良好」につき釈放としたのだ。この決定はコロンビアの人々の間に大きな騒ぎを巻き起こし、エスコバルの人生を終わらせた人間がなぜ街に出てこられるのかという、無力感が見られた。1994年7月2日、エスコバルが亡くなったその日から、何も過ぎ去ってはいないのだ。

2002年7月、メデリンの町はエスコバルを記念したモニュメントを建立した。15年前の今日の、アンドレス・エスコバルのオウンゴールは、10日後に彼の死をもたらしたのだ。
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あれから15年……ですけど、たとえばセリエでファンが選手や選手の車を襲ったり、納得のいかないジャッジをした審判を脅迫するような言動があったり(チェルシーか)、スペインを初め各地で未だ見られるファンの人種差別的反応とか、我々がテレビで試合を見たりインターネットでニュースを見たりしている程度ではわからない力の存在とか、暴力の気配はなかなか消えないな…と思います。今でも。