団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

学校ではルールに従わなくても給料がもらえる

2009-07-02 15:32:52 | Weblog
 国旗掲揚、国歌斉唱の際に、埼玉県議会で上田知事が、国歌を歌わないとか国旗掲揚で起立しない教師は辞めてもらうしかない、という発言をして物議をかもしている。
 まだそんな教師がいる、という方が不思議なことだが、もっと不思議なのは思想信条の自由に反する、とすぐに反発する輩がいることだ。
 まあ、日教組の方々だろうが、公立の教師といえども公務員である。つまり自治体や国に雇われている。つまり給料をもらっているわけだが、その給料を支払っているところを否定しているのである。
 しっかりと給料をもらっていながら、国や自治体の決めたことに従えない、というのはどういう神経か。従えないなら、辞めればいいのである。自由を叫ぶなら、辞めることも自由なのである。しかし決して、その選択はしない。
 給料をもらって仕事をするということは、雇われている組織の決めたルールに従うことだ。従うからこそ、給料を払うのである。つまり雇用という世間的な常識が、教師には通用しないようだ。
 そんな勝手な教師を放置したほうも方で、日教組に対して触らぬ神に祟りなし、といったことなかれ主義が招いた結果だ。堂々と対決し、間違っていることを正すのも、やはり学校の責務だろう。
 そんな教師や学校に教えられる生徒こそ、いい迷惑だ。どっちを信用したらいいのか迷ってしまう。国歌も国旗も否定する教育で、国を思う心をどうやって養うのか。日本人としての意識をどう育てるのか。
 国や国家というと、すぐにかつて来た道、という軍国主義に警鐘を鳴らす左翼的な人々がいるが、国がなくてなにができるというのだろうか。外国に行っても、日本人のだれだれだからこそ信用もされるし仕事もできる。
 教育の現場がこんなになった一因は、進駐軍が教育の右傾化を嫌って左翼的な思想を持つ教師を多く入れ、政治が関与できない仕組みを作ったからだ。そのために教育現場が時代の流れから取り残され、独善的な正義がまかり通るようになつた。
 確かに国家権力が強大になり、人々の自由を制限するようなことがあってはならないが、それをチェックするのも、また国民の務めではないか。
 とにかくルールに従えないなら、自ら辞表を出すことがまっとうな判断だ。それができないなら、ルールに従う、守ることを誓うことだ。それにしても、まだこんなことでもめているのは、日本の教育界の奇観であるだろう。

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