愛知トリエンナーレについて考えてみた。どうもいろいろなことが絡み合って難しくなっているから、整理してみよう。
まずトリエンナーレで問題になったのは、その中の展示の一部である「不自由展」。他の展示会で拒否されたアート作品を持ち寄って見せている。なぜ、拒否されたかは、その展示の多くが反日的だからだ。
そうした政治的なプロパガンダが、こうした展示会場にふさわしいかどうか、という議論が必要だ。反日的、左翼的な意図を含んだアートだから拒否する、というのも、中庸ではない。反対にそうしたアートを拒絶することが、ひとつの政治的な意思になるだろう。
だから、アートの業界があるとしたら、やはり政治的に物議を醸す可能性のある表現は、展示をしない、というコンセンサスが必要であろう。アートを大切にする基本的な姿勢が求められる。
今回の場合は、すでにこのトリエンナーレの運営の中に、活動家が入っており、反日的な意図を明確にして展示した、という確信犯的な側面がある。では、中国のチベットやウイグルの弾圧に関するアートを作って、このメンバーが展示できるであろうか。
表現の自由を盾に、なんでも展示してよい、というのは理屈としては分かる。政治的な圧力に抵抗することが、表現の自由を担保するからだが、これも自ずと常識的な限界があるだろう。
わざわざ美術館に足を運んで、不快な思いは誰もしたくないが、それを見たい人もまたいるものだ。だから、展示の正当性はないわけではない。
問題は、今回の場合、公的資金が使われていることだ。文科省はたぶん盲判で、問題になって、たまげて取り消した、というところ。大村知事は賛成で、河村市長は反対の座り込みに発展している。
税金の投入というのは、やはり一般の国民の神経を逆撫でしていよう。関係者は交付金の取り消しに抗議しているが、それは考え違いで、お上からお金もらって、お上の悪口をいっているようなものだから、誰も納得しまい。
自由を確保するということは、資金面の独立性があればこそであろう。それがなければ、展示会自体が一人前ではない。それなら天皇陛下の写真を焼いたって文句のいいようがない。野次馬は勝手にやっていろ、という態度である。
それにしても、現代美術のアートのレベルがこの程度とは情けない、と思った人も多いし、まっとうな芸術家は泣いていよう。やはり反日の政治的なプロパガンダを狙った展示で、まともに相手にできる不自由展ではなかった、というのが結論であろうか。
ちょっと見たいのは少女の慰安婦像。アートとしてではなく、鰯の頭もなんとやらで、どんなものでもシンボルになり得る好例として見てみたい。
写真・カメラの情報はhttp://camerajoho.web.fc2.com/を参照。ユーチューブの団塊SONGSや団塊SONGSエッセーもそのページの下部のアイコンから入れます。お楽しみください。
まずトリエンナーレで問題になったのは、その中の展示の一部である「不自由展」。他の展示会で拒否されたアート作品を持ち寄って見せている。なぜ、拒否されたかは、その展示の多くが反日的だからだ。
そうした政治的なプロパガンダが、こうした展示会場にふさわしいかどうか、という議論が必要だ。反日的、左翼的な意図を含んだアートだから拒否する、というのも、中庸ではない。反対にそうしたアートを拒絶することが、ひとつの政治的な意思になるだろう。
だから、アートの業界があるとしたら、やはり政治的に物議を醸す可能性のある表現は、展示をしない、というコンセンサスが必要であろう。アートを大切にする基本的な姿勢が求められる。
今回の場合は、すでにこのトリエンナーレの運営の中に、活動家が入っており、反日的な意図を明確にして展示した、という確信犯的な側面がある。では、中国のチベットやウイグルの弾圧に関するアートを作って、このメンバーが展示できるであろうか。
表現の自由を盾に、なんでも展示してよい、というのは理屈としては分かる。政治的な圧力に抵抗することが、表現の自由を担保するからだが、これも自ずと常識的な限界があるだろう。
わざわざ美術館に足を運んで、不快な思いは誰もしたくないが、それを見たい人もまたいるものだ。だから、展示の正当性はないわけではない。
問題は、今回の場合、公的資金が使われていることだ。文科省はたぶん盲判で、問題になって、たまげて取り消した、というところ。大村知事は賛成で、河村市長は反対の座り込みに発展している。
税金の投入というのは、やはり一般の国民の神経を逆撫でしていよう。関係者は交付金の取り消しに抗議しているが、それは考え違いで、お上からお金もらって、お上の悪口をいっているようなものだから、誰も納得しまい。
自由を確保するということは、資金面の独立性があればこそであろう。それがなければ、展示会自体が一人前ではない。それなら天皇陛下の写真を焼いたって文句のいいようがない。野次馬は勝手にやっていろ、という態度である。
それにしても、現代美術のアートのレベルがこの程度とは情けない、と思った人も多いし、まっとうな芸術家は泣いていよう。やはり反日の政治的なプロパガンダを狙った展示で、まともに相手にできる不自由展ではなかった、というのが結論であろうか。
ちょっと見たいのは少女の慰安婦像。アートとしてではなく、鰯の頭もなんとやらで、どんなものでもシンボルになり得る好例として見てみたい。
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