きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

路上のルール~2010の冬の朝

2013-03-07 21:36:06 | 遠くへ~少しだけ非日常
早朝、夜。そこそこの距離を走るためか、いろいろなものに会う。
下ばかり向いて走っているためか、いろいろなものが目に入ってくる。
糞がある。先日は踏んづけた。目の前を鳥のそれが落ちてきたことは数知れずである。
吐瀉物がある。避けようとして脚をひねりそうになる。
亡骸がある。先日は、猫と目が合った。翌日にはなかった。ちょっとほっとした。
カラスが啄んでいる亡骸も目にした。そのカラスでさえ、路上で息絶えていることもある。
新規開店のコンビニがあり、数ヶ月前に開いたばかりのコンビニが閉店している。
公園では路上生活者の段ボールハウスがいつの間にかできている。どんどん荷物が多くなっていく。
数年前訪れたタイでは、物乞いの姿をあちこちに見た。腕や脚がなかった。本当に脚が無くなっているのか怪しい姿の物乞いもいた。そういえばタイでも儂は歩き回っていた(走ってはなかったか)。
交通地蔵がある。花が生けられている。
ガードレールがある。ぐしゃぐしゃになってもまだそこにある。
いつものサラリーマンが見える。たばこを手に持っている。
いつもの犬が散歩をしている。いない日は不安になる。

日々違うものがあり、日々同じものがある。
昔は畳の上で無くなる、とかいうより、路上で無くなる場合も多かったのではないかと思う。ごくごく当然のこととして。自分の場所っていうのは、それほど多くない頃、路上は自分が存在する上では、とても基本的な立ち位置だったはずだ。そこには生も死もその後もその前もすべてあるような気がする。
自分の場所ではない、自分とは違う他のものと共有し、かといって護り護られるだけではなく、侵害され奪われることすら当たり前のようにある路上のルールは、今も確かに存在するはずだと思う。ただ今は、見えにくくなっているのは事実なんだろう。
昨今、生活していく上で、クルマに乗ることは避けられないが、見えてくるものから遠ざかる、乖離していくということなんかなと思う(クルマでなくても、単車ですらそうかもしれない。ただ単車は暑さ寒さはもろに被ったか。そして、臭いも、か)。
アスファルトは、舗装されていても、決してフラットではない。

約2年前に書き留めていた原稿が見つかった。朝の通勤時、市中心からやや南の駅で下りて北西へ向かい、ちょっとした峠を越える13キロのコースを走っていた時のことである。

暗い中走っていると、いろいろなことを思う。今も変わらず、である。