きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

お葬式

2015-12-25 21:42:00 | 徒然に2014-2015
今日は仕事帰り、脚が前に進まないながらも街へ。

昨日は仕事休み、両親を連れて香川へ謂わばこれも一つの仕事。

親戚の葬儀。急に亡くなったらしい。
告別式から収骨、精進落としまでこなし、一日がかりであった。

「葬儀辺り」では、実際残った者にとって特に関係が近い人ほど、死は観念的ではなく、俗っぽいものであるように思える。兎に角「こなさなければならない」ことが続く。
また関係がほどほどに近い人にとっては、死は身近であり、日常に突然起こる「ハレ」なのかもしれない(葬儀をハレの日とする見方は珍しくない)。

それでも最近は精進落としすら、火葬中に済ませる場合もあると聞く。何せ一時間半。仏教解釈的に有りならそれもまた時代の流れ。
儂自身、火葬中は歳の離れた従兄弟(10以上歳上である方々しかいない)の思い出話を拝聴していたが。故人にまつわる話から、やがて葬式やら供養やら諸手続きやらお金やらの話になり、それだけでは収まらす仕事のこととか、娘の旦那がJリーガー(しかもJ1日本代表2回らしい)だとかいう話になり、結婚式の写真を見せながら、いろいろと。それはもう、いろいろと。

そぐわないようでそういうものなのかもしれないし、それでいいのかもしれない。
親戚ばかりが集まって家族葬に近い葬儀だったが、ウチの親父も含めてかなり歳とった兄弟が集まり。
みんなが集まり厳かに賑やかに見送るのもまたアリなのかもしれない。
死は自分だけのものではない。残った者にとっての死を考えとく必要が、当事者にはあるのだと改めて想う。
呆けず介護もなくぽっくりは理想だが、現実的に残務整理は大変である。何とかノートでも本当に作っとかないかん。昔に比べて、家人も知らない個人の抱えているものって多いのかも。

香川までの片道一時間半の車移動の長かったこと。いい歳の両親、文句も言わず後部座席で休憩無しで。
おかんのお喋りには正直閉口したが。
ただ、他に喋るところもなしそういうものかもしれないし、それでいいのかもしれない。

クリスマスに想う。