大分遠征編目次。
1 往路
2 往路寄り道
3 会場入りから前夜祭、レース後まで
4 本番
5 復路
6 大分FCAに感謝
で今回は本題とも云える4について。
大分までの道のりは長かったと思う。
前年のこと。
コロナが酷いにもかかわらず、大分はめげずに国内大会の形でやるということで案内された。
かなり迷った。出たかった。
仕事の方が結構めんどいことになっていて結局断念したが。
このとき出ていたら、ニッシンの古いタイプのやつで参戦ということになっていた。
それはそれでやってみたかったのだが。
で、1年待って本番の日になる。
スタートまでの時間が正直長くて、しかも事前にもらった資料には、初エントリーとか持ちタイムが下の方から細かく分けられ、そのグループごとに順番に検査とか手荷物とか移乗とか先に済ませるみたいなことが書いてあって、どうするんやろと不安ばかりだった。
幸いというか、その辺りの進め方が想定通りではなく、できる限り後の方で済ませることができた。コロナが落ち着いていた時期だったから、運営側としては、そう「密」を気にしなくてよかったのも背景にあるのかもしれない。
どうやってレーサーをスタート地点まで運ぶのかとか、レーサーに移乗後は乗りっぱなして降りたいときはどうするのかとか、レーサーの「審査」ってどんな感じなのか等、普通にわからなかったことがたくさんあった分、スタートできるのかどうか半信半疑だった。
周りを見ながら、自分も同じようにレーサーを運び、並んだ。
アップだけは冷静に、他の選手の漕ぎ方とか乗り方とかいろいろ見ていた。具体的にどうこうではなく、やはり見るのは大事でこれも収穫。
スタートしてからはあっという間だった。あまりいろいろと考えていた形跡がない。これでは回想録にならんが、これがこれまでのレースとかなり違うところ。
初めから全体のスピードには乗っていけず、クラスを分けず全体でも恐らく最後から10番ぐらいではなかったか。それでも一つでも前にと漕いだ。地力がないから全体の流れからは離れたが前が見えるとスピードが出た。橋の登りで前が大きくなってくると余計にスピードが出た。実際、前との距離が詰まったのは上りの部分(下りで抜かれたこともあったが)。前が「落ちて」くると力が出るのは、元々の「性格の悪さ」なのだろう。勝負するのは自分ではなく他人であるとばかりにこだわった。
で、最後の5キロぐらいで前がいなくなった。最後に抜いた2人に競技場前で抜き返される。
結果を求めず夢中で漕いで15分台でゴール。やはり元市民ランナーなので持久力ならそこそこ勝負できるのではと小学生のマラソン大会の如く始めっから飛ばした結果。後で記録を見たら、競技場前で抜き返された2人のさらに前はというと、3分ぐらい開いたところにいた。そこからは常に前がいるようなタイム差。よって。
まずは後3分、タイムを縮めることが来年に向けての課題になるな、と。順位はそう上がらんからまずタイムだろう。
競技場に入って、フル1位のフグ選手と2位の鈴木選手に抜かれ、世界新誕生の場に変な形で居合わせるというおまけまでついた。
終わってからも兎に角、どこに行けばいいのかからわからず、なかなかだった。
その間、半ば呆然としながら、何をするでもなく過ごした。
PCR検査とかもあり、ゴールの競技場を出たのは2時間余り経ってからだったと思う。バスで漸く駐車場に戻った。途中、レーサーを転がして(運んで)いて転倒させる。まだまだ下手くそ丸出し。
帰り支度をする。いろいろ収穫があった。
そういえば、という感じで、タイヤ交換しといて良かったなあ、と。それも思った。
1 往路
2 往路寄り道
3 会場入りから前夜祭、レース後まで
4 本番
5 復路
6 大分FCAに感謝
で今回は本題とも云える4について。
大分までの道のりは長かったと思う。
来年があるとは考えていないが、かと言って、出るにはいろいろ問題が生じる。今年度は、もう車いすマラソンは無理と諦めていたが。大分国際は、国内のみ対象で実施するらしい。朗報である。しかし、実際行くとなると......
前年のこと。
コロナが酷いにもかかわらず、大分はめげずに国内大会の形でやるということで案内された。
かなり迷った。出たかった。
仕事の方が結構めんどいことになっていて結局断念したが。
このとき出ていたら、ニッシンの古いタイプのやつで参戦ということになっていた。
それはそれでやってみたかったのだが。
で、1年待って本番の日になる。
スタートまでの時間が正直長くて、しかも事前にもらった資料には、初エントリーとか持ちタイムが下の方から細かく分けられ、そのグループごとに順番に検査とか手荷物とか移乗とか先に済ませるみたいなことが書いてあって、どうするんやろと不安ばかりだった。
幸いというか、その辺りの進め方が想定通りではなく、できる限り後の方で済ませることができた。コロナが落ち着いていた時期だったから、運営側としては、そう「密」を気にしなくてよかったのも背景にあるのかもしれない。
どうやってレーサーをスタート地点まで運ぶのかとか、レーサーに移乗後は乗りっぱなして降りたいときはどうするのかとか、レーサーの「審査」ってどんな感じなのか等、普通にわからなかったことがたくさんあった分、スタートできるのかどうか半信半疑だった。
周りを見ながら、自分も同じようにレーサーを運び、並んだ。
アップだけは冷静に、他の選手の漕ぎ方とか乗り方とかいろいろ見ていた。具体的にどうこうではなく、やはり見るのは大事でこれも収穫。
スタートしてからはあっという間だった。あまりいろいろと考えていた形跡がない。これでは回想録にならんが、これがこれまでのレースとかなり違うところ。
初めから全体のスピードには乗っていけず、クラスを分けず全体でも恐らく最後から10番ぐらいではなかったか。それでも一つでも前にと漕いだ。地力がないから全体の流れからは離れたが前が見えるとスピードが出た。橋の登りで前が大きくなってくると余計にスピードが出た。実際、前との距離が詰まったのは上りの部分(下りで抜かれたこともあったが)。前が「落ちて」くると力が出るのは、元々の「性格の悪さ」なのだろう。勝負するのは自分ではなく他人であるとばかりにこだわった。
で、最後の5キロぐらいで前がいなくなった。最後に抜いた2人に競技場前で抜き返される。
結果を求めず夢中で漕いで15分台でゴール。やはり元市民ランナーなので持久力ならそこそこ勝負できるのではと小学生のマラソン大会の如く始めっから飛ばした結果。後で記録を見たら、競技場前で抜き返された2人のさらに前はというと、3分ぐらい開いたところにいた。そこからは常に前がいるようなタイム差。よって。
まずは後3分、タイムを縮めることが来年に向けての課題になるな、と。順位はそう上がらんからまずタイムだろう。
競技場に入って、フル1位のフグ選手と2位の鈴木選手に抜かれ、世界新誕生の場に変な形で居合わせるというおまけまでついた。
終わってからも兎に角、どこに行けばいいのかからわからず、なかなかだった。
その間、半ば呆然としながら、何をするでもなく過ごした。
PCR検査とかもあり、ゴールの競技場を出たのは2時間余り経ってからだったと思う。バスで漸く駐車場に戻った。途中、レーサーを転がして(運んで)いて転倒させる。まだまだ下手くそ丸出し。
帰り支度をする。いろいろ収穫があった。
そういえば、という感じで、タイヤ交換しといて良かったなあ、と。それも思った。