中谷さまの流れから、白洲正子さま。
今月の「家庭画報」(世界文化社)には、こんな記事が載っています。
「古澤万千子の魅力を紐解くー白洲正子との出会い」
きものを着始めた頃、この方のきもの関係のエッセイを読みました。
お書きになったのは70年代なんですね。
いささか古いのと、それこそ「信頼する呉服屋さんがある日、すごいきものを持ってきた」とか、まあ、庶民にはほとんど関係ないことが多い。
その上、きものは「きれいなもの」と思いこんでいたから、紬主体の、その着姿も、それほど興味はありませんでした。
「どんな豪華な衣装でも、ぴったり身について、ふだん着のようにみえればしめたもの。それを着こなしというのです」
そうなんだ、と思いながらも、そのときにはなんだかもったないないような気がしましたね(考え方も変わっていくものです)
エッセイはともかく彼女、薩摩藩の武家の家系で、戦後は伯爵家の令嬢、ご主人はイケメン(好み)の、やはりセレブ。
そんな奥様が骨董に目覚め、評論家小林秀雄やらに「ばか」「アホウ」、店を開けば「魅力のない店だな、やめちまえ」など罵倒され「泣きながらも」食らいついていく。
その果てに、「白洲正子」という人間が出来上がったのですね。
面白かったのはこちら。
「白洲正子のきもの」(新潮社)
この方、柳宗悦(むねよし)の民芸運動「用の美」(日常使うものが美しい)に感化されてきものを着始めただけあって、木綿やら結城やら大島といった、今でいう趣味のきものを着尽くしている。
琉球絣とかそういったものの価値を高めたのは、柳宗悦氏とこの方の力が大きい。
30年代といえば、銘仙やら柔らかものやらが全盛?。そんな時代に地味な紬を、どこにでも、着ていく強さ。ハイソな階級のなかですから、当然、いろんな軋轢はあったようです。
この本のなかで、娘の桂子さんの話が面白い。
「世間のお嬢様がたが振袖や福良雀の時代に、地味なきものに細帯、結び方も文庫、貝の口以外は許してくれなかった」
「こんなババアの着るようなきものは嫌だと思いましたが、今はその良さもわかってきました」
強い母を持つ子どもの苦労?が伝わってきます。
でもこのお嬢様、言いなりになるばかりではなく、
「見てくれで判断していい。妙ななりをしている奴にろくな奴はいない」という母親に、「でも、人にはそれぞれの考え方があり、一方的に批難するのはおかしい」と反論。
「あちら様もあなたを見て、変ななりをしてろくな奴じゃないと言っているよ。
正子さんは「ふん」と鼻先で笑い、どこかに逃げていったそうです。
言いたいことを言い合ってますね
で、正子さんの母親は、典型的な「振袖を着て華族女学校に通っていた」お嬢様。正子さんは「お茶もお香も踊りもお嬢様芸を出ないように見えた遠い存在」と書いています。
母親に反発して、自分の道を切り開いた娘。そしてその娘はまた、母親をチクリ。
母娘関係、興味あります。
娘の桂子さんが、きものに関して、こんなことを書いています。
「(きものを着ると)バッグが肩にかけられない、車の運転に草履は禁止、帯の結び方によっては椅子によりかかれない、簡単に洗濯できない、そして、人様に自分の好みを押しつけるいやらしい人々に出会う~~」
うーん、耳が痛いです。
きもの好きは、悪い男に惚れてしまった女みたい
欠点を超える魅力、あるんですけどね
でも、正子さま、柔らかもの、似合いそうもないです。その容姿は洋服ならハイファッション、和服はぜったいに紬系。
先の白澤さんのきものにしても、価値は認めても下の写真のようなきものは着ない。右の写真のように、部分的に取り入れて自分らしく着ていらっしゃるようです
容姿と趣味と考え(思想)が一致したシアワセな方だと思います。
自分を知り尽くした方の、「これが私だ。文句あるか」という自信は、簡単にできるものではないんですね。
この方のきもの姿を見ていると、趣味や考え(思想)に走りがちなきものですが、逆に体型、容姿の重要さを教えられます。
お嬢様ではないこちらはお嬢様芸にも届かず
きものは一日にしてならず。
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