昨日配偶者が聞き込んできた桜の名所なるところを訪ねてみました。
普通の工場なのですが、桜の時期は一般に開放し駐車場も準備されていました。
今の時期ですから殆どが八重桜や遅咲きの品種が最盛期を迎えていました。
八重桜はソメイヨシノなどと違って遠くからより近づいてみて始めて美しさがわかるものです。
最初は何となく地味な感じだったのですが、品種の多さと一本一本につけられた桜の品種とその由来などの説明札を読むうちに興味が沸き始めました。
植えられた各種の桜は、トンネル状になって遊歩道を形成し、しかもその距離はけっこう長くて、工場の敷地をぐるりと取り巻いており、かなりの本数になります。
日本各地の代表的な桜があり、謡曲の中にも出てくる人物や地名に由来したものも多くて、何となく親しみが湧いてきました。
工場の敷地内には、すでに葉桜になったソメイヨシノなどが集中的に植えられた一角もあって、満開の時期にはきっと素晴らしい眺めだったと想像できました。
よっぽど桜に思い入れのある社長か工場長なのでしょうか、桜に造詣の深い人が責任有る立場にいる会社なのでしょうね。
しかも会社の人は屋内で仕事をしているらしく、まったく敷地内には人影は見えません。
駐車場に張られた小さなテントのなかで作業服を着た若い人が一人桜餅とソフトクリームを静かに売っていましたが、ここの会社の人かどうかは分かりませんでした。
つまり一般的なドンチャン騒ぎ的桜祭りとは趣を異にしておりました。
いくつかの句が掲げられていましたが、西行の「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」が印象的でしたね。
如月(2月)の望月(満月15日)の頃は釈迦入滅の頃とされ、旧暦ですから今なら三月中旬~下旬の頃でしょう。
50代に詠んだ句らしいですが、ほぼ希望通りの時期に亡くなったらしいですね(享年73歳)。
桜に死生観を託す日本人の精神構造の形成に影響を与えた句だと言えると思います。
私も川柳ですから格調は高くないのですが一句詠んでみましょう。
「死んで又別の名前の花になる」
本人だけはえらく気に入っている一句です。
新聞でさりげなく見るものの一つに今日の運勢があります。
生まれ月で、人の運勢が全国一律12種類に大別されてしまうという乱暴なものですが・・・。
しかし今日の運勢は面白かった、笑いましたね。
私は12月生まれで、「嘘が上手につけて仲間内で、重宝がられる日」とありました。
ところで配偶者は1月生まれで、「相手の嘘を見破って、逆転勝利出来る日」とあったのです。
この二人が組めば最強か最悪ということになるじゃありませんか。
あまりの偶然の面白さに、つい配偶者にも今朝の新聞の該当欄を見せてしまいました。
さて、上手な嘘とそれを見破る技に磨きをかけている間に、嘘をつかない季節の庭では、山椒がスクスクと新芽を伸ばし丁度食べ頃になっていました。
木の芽和えなどいいですね。我が家ではこの新芽と削り節やシラス干しを混ぜてフライパンで炒めて、佃煮風にして食べます。
そのまま暖かご飯の上に乗せてもいいし、他の料理の中に混ぜ込んでもいいですね。
香りとピリッと感がたまりません。思わず「日本人に生まれて良かった」・・・と。
新芽がいっぱいの山椒
ピリリと辛い実が落ちて、彼方こちらに小さな芽が出て伸び始めた山椒
ちぎった新芽。
多めに作って、やや水分を飛ばし大部分は冷凍保存しています。
さて、嘘にちなんで一句いってみましょうか。
「大人です上手に嘘とお付き合い」・・・・大人って寂しい生き物ですね。
大人になりたくないという子供の気持ち・・・わかります。
慌ただしい世の中になったものだと思います。
例えば昔は、花の咲く時期だってちゃんと順番が決まっていたように思いますよ。
椿~梅~水仙~桃~桜~ツツジ~藤~菖蒲といったあんばいで・・・・・。
ところが最近はまあまあ、同時に咲いたり時には追い越してみたり・・・・。
藤の花が咲いたなどと聞かされると焦ってしまいます。
毎年訪れる藤の花の名所があるのですが、もう散っちゃいないだろうかなんて。
我が家の庭木の芽立ちもやや前倒しぎみです。
「モミジ」もすっかり新緑の装い
「ハゼ」の新芽も顔を出して・・・。
「小判笹」も今年は大判になろうかという勢いで新芽を伸ばしています
ちなみに、つい三ヶ月ほど前まで穂先に小判をざくざくつけていたものです。
季節を知るには植物を見るのが一番です。
ただしこれはリアルな現実の季節であって、昔の歳時記のようにはいきません。
植物は人間より遙かにリアリストなのですね。温暖化に順応します。
では・・・一句。
「この頃は 馬は見ずとも 馬酔木咲く」
季節の花にもいろいろありますが、種類の多さでは春に咲くものが一番多いのではないかと思います。(他所のHPを見ると夏や秋もけっこう多そうでしたが・・・)
折れた枝を葉っぱだけ花瓶に挿していたら、花芽が出てきてとうとう咲いてしまったのは、三月の中旬でした。
さすがに地面のものは、いまから開花を迎えます。
そんな華やかなメインの陰でひっそりと咲く花もあります。
「春蘭」の花・・・寒蘭のように派手さもなく香りも弱いのですが、その微かな香りと目立たなさがいいですね。自己主張が強いばかりのものが持て囃されるのは如何なものかと・・・。
「ブルーベリー」の花・・・これなんて咲いているのかすら判らないくらいですから・・・。
その隣りにあるのが金柑なのですが、ヒヨドリ作戦で先日までネットを張っていました。
しばらく来なかった「ヒヨドリ」が再度やってくるようになり、金柑の実もとられる前に採ってしまいました。
これで金柑の木も安心して次の花を咲かせることが出来るでしょう。
まだ庭では蝶やミツバチの姿を見かけませんが、やがてやって来てくれるでしょう。
受粉作業は彼らの役目ですから・・・・。
庭の隅では名も無き(本当はあるのでしょうが・・)雑草の花が目立たないように咲いていますね。
ここで一句いきますか・・・「名がなんだ ボケという名の 花も有る」
明日は四月四日、ふる里のお墓では先祖祭が催されます。
新年度が始まりました。会社や学校などは1月1日からの新年より4月の新年度の方がスタートという感じがしますね。
しかし、この頃エイプリルフールの話題は少ないですね。映画や出版の宣伝に利用する向きはあるようですが・・・・・。
近頃は毎日冗談のような事件や事故が起きて、感性の方が麻痺しているような気もします。
さて、冗談でなくて、この頃気になっているのは、「体罰」という言葉です。
あまりに軽易に「体罰」という言葉を、世間は使い過ぎていないかと思うのです。
罰というからには、その前提に「罪」が有るはずですよね。
「罪」を犯した罰として、罰金を払ったり、刑務所に収監されたり、究極の体罰として死刑に処されたりするわけですね。
ところで、学校の部活やスポーツ選手の合宿などで、罪だと言って罰しなければならない犯罪を誰かが犯したのでしょうか?。
罪を犯しているとすれば、「体罰」という名で私刑を執行している指導者側の方ではないのでしょうか。
以前は、「しごき」とか「気合いを入れる」とかいう表現だったかと記憶しています。
内実はどちらも似たような事で、実際は昔もあって今も続いている「弱い指導者の強い指導法」なのですね。
それにしても、安易な言葉の使用がメディアにも多過ぎますよね。
あやふやな造語を一般化させて辞書に掲載させて最先端のつもりなのでしょうか。
罪や罰の概念は曖昧なままに・・・・その場しのぎの生き方は国民病なのでしょう。
さて、今日は4月1日ですが冗談じゃないです、などと断りを入れた冗談を一発放ってみました。
時は春らんまん、花でも眺めて一句ひねってみましょうか。
「満開の桜は風に身を委ね」
今の時期、庭にも花が入れ代わり次々と・・・。
植物は冗談を抜きにしてまじめですね。
手入れ不十分な庭に季節が来れば律儀に花を咲かせてくれます。