白雲去来

蜷川正大の日々是口実

原材料、人情100パーセントの焼酎を頂いた。

2011-07-07 23:00:27 | インポート

七月六日(水)晴れ。

 起床後から、ガァッーと原稿を書いて、その後東京へ。お世話になっている方へご挨拶の後にトンボ帰りで自宅に戻った。

 再び、原稿を書いてから、三時に歯医者。五時に、友人たちと待ち合わせて、福富町の清正公という通りにあるすし屋へ。ここで少し飲んでから、サリーの店に顔を出した。そのまま勢いがついて二軒転戦。行く先々でお祝いのシャンペンを開けて頂き恐縮した。原稿が終わっていないのに、息抜きでチョットさぼってしまった。

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久し振りに大破・轟沈した。

 そういえば、横須賀に住む後輩の久保田准一君から還暦のお祝いにと、大好きな「赤霧島」を頂いた。霧の箱に入ったその「赤霧島」を見て驚いた。何と、瓶に金色で彫りものがしてあったのだ。「命の酒・原材料、人情100パーセント」とある。本当に驚いた。嬉しいが、これでは飲むのがもったいなく、しばらく飾っておくことにした。その久保田君透析で大変らしいが、一日も早い回復を祈る次第です。


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真面目に仕事しました。

2011-07-07 22:37:52 | インポート

七月五日(火)晴れ。

 朝から、原稿書きに追われている。お世話になっいるから新聞作りを依頼されているので、その原稿や校正、デザインとかなり大変な作業である。還暦祝いに来て頂いた方々へのお礼の手紙もかけないうちに、お中元が届いたり、かなりバタバタしている。その間、三田会長のご葬儀の案内状を作ったり、別の友人の原稿を書いたりと、文字通りの八面六臂の活躍である。われながら良く頑張っていると思う。

 深夜三時過ぎまで、原稿書きに追われた。当然休肝日である。何とか、原稿のメドがついた。

 


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お中元の挨拶回りと縁日。

2011-07-07 22:24:39 | インポート

七月四日(月)曇り。

 毎日暑い日が続いている。我が家も節電に協力してクーラーを使用せず、扇風機でしのいでいる。ありがたいことに、我が家は風通しが良いので、しのぎやすい。

 朝十時、志村馨、松本佳展の両君に迎えに来て頂き、日ごろからお世話になっている方へお中元の挨拶回りに出かけた。先ずは、横浜を回り、その後東京へ。

 横浜に戻り、遅い昼食を、横浜橋商店街の名物天丼屋の「豊野」にて。私はご飯を半分にして貰ったが、その分は志村君の方に行った。久し振りの揚げ物である。三時近くに解散。 

 夜は、藤棚商店街という所で行なわれている縁日に下の子供と愚妻を伴って出かけた。私は、この縁日が好きである。別段、何を買うわけでも、飲み食いするわけでもないが、縁日に出かけないと夏を迎えたような気がしない。私が子供の頃は、縁日の屋台の照明は、電気ではなくカーバイトであった。屋台の内容も少々様変わりしたが、基本的にはあまり変わっていない。母に手を引かれながら縁日に行くのが楽しみだった。セルロイドのお面を被ったときの、独特のニオイや綿飴に金魚すくい・・・。縁日は、母の思い出につながる。

 最近は、子供も大きくなって、縁日に行くといってもあまり嬉しそうな顔をしなくなったが、無理やりに連れて行く。季節感が残っている数少ない行事なのだから。

 縁日で、カメ&アコちゃんや、ミッチー橋本、大工のひでチャンたちと合流して「やまと」へ。何でも志村馨君が婚約者を連れて来ていたとか。すれ違いとなった。

 ここで一杯やってから、カメちゃんの馴染みの「一休寿司」へ。鮎の塩焼きなどで一杯やってから解散。


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菊水国防連合の三田会長逝去の報が入る。

2011-07-07 22:07:24 | インポート

七月三日(日)晴れ。

 朝九時、やっとの事で起きた。そういえば、昨夜、地方から来ている社友のリクエストで、夜中のラーメンを食べに行った。もちろん私は食べないが、誰と誰が同行していたか、はっきり憶えていない。お店は覚えている、社友のカメちゃんの叔母さんがやっている、チョー我儘なラーメン屋さん。

 何しろ開店が夜中の十二時で、店の中には「会員制」の看板がある。早い話が、気に入らないお客さんはお断りの印。そんな訳で、解散したのは深夜の二時を過ぎていた。お疲れ様でした。

 十時に、我が家に泊まった栃木社友会の湯浅進君や愚妻を伴って中華街の「安記」へ。松山の矢野隆三会長はじめ社友が八人で、私と愚妻を入れた十名。朝からビールで、モツ皿、レバ皿、シュウマイで迎い酒。最後は五目粥でしめて、記念写真を撮って一応解散。飛行機の時間がある札幌社友会の梶浦直樹氏と日教組大会の反対運動に参加する矢野会長や湯浅君らと「中華飯店」へ行くが、さすがに食べることは出来ずに、紹興酒を少し飲んでからお別れした。

 自宅に戻ってから、昼寝をしていたら、何と菊水国防連合の三田忠充会長が亡くなられたとの知らせ。脳梗塞で倒れてから回復を祈っていたが、残念なことである。五月には、やはり菊水国防連合の小早川久之総裁が亡くなられたばかりなのに、何ということか。三田会長は、彼がこの運動に入った当時からお付き合いをさせて頂いている。神奈川の民族派は、大きな二人の指導者を失ったことになる。心からご冥福をお祈りする次第です。

 夜は、依頼されている原稿にとりかかり、深夜の二時過ぎまで真面目にパソコンに向っていた。


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還暦のお祝いを行ないました。

2011-07-07 18:28:14 | インポート

七月二日(土)曇り。還暦祝い。

 本来は、私の誕生日である、三月二十一日に行なう予定であった「還暦の祝い」を、東北地方の大震災の発生で延期をした。百ケ日を過ぎた今日の日を選んだのには訳がある。

 百ケ日は、卒哭忌(そっこくき)ともいい、「哭」は、声をあげて泣きさけぶ、「卒」は、終わる、という意味で、故人を思い、泣き悲しんでいた親族や近親者たちも泣くことをやめる頃、それが百箇日を迎える頃だ、ということから卒哭忌といわれるようになったことを、随分前に本で読んだことがあった。

 自粛、自粛では商売をしている人たちはたまらない。中華街も、地震直後から、働きに来ていた中国人の従業員が帰国してしまい、老舗でも五十人以上の宴会が出来ないという状態が続いていたと聞いた。私も、人生の区切りであるし、これからどれほど元気でいられるのか分からない。震災で亡くなられた方々の卒哭忌も過ぎたことでもあるしと、敢えて開催させて頂いた。

 本当に、親しくさせて頂いている方々少数と思っていたのだが、この人にも来て頂きたい、あの人にもと、人選をしている内に百名を超してしまった。有り難くも、申し訳ない気持ちで一杯である。特に、社友会の皆さんにはお世話になった。記念にと、モンブランの万年筆を頂いたり、特注のケーキ、お花、そして大熊雄次氏の所の従業員の方からは、特製の赤いスタジャンまで頂いた。普段、彼達には何もしていないのに、このサプライズには感激をした。

 更には、愚妻にまでも気を遣って頂き恐縮している。ご参列を頂いた皆様の名前を挙げて感謝をしたいのは山々だが、それも大変なので、この場をお借りして、御礼を申し上げます。

 特に、サリーとパパたちの「ファミリー」の皆さん。同級生や、日頃お世話になっているマスコミの方々。もちろん同憂、同志の皆さん。個人的に私を支えて頂いている方々に感謝申し上げます。札幌、新潟、栃木、岐阜、愛知、京都といった遠方から出席頂いた社友の皆さん。松山の矢野隆三会長にも感謝を申し上げます。いい友人に恵まれていると思っています。

 打ち上げの席に、来て頂いたカシアス内藤さんにも感謝しております。恩師である野村先生よりも長生きをしていることに忸怩たる思いもありますが、「生かされている」と言うことを大事にしたいと思っております。今後共、ご厚誼の程を伏してお願い致します。

 又、出席予定ではありましたが、透析のために欠席なされました久保田准一、小林勝久の両氏のご健康を願わずにはいられません。

Dscf3581 ※法事の為、心参された元週刊実話の編集長、下村勝二さんから頂いた蘭。陋屋には似合わないが、とてもリッチな気持ちになりました。有難うございます。


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