十一月二十二日(木)晴れ。
以前、このブログに渥美清の主演で昭和三十八年に公開された「拝啓天皇陛下様」をBS見て、その続編があるらしいと書いた。しばらくすると千葉在住の運動家の竹内恒夫さんからその続編のDVDを送って頂いた。
失礼ながら、連日の酒で頭が少々腐っているので、どうも人の名前や顔を覚えられない。その竹内さんから、今度は、「拝啓天皇陛下様」の文庫をご恵送頂いた。添えてあった手紙には、福田邦宏さんや丸川仁、小針政人の両氏と言った正統派の行動右翼の方々の共闘して運動しているとあった。大行社の会議の席で丸川氏に報告すると、「舟川氏とも親しいですよ」。それでは当然お会いしているに違いない。蜷川、丸川、内川、木川に舟川・・・。なぜか皆「川」が付き、共通点は揃って酒にだらしない。
それはさておいて、文庫本を送られた時に、まず自身の不明を恥じた。私は、「拝啓天皇陛下様」は、「男はつらいよ」のように、映画のために書かれた脚本とばかり思っていたのだ。まさか原作があるなどとは思ってもいなかった。
原作者の、棟田博氏は、自己の体験を元に戦争を描いた小説家。いわゆる兵隊作家のひとり。明治四十二年十一月、岡山県津山市に生まれる。岡山津山中学校を経て、早稲田大学文学部国文科を中退する。地元に帰り、短歌同人に参加するなど、文学青年の道を歩む。
昭和三年に徴兵検査甲種合格、1昭和四年一月、岡山歩兵第十連隊に現役兵として入営する。 時の連隊長は「俊秀雲の如し」と言われた陸軍士官学校十六期生のなかでも、特に逸材との噂の高い小畑敏四郎大佐であった。一年志願兵(のちの幹部候補生)の資格が有るにもかかわらず軍務に就き、伍長勤務上等兵として昭和五年十一月に満期除隊。上京して文学活動を模索する。
昭和十二年、二十九歳の後備役のときに日中戦争が勃発し、八月に赤柴部隊の上等兵として「第五動員の甲」により応召。八月末に出征。山東省に上陸し、歩兵分隊長として徐州会戦に参加する(作戦中に伍長に昇進)。十二月、済南に入城し、津浦戦線を経て、昭和十三年五月、台児荘の戦闘で重傷を負う。青島陸軍病院から内地還送、原隊の未教育補充兵の助教を務めたのちに除隊した。
同時期、手紙を通して長谷川伸に師事し、長谷川の勧めにより自身の体験を「分隊長の手記」として雑誌『大衆文芸』昭和十四年に発表する。掲載中のうちから作品は単行本化され、たちまちベストセラーになる。昭和十七年、同作で野間文芸奨励賞を受賞。
昭和三十年に発表した『サイパンから来た列車』が評判になる。ついで「拝啓天皇陛下様」がベストセラーになり、昭和三十八年には主演渥美清、監督野村芳太郎で映画化され,大いに話題を呼ぶ。翌年には続編も作られた。昭和六十三年四月、茅ヶ崎市において肺癌のため死去。
このような方を全く存じ上げていなかったとは、全くの不覚、不勉強も甚だしいと反省している次第です。古書店に頼んで棟田氏の全集を購入する予定でいる。
「拝啓天皇陛下様」は、日中戦争時代の、軍隊と言ってもまだのんびりさが感じられる軍隊生活が描かれている。陰湿さやいじめなども、嫌な書き方をされておらず、同じ軍隊の内務班を描いた「二等兵物語」とは大違いだ。
伊藤桂一の解説がまた良い。「戦後、日本国民は、ひどい敗戦ノイローゼに陥ち込み、善悪のしっかりしたけじめがつかず、おかげで、いかがわしい、反軍反戦小説や、暴露的読み物が反乱した。日本の軍隊、ことに中隊長以下の下級兵士らは、善戦敢闘して力尽きたので、日本人は、本来なら、これらの将兵たちに、歓呼と称賛を贈るべきだったのである。むろん軍閥に対する憤りはあったと思うが、最高指導層の職業軍人と、真に国家や民族のために悪戦苦闘した下級の将兵とは、全く別個な見方、評価をしなければならなかった。それだのに、敗戦ノイローゼは、戦後五十年を経てさえなおつづいていて、今次大戦を一方的な侵略戦争としてしか考えられず、政治家は、外国から一言いわれれば、たちまち謝っている。しかし外国は、日本の戦力、実働した将兵の気魄と戦闘意欲に対しては、正しい認識と評価を贈ってくれている。日本国民だけが、日本の軍隊を、誹りつづけてきたのである。天に向けて唾を吐き続けてきた、愚かなしぐさではなかったろうか。」と書いている。
この本を原作とした映画は、正に渥美清のための映画と言っても過言ではない。このような作家のいたことを知らずにいた自分が恥ずかしい。
夜は、カメちゃんが「颯」に一人でいるとのことなので、急襲。牡蠣料理を食べながら二人で痛飲。それでも九時過ぎには自宅に戻った。
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